第1章:灰色の空と残響
第1章:灰色の空と残響
一
2032年。世界は変わった。
変わったのは、ある朝突然のことだった。
目を覚ました人々が空を見上げると、そこには雲ではなく、幾何学的な模様や数式のような光の痕跡が漂っていた。まるで宇宙の設計図を誰かが空に貼り付けたかのように、それは静かに、しかし確かに存在していた。青白く、あるいは金色に輝くその光の線は、見る者によって形が違った。数学者には精緻な方程式に見え、音楽家には五線譜のように見え、子供には落書きのように見えた。しかし誰もが、それが「何か重要なもの」であることを本能的に感じ取った。
人々はそれを「式」と呼ぶようになった。
式を視認し、その意味を理解した者は、現実の法則を書き換える力を手に入れた。それが「魔法」だ。
最初は誰もが半信半疑だった。指先に小さな火を灯せる程度の者がほとんどで、世界が根本から変わったとは誰も思っていなかった。ニュースは「原因不明の光学現象」として報じ、政府は「調査中」と繰り返すだけだった。しかし、魔法が現れてから数ヶ月後、横浜で起きた「暴走魔法災害」が全てを変えた。一人の人間が制御を失い、都市の一角を消し飛ばした。死者は三千人を超えた。
その日から、魔法は兵器と同義になった。
現在では、強弱の差こそあれ、基本的に全人類が何らかの魔法を使えるようになっている。魔法の強さは才能ではなく「適性」で決まる。IQとも運動神経とも違い、「世界の法則をどれだけ深く認識できるか」が鍵となる。そのため、昨日までただの引きこもりだった青年が、今日には軍隊を壊滅させる力を持つこともある。逆に、鍛え抜かれた軍人が、路地裏の子供に敵わないこともある。学者、音楽家、精神を病んだ者、幼い子供。社会の枠組みから外れた者たちほど、高い適性を持つ傾向があった。
また、極限状態などで魔法が「覚醒」し、突如として強大な力を得るケースも存在した。覚醒した者の力は通常の何倍にも跳ね上がるが、その代償もまた跳ね上がる。覚醒は制御できるものではなく、当人にとっても予測不能な現象だった。
政府はすぐに動いた。魔法使用者を国家資格制で管理する「魔法適応社会」を構築し、無許可の魔法使いを取り締まる「魔法犯罪対策局」、通称「対魔局」を設立した。無許可での魔法使用は重罪。しかし裏社会では、違法に魔法を使う傭兵や犯罪者が後を絶たなかった。
雨宮蓮は、そんな世界の中で生きていた。
二
東京の空は、今日もどんよりとした灰色だった。
十月の夕暮れ時、冷たい風が高層ビルの谷間を吹き抜けていく。蓮はビルの屋上から眼下の街を見下ろしていた。黒いコートのポケットに両手を突っ込み、錆びついた手すりに寄りかかりながら、深く息を吐き出す。白い息が風に溶けて消えた。
眼下には、夕暮れ時の雑踏が広がっている。サラリーマン、学生、老人。誰もが当たり前のように、指先に小さな光を灯したり、荷物を魔法で浮かせたりしながら歩いていた。魔法は今や、生活の一部だ。コンビニの看板は魔法で動く光の文字に変わり、タクシーの運転手は渋滞を見越して魔法で道路の状況を読み取る。五年前には想像もできなかった光景が、今では当たり前になっていた。
しかし蓮の目には、その「当たり前」が酷く歪んで見えた。
「……標的は確認したか?」
耳に付けた通信機から、無機質な声が響く。
「ああ、確認した。第4ブロックの廃ビルに逃げ込んだ。違法魔法使い(イリーガル)だ。炎系の適性持ちで、強さはそこそこといったところか」
蓮は短く答え、屋上の縁から身を乗り出した。眼下の廃ビルは、再開発の波に乗り遅れた古い雑居ビルだ。窓ガラスは割れ、外壁には落書きが残っている。しかし今は、その中から微かに炎の光が漏れていた。
