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残響魔術(エコー・コード)  作者: 天音シオン
第三部  調律者と世界の真実

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第52章 選別の論理

第52章 選別の論理



 中枢星コア・スターでの決戦から一週間。世界は、かつてない混乱の渦中にあった。

 国連の中枢に潜んでいた秘密結社「調律者」の存在と、彼らが主導した「魔法発現計画」の真実が、対魔局の手によって全世界に公表されたからだ。


 青い空が戻ったはずの東京の街並みは、しかし、どこか重苦しい空気に包まれていた。

 街頭の大型ビジョンには、連日のように調律者の悪行を糾弾するニュースが流れ、SNSでは「魔法適性」の有無を巡る激しい論争が巻き起こっている。


「……これが、彼らの遺した『真実』か」


 対魔局本部の最深部、シロのメインサーバーが置かれた管理室で、神代蓮はモニターに映し出された膨大なデータ群を見つめていた。

 隣には、氷のような瞳に複雑な光を宿した結月、そして険しい表情のアランと凛音が並んでいる。


 モニターには、調律者が「プロジェクト・ゲノム・アーク」と名付けた計画の詳細が記されていた。

 そこには、魔法発現が自然現象ではなく、特定の周波数の「コード」を全世界のネットワークを通じて強制的に脳へ書き込むことで引き起こされた、人為的な進化であることが証明されていた。


『……解析を続行します。……調律者のデータベースから、彼らの基本理念を記したマニフェストが復元されました』


 シロの声が、静かな部屋に響く。

 画面が切り替わり、一つの冷徹な文章が浮かび上がった。


『人類の進化は、平等の名の下に停滞した。……弱者を救うための社会システムは、種としての活力を奪い、資源を枯渇させる。……我々は、魔法という新たな力を選別のふるいとし、真に価値ある人間のみで構成される新世界を創造する』


「……真に価値ある人間、だと?」


 アランが、吐き捨てるように言った。

 その拳は、怒りで白くなるほど握り締められている。


「魔法が使えるか使えないかで、人間の価値が決まるってのかよ。……ふざけるな」


「……彼らの論理は、極めてシンプルで、それゆえに残酷です」


 背後から、紗綾局長が歩み寄ってきた。

 彼女の肩には、まだ前回の戦いで負った傷の包帯が巻かれているが、その足取りは確かだった。


「調律者は、魔法適性を『新時代の生存資格』と定義しました。……適性のない人間、あるいは適性が低く社会に貢献できない人間は、資源を消費するだけの『不要な存在』として、段階的に排除していく計画だったのです」


「排除って……殺すってことですか?」


 凛音が、震える声で尋ねる。


「直接的な殺戮だけではありません。……魔法適性者のみが享受できる特権階級を作り上げ、非適性者を経済的、社会的に孤立させる。……そして最終的には、中枢星から放射される特殊な波長によって、非適性者の生殖能力を奪い、あるいは寿命を削ることで、一世代のうちに彼らを絶滅させる。……それが、彼らの描いた『選別の論理』です」


 管理室に、凍り付くような沈黙が流れた。

 それは、単なる悪意という言葉では片付けられない、生命そのものに対する冒涜だった。



「……俺たちは、そんな奴らと戦っていたんだな」


 蓮が、静かに口を開いた。

 共鳴剣の柄に触れる。その剣は、多くの人々の想いと共鳴し、調律者の本体を貫いた。

 だが、彼らが世界に植え付けた毒は、本体が消えた今もなお、世界を蝕み続けている。


「局長、世界政府の反応はどうなっているんですか? ……調律者の正体がバレた今、彼らも黙ってはいないでしょう」


「……表向きは、どの国も調律者との関わりを否定し、彼らを『国際的なテロ組織』として非難しています。……ですが、実態は異なります。……多くの国の政府高官や富裕層が、調律者から『魔法適性者としての特権』を約束され、計画に加担していました」


 紗綾局長は、モニターの一部を指し示した。

 そこには、世界各国の有力者のリストと、彼らが調律者に提供した資金や施設の記録が並んでいた。


「彼らにとって、調律者の思想は都合が良かったのです。……自分たちが選ばれた人間であり、他者を支配する正当な理由を与えてくれるのですから。……今、彼らは証拠隠滅に必死ですが、同時に、調律者が遺した『魔法技術』を独占しようと、水面下で激しい争奪戦を繰り広げています」