「単独行動は規則違反です。援護が来るまで待機してください」
通信機の向こうから、別の声が割り込んだ。柊結月。今日から蓮の相棒として配属された新人エリートだ。声は落ち着いていて、感情の起伏が感じられない。
「待ってる間に、また誰かが傷つく」
蓮は通信機を切り、屋上から飛び降りた。
廃ビルの外壁に手をかけ、窓枠を足場にしながら、素早く下へ降りていく。三階分を数秒で降りきり、地面に着地した。膝が軽く痛んだが、構わず廃ビルの入口へと向かう。魔法で身体能力を強化しているわけではない。ただ、長年の訓練で身に付けた身体能力だ。蓮は魔法に頼りすぎることを嫌っていた。それには理由があった。
廃ビルの入口は、鉄製の扉が半ば崩れかけていた。蓮はそれを静かに押し開け、中に入る。
焦げた臭いが鼻を突いた。
床には炭化した木材が散乱し、壁には黒い焦げ跡が残っている。天井の一部が落ちており、外の薄暗い空が覗いていた。足元には、割れたガラスの破片が散らばっていて、踏むたびに小さな音を立てた。蓮は息を殺し、足音を立てないよう慎重に進んだ。
「出てこい。逃げ場はないぞ」
蓮の声が、コンクリートの壁に反響する。
しばらく沈黙が続いた。遠くで車のクラクションが聞こえる。風が廃ビルの隙間を抜け、低い唸り声のような音を立てた。
やがて、暗がりから足音が聞こえた。
現れたのは、三十代半ばほどの男だった。ぼろぼろの服を着て、目は血走っている。頬には深い傷跡があり、唇は乾いて荒れていた。生活に疲れ果てた人間の顔だ、と蓮は思った。その両手には、赤黒い炎が揺らめいていた。炎は不安定に揺れており、制御が完全ではないことが分かる。
「対魔局の犬が……! 俺の邪魔をするな!」
男が叫ぶと同時に、巨大な火球が蓮に向かって放たれた。廃ビルの暗がりが、一瞬昼間のように明るくなる。
蓮は一歩も動かなかった。
彼の目は、男が放った炎の軌道と、それを構成する「式」を正確に読み取っていた。炎の式は単純だ。空気中の酸素と熱を結びつけ、連鎖的に燃焼を引き起こす。強度は中程度。コピーするのに大きな負荷はかからない。
「……『残響』」
蓮が小さく呟くと、彼の右手に男と同じ赤黒い炎が灯った。
「残響」。それが蓮の魔法だ。他人が使った魔法の「式」の痕跡を読み取り、一度だけ再現する。完全なコピーではなく、劣化版だ。元の魔法より威力は落ちるが、それで十分だった。そして、戦えば戦うほど手札が増えていく。
「なっ……お前、俺の魔法を!?」
驚愕する男に向けて、蓮は炎を放ち返した。二つの火球が空中で激突し、爆風が廃ビルを揺らす。天井の破片がぱらぱらと落ちてきた。
煙が晴れると、男は壁に叩きつけられ、気を失っていた。その体は壁に沿ってずり落ち、床に座り込む形になっている。
蓮は男に近づき、脈を確認する。強く打ちはしたが、命に別状はない。手錠をかけようとした時、背後から足音が聞こえた。
「任務完了。対象を無力化した」
蓮は通信機に報告しながら、ズキリと痛む頭を押さえた。強力な魔法をコピーすればするほど、身体への負荷は大きい。こめかみの奥に、熱を持ったような鈍い痛みが走る。そして何より、彼の魔法には残酷な代償があった。
(……また、少し消えたか)
妹の結衣と最後に交わした会話の記憶が、霧のように薄れていくのを感じる。何を話していたのか。笑っていたのか、泣いていたのか。輪郭だけが残り、中身が空洞になっていくような感覚だ。
魔法を使うたびに、大切な記憶が削られていく。それでも、彼は戦うことをやめられない。妹の死の真相を、国家の闇を暴くために。
「お疲れ様、雨宮隊員」
背後から声がした。振り返ると、そこには凛とした佇まいの少女が立っていた。
柊結月、十九歳。対魔局の新人エリートであり、今日から蓮の相棒として配属された少女だ。黒髪を一つに束ね、制服をきっちりと着こなしている。その表情は、どこか感情を押し殺したように見えた。目は涼しく、口元は真一文字に結ばれている。しかし、その目の奥に、何かを必死に抑えているような光があることに、蓮は気づいていた。
「柊か。遅かったな」
「あなたが勝手に先行するからです。規則違反ですよ」
結月は冷たい声で言いながら、気絶した男に手錠をかけた。その動作は無駄がなく、訓練された手際の良さが見て取れた。彼女の周囲の空気は、微かに冷気を帯びている。彼女の魔法「氷結」の影響だ。空間の熱を奪い、氷の刃や防壁を作り出す能力。代償として、使い続けると感情の起伏が乏しくなり、体温が低下していく。対魔局でも屈指の強さを誇るが、その代償は彼女自身を少しずつ変えていた。
「規則なんて守ってたら、死人が増えるだけだ」
蓮は吐き捨てるように言い、廃ビルを後にした。
外に出ると、雨が降り始めていた。灰色の空から落ちる冷たい雨が、蓮の頬を濡らす。街灯の光が雨粒に反射して、路面に無数の光の点を作り出していた。
「……行きましょう。次の任務が待っています」
結月が傘を差し出しながら言った。
蓮は無言で頷き、雨の中を歩き出した。
三
対魔局の本部は、新宿の高層ビルの中に設けられていた。
外観は普通のオフィスビルと変わらない。しかし内部には、魔法犯罪に対応するための最新設備が整っている。各フロアには、魔法の式を解析するための機器や、違法魔法使いを収容するための特殊な拘束装置が並んでいた。壁には常に「式」の解析データが投影されており、隊員たちはそれを見ながら任務の計画を立てる。
蓮と結月は、報告書の作成のためにオフィスに戻っていた。
無機質な蛍光灯の光が照らすオフィスには、キーボードを叩く音だけが響いている。他の隊員たちも黙々と作業をこなしていた。誰もが疲れた顔をしている。魔法犯罪は日々増加しており、対魔局の隊員たちは常に過重労働を強いられていた。
「雨宮隊員、先ほどの戦闘での『残響』の使用回数は一回ですね。代償の進行度は?」
結月がモニターから目を離さずに尋ねる。
「……問題ない。規定値内だ」
蓮は短く答え、コーヒーを一口飲んだ。苦味が口の中に広がるが、記憶の欠落による喪失感を紛らわすことはできない。
「あなたの魔法は強力ですが、リスクが高すぎます。コピーした魔法を使うたびに記憶が削られていく。そんな代償を払い続けていたら、いつか取り返しのつかないことになります」
「俺の戦い方に口出しするな」
蓮は結月の言葉を遮り、立ち上がった。椅子が床を引っ掻く音が、静かなオフィスに響いた。
「報告書は任せる。少し外の空気を吸ってくる」
結月の反論を聞く前に、蓮はオフィスを出た。
屋上に出ると、雨はすでに上がっていた。濡れたコンクリートの床が、夜の光を反射している。雲の隙間から、微かに星が見える。しかし、その星の光さえも、空に浮かぶ「式」の輝きにかき消されそうだった。式は夜になると特に鮮明に見える。昼間は太陽の光に紛れて薄く見えるが、夜は青白く、あるいは金色に輝いて、まるで夜空の一部のように見えた。
蓮はポケットから古い写真を取り出した。スマートフォンの画面ではなく、紙に印刷した古い写真だ。角が折れ、少し色褪せている。そこには、笑顔の少女が写っている。
雨宮結衣。蓮の妹だ。