「……結局、何も変わってないじゃない」


 結月が、冷たく言い放った。


「黒幕がいなくなっても、人間が人間を選別しようとする本能は消えない。……魔法という力が、その本能を加速させただけ」


「……結月」


 蓮は、彼女の横顔を見た。

 彼女の瞳には、深い絶望と、それを覆い隠そうとする諦念が混ざり合っていた。

 結月自身、魔法発現によって家族を失い、自らも「感情の喪失」という重い代償を背負わされた被害者だ。

 彼女にとって、調律者の論理は、自分の人生を滅茶苦茶にした理不尽そのものだった。


『……緊急入電です。……新宿地区にて、大規模な暴動が発生しました』


 シロの警告音が、重苦しい空気を切り裂いた。

 メインモニターに、新宿駅前のライブ映像が映し出される。


 そこには、魔法適性を持つ若者たちのグループと、魔法を使えない市民たちが激しく衝突する光景があった。


「……魔法が使えない奴は、旧人類だ! ……これからは俺たちの時代なんだよ!」


 魔法使いの若者が、手のひらから火花を散らしながら叫ぶ。

 対する市民たちは、プラカードを掲げ、石を投げつけていた。


「魔法使いは化け物だ! ……俺たちの仕事を奪うな! ……街から出て行け!」


 警察が出動しているが、魔法を使った暴力の前には無力に等しい。

 火の手が上がり、悲鳴が響き渡る。


「……選別の論理が、街に溢れ出している」


 蓮は、迷うことなく背を向けた。


「局長、出動許可を。……これ以上、調律者の思い通りにさせてたまるか」


「……分かっています。……特務部隊、直ちに出動しなさい。……目的は暴動の鎮圧、および市民の保護。……魔法の使用は最小限に留め、双方に犠牲者を出さないように」


「了解!」


 蓮、結月、アラン、凛音の四人は、管理室を飛び出した。



 新宿の街は、戦場と化していた。

 至る所で魔法による爆発が起き、煙が立ち込めている。


「……ひどいな、これは」


 アランが、空中にホログラムディスプレイを展開し、周囲の魔力反応をスキャンする。


「あちこちで魔力が暴走してる。……特にあそこ、アルタ前が一番ひどい。……強力な魔力反応が三つ。……おそらく、覚醒したばかりの魔法使いが暴れてるんだ」


「……私とアランで、周囲の避難誘導と火災の消火に回るわ。……蓮と結月は、暴走してる魔法使いを止めて」


 凛音が、的確に指示を出す。

 彼女は既にライフルを構え、非殺傷の電磁弾を装填していた。


「分かった。……行くぞ、結月!」


「……ええ」


 蓮と結月は、群衆をかき分け、アルタ前へと突き進む。

 そこでは、三人の若者が、周囲の建物を破壊しながら笑い声を上げていた。


「ハハハ! ……見てろよ、この力! ……俺は選ばれたんだ! ……神に選ばれた魔法使いなんだよ!」


 リーダー格の男が、両手から巨大な炎の球を放とうとしていた。

 その先には、逃げ遅れた親子が腰を抜かして座り込んでいる。


「……やめろ!」


 蓮が、瞬時に間に入り、共鳴剣を抜いた。

 剣身が青白く発光し、放たれた炎の球を真っ向から切り裂く。


「……あ? ……なんだよ、お前。……対魔局か?」


 男が、忌々しそうに蓮を睨みつける。


「邪魔すんなよ。……俺たちは、この腐った世界を掃除してやってるんだ。……魔法も使えないゴミ溜めをな!」


「……ゴミ溜めだと?」


 蓮の瞳に、静かな怒りが宿る。


「お前が使っているその力は、誰かを掃除するために与えられたものじゃない。……調律者という奴らが、人間を仲違いさせるためにバラ撒いた毒だ」


「うるせえ! ……理由なんてどうでもいいんだよ! ……力が全てだ! ……強い奴が生き残り、弱い奴が消える! ……それが世界の真理だろ!」