一年前、彼女は「暴走魔法災害」に巻き込まれて死んだ。公式発表では、制御を失った魔法使いが引き起こした事故とされている。しかし蓮は知っていた。その事件に、国家が関与していた証拠を。
「結衣……」
写真を見つめる蓮の目に、強い決意の光が宿る。
妹の死は、単なる事故ではない。国家が隠蔽している「何か」が関わっている。その真実を暴くまで、彼は立ち止まるわけにはいかないのだ。たとえ、その過程で全ての記憶を失ったとしても。
「こんなところで油を売っている暇があるのかしら?」
背後から聞こえた声に、蓮は振り返った。
そこには、対魔局の部隊長である神宮寺紗綾が立っていた。二十四歳。黒いスーツに身を包み、長い黒髪を後ろで束ねている。その目は鋭く、しかしどこか疲れたような色を帯びていた。彼女の足元には、微かに重力の歪みが見える。彼女の魔法「重力」の影響だ。指定した空間の重力を操る能力で、その力は対魔局でも最上位に位置する。しかし、その代償として、彼女の身体の自由は徐々に奪われつつあった。
「部隊長……」
「次の任務よ。新宿区の歌舞伎町で大規模な魔法テロの兆候がある。すぐに出撃準備を」
紗綾の言葉に、蓮は写真をポケットにしまい、頷いた。
「了解しました」
「それと」
紗綾は立ち去ろうとした蓮を呼び止めた。
「柊結月を連れていきなさい。あの子は優秀よ。あなたが思っている以上にね」
蓮は何も答えず、屋上を後にした。
四
歌舞伎町の繁華街は、すでにパニック状態に陥っていた。
ネオンサインが砕け散り、アスファルトが抉れ、建物の外壁が崩れ落ちている。炎や氷、雷など、様々な魔法が飛び交い、人々は悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。路上には、逃げ遅れた人々が倒れている。遠くから消防車と救急車のサイレンが近づいてくるが、まだ現場には届いていない。
「これが……魔法テロ……」
隣に立つ結月が、息を呑む。その表情は普段と変わらないが、わずかに目が見開かれていた。
現場に到着した蓮と結月は、すぐに状況を把握しようとした。テロリストは三人。それぞれ炎、雷、風の魔法を使っている。一般市民への被害を最小限に抑えながら、無力化しなければならない。
「俺が前に出る。お前は後方から援護しろ」
「了解です。ただし、無茶はしないでください」
「保証はできない」
蓮は答えながら、戦場へと飛び込んだ。
最初のテロリストは、炎を操る若い男だった。二十代前半に見える。周囲の建物に次々と火をつけ、逃げ惑う人々を追い立てている。その目には、狂気とも恐怖ともつかない光が宿っていた。
「そこまでだ」
蓮の声に、男が振り返る。
「対魔局か! 来るな!」
男が炎の壁を作り出し、蓮の行く手を阻む。高さ三メートルほどの炎の壁が、路上に立ちはだかった。熱気が蓮の顔を焼く。しかし蓮の目は、その炎を構成する「式」を既に読み取っていた。
「『残響』――炎壁」
蓮が呟くと、彼の手から同じ炎の壁が生まれた。二つの炎の壁が激突し、互いを打ち消し合う。爆風が路上を駆け抜け、周囲の看板が吹き飛んだ。
「なっ……!」
炎が消えた瞬間、蓮は一気に距離を詰めた。男が次の魔法を発動しようとするより早く、蓮は男の鳩尾に拳を叩き込んだ。魔法を使わない、純粋な格闘技だ。男は「ぐっ」と呻き声を上げ、膝をつく。さらに蓮は男の首筋に手刀を落とし、意識を刈り取った。
「一人目、無力化」
蓮は通信機に報告しながら、次のターゲットへと視線を向けた。
二人目は、雷を操る女だった。三十代ほどで、高い建物の上から、周囲に雷撃を放ち続けている。その雷は、避難しようとする市民にも容赦なく降り注いでいた。路上に雷が落ちるたびに、地面が焦げ、人々の悲鳴が上がる。
「くっ……!」
蓮は走りながら、女が放った雷の「式」を読み取る。雷の式は複雑だ。大気中の電荷を操作し、放電を引き起こす。炎の式より遥かに精緻で、コピーするには相応の集中力が必要だった。
(……頭が痛い。でも、やるしかない)
「『残響』――雷撃」
蓮の手に、青白い電流が走る。それを女に向けて放つと、女は驚いて雷撃を止めた。
「お前も……私の魔法を……!?」
「お前の魔法は貰った。ありがとうな」
蓮は皮肉を言いながら、建物の外壁を駆け上がった。女が再び雷撃を放つが、蓮は身を翻してかわし、女の背後に回り込む。首筋に手刀を叩き込むと、女は意識を失って崩れ落ちた。蓮は咄嗟に女の腕を掴み、屋上から落ちないよう支える。
「二人目、無力化」
しかし、その瞬間、蓮の頭に激しい痛みが走った。
こめかみを鉄の棒で殴られたような、鋭い痛みだ。視界が一瞬歪む。
(……また、消えた)
今度は何の記憶だろう。結衣と一緒に食べた夕食か。それとも、妹が初めて魔法を使えた日の笑顔か。記憶の輪郭だけが残り、中身が空洞になっていく。まるで、大切な本のページが一枚ずつ破られていくようだ。
魔法を使うたびに、記憶が削られていく。それが「残響」の代償だ。他人の魔法をコピーするという行為は、蓮自身の「式」を少しずつ書き換えていく。そして、書き換えられた「式」が削るのは、蓮の中で最も大切なもの――妹との記憶だった。
「雨宮隊員!」
結月の叫び声が聞こえた。
振り返ると、三人目のテロリストが蓮に向かって突進してきていた。風を操る大柄な男だ。その手から放たれた風の刃が、蓮の頬を掠める。鋭い痛みと共に、血が滲んだ。
「ちっ……!」
蓮は後退しながら、男の魔法の「式」を読み取ろうとした。しかし、先ほどの連続使用で頭が痛む。集中力が落ちている。式の輪郭が、霞んで見えた。
「させません!」
その時、男の足元が突然凍りついた。
結月だ。後方から氷結の魔法を放ち、男の動きを封じた。凍りついた足元から氷が這い上がり、男の膝まで覆っていく。氷は白く、冷たい光を放っていた。
「うっ……! 動けない……!」
「今です、雨宮隊員!」
結月の声に、蓮は素早く動いた。動けなくなった男の顎に拳を叩き込み、意識を刈り取る。男は糸が切れたように崩れ落ちた。
「三人目、無力化。任務完了」
蓮は荒い息を吐きながら、結月に視線を向けた。
「……助かった」
「お互い様です」
結月は短く答えた。その表情は相変わらず無表情に近いが、蓮には微かに安堵の色が見えた気がした。
五
テロリストを拘束し、現場の後処理を終えた蓮と結月は、近くのコンビニで一息ついていた。
蓮はホットコーヒーを手に、店の外に出た。夜の歌舞伎町は、先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っている。遠くで消防車のサイレンが聞こえた。路上には、戦闘の痕跡が生々しく残っていた。焦げた地面、砕けたアスファルト、割れた窓ガラス。それが、この世界の日常だ。
「あなたは、なぜ対魔局に入ったんですか?」
隣に立った結月が、唐突に尋ねた。
蓮は少し驚いたが、すぐに表情を戻した。
「お前には関係ない」
「関係あります。私はあなたの相棒です。あなたのことを知らなければ、連携が取れません」
結月の言葉は論理的だ。感情ではなく、理屈で話す。そういう性格なのだろう。あるいは、感情が薄れていく代償の影響で、感情より理屈を優先するようになったのかもしれない。