 男が、再び炎を練り上げる。

 今度は、先ほどよりも遥かに巨大な、禍々しい黒炎だった。


「……『選別の論理』に、魂まで染まったか」


 結月が、一歩前に出た。

 彼女の周囲の温度が、急激に下がり始める。


「……あなたのその力、私が凍らせてあげる」


「やれるもんならやってみろよ、氷女!」


 男が黒炎を放つと同時に、結月が地面を蹴った。


「……『氷華・万華鏡アイス・ミラー』」


 空中に無数の氷の鏡が現れ、黒炎を複雑に反射させながら、その威力を削ぎ落としていく。

 男が驚愕に目を見開いた隙に、結月は懐に飛び込み、男の胸元に手を触れた。


「……『絶対零度・封印アブソリュート・シール』」


 一瞬にして、男の全身が薄い氷の膜に覆われた。

 炎は消え、男は凍り付いたように動けなくなる。


「……な、なんだ……力が……出ない……」


「……あなたの魔力回路を、一時的に凍結したわ。……一時間は魔法を使えないはずよ」


 結月は、冷たく言い放つと、残りの二人にも視線を向けた。

 二人の若者は、リーダーがあっさりと倒されたのを見て、腰を抜かして逃げ出そうとした。


「……逃がさないわ」


 結月が指を鳴らすと、二人の足元が凍り付き、地面に縫い付けられた。


「……蓮、終わったわ」


「……ああ、助かった」


 蓮は、剣を鞘に収め、怯えていた親子に駆け寄った。


「大丈夫ですか? ……怪我はありませんか?」


「……あ、ありがとうございます……」


 母親が、震える声で答える。

 だが、その瞳には、感謝と共に、蓮たちに対する「恐怖」の色が混ざっていた。

 蓮たちが魔法を使って暴徒を鎮圧した光景は、彼女たちにとって、また別の「魔法使いの脅威」に見えたのかもしれない。


 蓮は、その視線に胸を締め付けられるような思いがした。

 調律者が遺した爪痕は、あまりにも深く、鋭い。



 暴動は、数時間をかけてようやく鎮圧された。

 だが、新宿の街に残された傷跡は、物理的な破壊以上に深刻だった。


 対魔局のセーフハウスに戻った蓮たちは、泥のように疲弊していた。


「……どこに行っても、同じね」


 凛音が、コーヒーのカップを両手で包み込みながら呟いた。


「魔法使いは非適性者を蔑み、非適性者は魔法使いを恐れ、憎んでいる。……調律者がいなくなっても、彼らが作った『壁』はどんどん高くなっている気がするわ」


「……それが、あいつらの狙いだったんだ」


 アランが、タブレットの画面を見つめたまま言った。


「シロの解析で分かったんだけど、調律者は魔法発現を引き起こす際、脳の特定の部位……『他者への共感』を司る部分に、微弱な負荷をかけるようなコードを組み込んでいたらしい。……つまり、魔法を使えば使うほど、人間は他者に対して攻撃的になり、排他的になるように設計されていたんだ」


「……そんなことまで……」


 蓮は、愕然とした。

 魔法という力そのものが、人間性を破壊するための装置だったというのか。


「……でも、蓮の『残響』は違うわ」


 結月が、蓮の目を見て言った。


「あなたの力は、他者の魔法と共鳴し、その想いを繋ぐ力。……調律者が作った『壁』を壊せるのは、その力だけかもしれない」


「……俺の、力……」


 蓮は、自分の手を見つめた。

 これまで、ただ必死に戦うために使ってきた力。

 だが、これからは、戦うためだけではなく、壊された世界を繋ぎ止めるために使わなければならない。


『……蓮さん。……紗綾局長から、至急の連絡です』


 シロの声が、静寂を破った。


『……調律者の残党と思われるグループが、政府の極秘研究施設「エリア0」を襲撃しました。……そこには、魔法発現の初期段階で行われた、非人道的な実験の記録が保管されているとのことです』


「……実験の記録?」


 蓮の脳裏に、嫌な予感が走った。


「……ええ。……そして、その施設には、結月さんのご家族に関するデータも含まれている可能性があるそうです」


 結月の体が、びくりと震えた。

 彼女の瞳に、隠しきれない動揺が走る。


「……私の、家族……?」


「……行くぞ」


 蓮は、立ち上がった。


「調律者の論理が、どれほど残酷なものだったのか。……その証拠を、これ以上奴らの好きにはさせない。……そして、結月の過去に何があったのか、俺たちが突き止めるんだ」


「……蓮……」


 結月は、小さく頷いた。

 彼女の瞳には、恐怖を上回る、強い決意が宿っていた。


 特務部隊は、再び夜の闇へと消えていった。

 「選別の論理」という名の呪縛を断ち切るための、新たな戦いが始まろうとしていた。




 「エリア0」は、奥多摩の山中、深い森に隠された地下施設だった。

 かつては政府の気象観測所として登録されていたが、その実態は、調律者の息がかかった科学者たちが、魔法発現の「プロトタイプ」を人間で試していた地獄のような場所だ。


 深夜、激しい雨が降りしきる中、蓮たちは施設の入り口へと到着した。


「……警備ロボットが全滅してる。……先客は、かなり手荒な真似をしたみたいね」


 凛音が、スコープ越しに施設の入り口を観察しながら言った。

 無残に破壊された自動機銃や、焼け焦げた装甲板が散乱している。


「……魔力反応、感知。……施設の深部で、激しい戦闘が行われています。……反応は二つ。……一つは調律者の残党、もう一つは……」


 シロが、一瞬言葉を濁した。


『……不明です。……既存のデータベースにない、極めて特異な波長です』


「……不明? ……シロでも分からないのか?」


 アランが、驚きの声を上げる。


「……とにかく、中に入るしかない。……結月、大丈夫か?」


 蓮が隣を見ると、結月は施設の入り口をじっと見つめていた。

 その体は、雨のせいだけではなく、微かに震えているように見えた。


「……大丈夫。……ここに来れば、何かが分かる気がするの。……私が、どうして感情を失ったのか。……あの日、何が起きたのか」


「……俺がついてる。……行こう」


 蓮は、結月の手をそっと握った。

 彼女の手は、驚くほど冷たかったが、蓮が握り返すと、少しだけ力がこもった。


 四人は、暗い通路を突き進んだ。

 壁には、魔法による焦げ跡や、鋭い刃物で切り裂かれたような痕跡が刻まれている。

 奥へ進むほど、空気は重く、淀んでいった。


 やがて、巨大な円形ホールに出た。

 そこは、かつて実験体たちが収容されていたと思われる、無数のカプセルが並ぶ異様な空間だった。


「……何よ、これ……」


 凛音が、絶句した。

 カプセルの中には、今もなお、異形へと変わり果てた「元人間」たちの残骸が、ホルマリン漬けのように保存されていた。


「……これが、調律者の言う『選別』の結果か」


 アランが、怒りに声を震わせる。


「適性がないと判断された人間を、無理やり魔法に適応させようとして……失敗したら、こうして標本にする。……人間を何だと思ってるんだ!」


「……あそこに、誰かいるわ」


 結月の鋭い声が響いた。

 ホールの中心、巨大なメインコンピューターの前に、数人の影が立っていた。


 白い防護服を着た男たちと、その中心に立つ、漆黒のコートを纏った男。

 男は、コンピューターからデータをダウンロードしているようだった。


「……そこまでだ、調律者の残党!」


 蓮が叫び、共鳴剣を抜く。


 黒コートの男が、ゆっくりと振り返った。

 その顔には、不気味な仮面が着けられており、表情を読み取ることはできない。


「……対魔局か。……中枢星を破壊した英雄たちが、こんな掃き溜めに何の用だ?」


 男の声は、合成されたかのように無機質だった。


「……そのデータを渡してもらおう。……それは、お前たちが独占していいものじゃない」


「……独占? ……ふん、勘違いするな。……我々は、この忌まわしい記録を、正しく『活用』しようとしているだけだ。……調律者の意志は、彼らが消えても死なない。……魔法という力が存在する限り、選別は続くのだからな」