蓮はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「妹が死んだ。一年前の暴走魔法災害で」
「……それは、ご愁傷様です」
「同情はいらない。俺が知りたいのは、あの事件の真実だ。公式発表では事故とされているが、俺はそれを信じていない」
結月は何も言わなかった。ただ、蓮の言葉を静かに聞いていた。夜風が二人の間を吹き抜けていく。
「国家が何かを隠している。その証拠を掴むために、俺は対魔局に入った。内側から調べるためにな」
「……それは、危険な考え方です」
「分かってる」
「でも」
結月は少し間を置いた後、続けた。
「私も、あなたに協力します。真実を探ることが、最終的には多くの人を守ることに繋がるなら」
蓮は結月を見た。その表情は相変わらず無表情に近い。しかし、その目の奥には、確かな意志の光があった。
「……なぜ、そんなことを言う?」
「私の魔法は、使うたびに感情が薄れていきます。いつか、何も感じられなくなるかもしれない。だから今のうちに、正しいと思うことをしておきたいんです」
蓮は何も答えなかった。ただ、コーヒーを一口飲み、夜空を見上げた。
空には、相変わらず「式」が浮かんでいる。世界の設計図。その中に、妹の死の真実も、きっと刻まれているはずだ。
「……よろしく頼む、柊」
「はい。よろしくお願いします、雨宮隊員」
二人は並んで夜の街を見つめた。それが、雨宮蓮と柊結月の、本当の意味での出会いだった。
六
その夜、蓮が自室に戻ると、スマートフォンに通知が届いていた。
対魔局が支給した端末ではなく、私物のスマートフォンだ。差出人は「橘凛音」。蓮が裏社会で繋がりを持つ、違法魔法使いのハッカーだ。
メッセージの内容は短かった。
「今夜の歌舞伎町の件、見てたよ。あのテロリストたち、ノクスの末端じゃないかな。会って話したい。いつもの場所で」
蓮は画面を見つめ、小さく息を吐いた。
ノクス。違法魔法使いによる組織で、その目的は「魔法使用者による国家転覆」とされている。対魔局が追い続けている組織だ。しかし蓮には、ノクスと国家の間に何らかの繋がりがあるという直感があった。
(……ノクスが動き始めた、か)
蓮はコートを羽織り、部屋を出た。
「いつもの場所」とは、新宿の外れにある古い喫茶店だ。深夜でも営業しているその店は、裏社会の情報交換の場として知られていた。店の外観は古びていて、看板の文字は半分消えかかっている。しかし中に入ると、コーヒーの香りが漂い、柔らかい照明が落ち着いた雰囲気を作り出していた。
店に入ると、奥のテーブルに橘凛音が座っていた。
二十一歳。黒縁の眼鏡をかけ、薄い笑みを浮かべている。その目は、常に何かを観察しているように見えた。テーブルの上には、コーヒーカップと、薄型のノートパソコンが置かれている。
「久しぶり、蓮くん」
「凛音。ノクスの件、詳しく話せ」
蓮は向かいに座り、単刀直入に切り出した。
「相変わらず挨拶もなしか」
凛音は苦笑しながら、スマートフォンを取り出した。画面には、複雑な数式のような「式」が表示されている。彼女の魔法「電脳」は、電子機器やネットワークに直接干渉し、情報を書き換える能力だ。その力で、彼女は裏社会の情報を収集していた。代償として、使い続けると視力が低下していく。今も彼女の眼鏡は、視力矯正のためではなく、魔法の代償による視力低下を補うためのものだった。
「今夜のテロリストたちのスマートフォンを遠隔で解析した。通信記録に、ノクスの暗号通信が残っていた。間違いない、ノクスの指示で動いていたんだ」
「ノクスの目的は?」
「今夜の件は、おそらく陽動だよ。本命は別にある」
凛音は声を落とした。店内の他の客には聞こえないほどの、低い声だ。
「蓮くん、あなたが探している妹さんの件。ノクスが関わっているという証拠が出てきた」
蓮の目が鋭くなった。
「……どういうことだ?」
「一年前の暴走魔法災害。あれは事故じゃない。ノクスが意図的に引き起こした可能性が高い。そして、政府もそれを知っていた上で、事故として処理した」
「なぜ政府が……」
「それが分からないから、私も調べてるんだ。でも一つ、確かなことがある」
凛音は蓮の目を真っ直ぐに見た。眼鏡の奥の目が、真剣な光を帯びている。
「ノクスのリーダー、黒崎ジン(くろさき じん)。あの男が、全ての鍵を握っている」
蓮は拳を握りしめた。
黒崎ジン。その名前は、蓮も知っていた。ノクスを率いる謎の人物。その素性は不明で、対魔局でも全容を把握できていない。しかし、今夜の歌舞伎町でのテロ。そして、一年前の妹の死。全てが、その男に繋がっているとしたら。
「ジンを見つけるには、どうすればいい?」
「ノクスの動きを追うしかない。今夜の件は始まりに過ぎない。これからもっと大きな動きがある」
凛音はスマートフォンをしまい、立ち上がった。
「私も協力する。情報は流す。でも蓮くん、一つだけ約束して」
「何だ?」
「死なないで。あなたが死んだら、真実を暴く人間がいなくなる」
蓮は短く答えた。
「努力する」
「それで十分だよ」
凛音は薄く笑い、店を出た。
一人残された蓮は、冷めたコーヒーを見つめた。
妹の死の真実。ノクスと政府の繋がり。そして、黒崎ジンという男。
全てが繋がっている。その糸の先に、何があるのか。
蓮は立ち上がり、店を出た。夜の街に、「式」が静かに浮かんでいる。青白い光が、濡れたアスファルトに映り込んでいた。
(俺は必ず、真実を掴む。たとえ全ての記憶を失っても)
その決意と共に、雨宮蓮の戦いは、静かに幕を開けた。
【第1章終了】
【第1章登場魔法・用語解説】
「式」:2032年以降、空中に現れるようになった幾何学的な光の痕跡。これを視認・理解することで魔法が使える。強弱はあれど、現在では全人類が何らかの形で認識できる。昼間は薄く、夜は青白く輝いて見える。
「残響」:雨宮蓮の魔法。他人が使った魔法の式の痕跡を読み取り、一度だけ劣化コピーとして再現する。強力な魔法をコピーするほど身体への負荷が大きく、代償として蓮の記憶が少しずつ削られていく。戦えば戦うほど手札が増えるが、その分失う記憶も増えていく。
「氷結」:柊結月の魔法。空間の熱を奪い、氷の刃や防壁を作り出す。代償として、使い続けると感情の起伏が乏しくなり、体温が低下していく。
「電脳」:橘凛音の魔法。電子機器やネットワークに直接干渉し、情報を書き換える。代償として、使い続けると視力が低下していく。
「重力」:神宮寺紗綾の魔法。指定した空間の重力を操る。代償として、使い続けると身体の自由が徐々に奪われていく。
「覚醒」:極限状態などで魔法の適性が急激に高まり、通常の何倍もの力を発揮する現象。ただし代償もまた跳ね上がる。制御できるものではなく、当人にとっても予測不能な現象。
「対魔局」:魔法犯罪対策局の通称。無許可の魔法使用者を取り締まる国家機関。
「ノクス」:違法魔法使いによる組織。目的は「魔法使用者による国家転覆」とされている。リーダーは黒崎ジン。
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