 男が手をかざすと、周囲の空気が歪んだ。


「……『重力崩壊グラビティ・フォール』」


 凄まじい圧力が、蓮たちを襲った。

 地面が陥没し、蓮たちは膝をつきそうになる。


「……くっ、重力魔法か!」


 アランが、即座にカウンターのコードを打ち込む。


「……『電磁干渉・斥力展開リパルジョン・フィールド』!」


 アランの周囲に青い電磁障壁が展開され、重力の圧力を相殺する。

 その隙に、凛音がライフルを放った。


「……『雷光弾ライトニング・ボルト』!」


 高速の雷撃が男を襲うが、男は動じることなく、指先一つでそれを弾き飛ばした。


「……無駄だ。……私の魔法は、事象そのものを歪める。……未熟な魔法使いの攻撃など、届きはしない」


「……なら、これはどう?」


 結月が、氷の礫を無数に放ちながら、男の死角へと回り込む。


「……『氷葬・百花繚乱アイス・コフィン』!」


 男の足元から巨大な氷の柱が突き出し、その体を閉じ込めようとする。

 だが、男は冷笑を浮かべた。


「……『空間断裂スペース・カット』」


 氷の柱が、まるで見えない刃で切り裂かれたように、一瞬で粉々に砕け散った。


「……なっ!?」


 結月が驚愕に目を見開く。

 その瞬間、男の姿が消えた。


「……後ろだ、結月!」


 蓮が叫ぶのと同時に、男が結月の背後に現れた。

 その手には、どす黒い魔力の刃が握られている。


「……消えろ、不完全な実験体よ」


 刃が結月に振り下ろされようとしたその時、蓮の共鳴剣が間に割り込んだ。


ギィィィィィィンッ!!


 激しい火花が散り、蓮と男の魔力が正面から衝突する。


「……不完全な実験体だと? ……結月を、そんな言葉で呼ぶな!」


 蓮の全身から、青白い魔力が溢れ出す。

 「残響」の力が、男の歪んだ魔力と共鳴し、その本質を暴き出そうとする。


「……ほう。……これが、あらゆる魔法と共鳴する『残響』か。……面白い。……だが、貴様の力もまた、調律者が作り出した『最高傑作』に過ぎないのだよ」


 男が力を込めると、蓮は数メートル後方へと弾き飛ばされた。


「……蓮!」


 結月が駆け寄る。


「……大丈夫だ。……それより、あいつ……」


 蓮は、男を睨みつけた。

 男の魔力は、これまでの敵とは明らかに異質だった。

 まるで、世界そのものの法則を書き換えているような、圧倒的な違和感。


「……私の名は『執行者』。……調律者が遺した、最後の選別者だ」


 男……執行者が、静かに告げた。


「今日は顔見せに過ぎない。……データは頂いた。……次に会う時は、貴様たちの『価値』を、真に審判してやろう」


 執行者の姿が、霧のように薄れていく。


「……待て!」


 蓮が手を伸ばすが、執行者はそのまま空間に溶けるように消え去った。



 執行者が去った後、ホールには静寂が戻った。

 だが、蓮たちの心には、拭い去れない不安が残っていた。


「……執行者。……調律者は、まだあんな怪物を隠し持っていたのか」


 アランが、悔しそうに地面を叩く。


「……シロ、データの流出は?」


『……メインサーバーの約40%がコピーされました。……特に、初期の実験体リストと、魔法発現の「鍵」となるコードの一部が盗まれたようです』


「……最悪ね。……あんな奴にそんなものが渡ったら、また何が起きるか分からないわ」


 凛音が、ライフルの手入れをしながら溜息をつく。


 一方、結月は、執行者が操作していたコンピューターの前に立ち尽くしていた。

 その画面には、まだいくつかのデータが残っていた。


「……結月?」


 蓮が声をかけると、結月は震える指で画面を指差した。


「……見て、蓮。……これ」


 画面には、一人の少女の写真と、その詳細なプロフィールが表示されていた。

 少女の名前は「水無月結月」。


 そして、その横に記された実験コードは……。


「……『プロジェクト・レクイエム。……感情の完全排除による、純粋魔力回路の構築実験』」


 結月が、その文章を読み上げる。

 彼女の声は、感情を失ったはずの彼女にしては珍しく、激しく震えていた。


「……私の感情は、悲しみで失われたんじゃない。……あいつらに、奪われたんだ。……魔法を強くするために、邪魔な心を、切り捨てられたんだわ」


 結月の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 感情を失ったはずの彼女が、初めて見せた、本当の涙。


「……結月……」


 蓮は、彼女を強く抱きしめた。

 彼女の体は、氷のように冷たく、そして、壊れそうなほどに震えていた。


「……許さない。……絶対に、許さないぞ、調律者」


 蓮の心の中で、かつてないほどの怒りが燃え上がった。

 それは、自分たちの人生を弄び、大切なものを奪い去った「選別の論理」に対する、魂の叫びだった。


 奥多摩の深い森に、蓮の怒りの咆哮が響き渡る。

 雨は、止むことなく降り続いていた。





【第52章終了】



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