ラスト/一家離散/Sideカシアン
差し押さえ──?
なぜ、そんな話になる?
「え……は……まさか……いや……まさか……離婚届を?
いや、それは流石にあり得ないか。
だって君は後がないんだし。
なぜ爵位を売るなんて話になるんだ?」
僕の声は震えていた。
その時だった。
「離婚どころか、もう再婚してますよ」
マルセラが言った次の瞬間、廊下からヘルマンが現れた。
彼の腕には、小さな赤子が抱かれている──マルセラにそっくりの。
「っ! い、意味がわからない……離婚するなんて一言も聞いてない……。
勝手に届け出したのか! なぜ?!
こっちは命がけで戦ってたっていうのに裏切ったな!」
叫んだ瞬間、私兵たちが僕の両腕を掴んだ。
暴れる僕を押さえつけ、玄関から引きずり出す。
マルセラは、ただ静かに見ていた。
その茶色い瞳には、もう僕への情など一欠片もなかった。
僕は叫んだ。
怒鳴った。
足をばたつかせた。
だが兵士たちは容赦なく、僕を地下牢へと連れていった。
湿った石の匂いが鼻につく。
僕は格子を握りしめ、怒鳴った。
「なんだこれ……僕は領主だぞ! こんなこと許されないぞ!」
声は虚しく響くだけだった。
そこへ、マルセラが現れた。
格子の隙間から、淡々と書類を差し入れてくる。
「ドレイモンド子爵家への貸付を、一括返還請求します。
この邸宅は、すでに私の名義。
ただ、爵位の売買だけは本人のサインか裁判所の差し押さえが必要なの。
邸宅みたいに当主代理権では譲渡できない」
僕の血の気が、一気に引いた。
言葉が出ない。
マルセラは、そんな僕を見て、静かに言った。
「別に、いいわ。今すぐ爵位を売らなくて」
「え……」
助かったのか?
そう思った瞬間──
「取り立ての厳しいことで有名なゴルザ侯爵に債権を売るわ」
心臓が止まった。
ゴルザ侯爵。
取り立ての鬼。
返済が遅れれば、家族ごと破滅させることで有名な男。
僕は格子にすがりついた。
「ま、待ってくれ……マルセラ……!」
だが彼女は、もう僕を見ていなかった。
マルセラは僕を無視して、隣の牢屋へ移動した。
そこにはターニャと子ども達が押し込まれている。
マルセラは書類を差し入れ、淡々と告げた。
「不貞の慰謝料を請求します」
「え、何で? そっちだって再婚してるじゃない!」
ターニャが叫ぶ。
「カシアンとの婚姻中に、私が不貞した証拠はあるの?」
マルセラの声は冷たかった。
「私は、あなたが情夫と結託し“首を絞められてることにして”元夫のテントに入ったところから今まで──全部、知ってるわ」
ターニャの顔から血の気が引いた。
「そこにサインしないなら、私への不敬罪と不法侵入で鞭打ちにします」
「ひっ……!」
「言っておくけど、鞭の傷が原因で命を落とす確率は80%──そのくらい打つから覚悟することね」
ヘルマンが無言で鞭を持ってくる。
兵士がターニャを引きずり出す。
「待って! 書くわ! 書きます!」
ターニャは震える手でサインした。
マルセラがそれを受け取ると、兵士たちはターニャと子ども達を連れていった。
「待て! どこへ連れてくんだ!」
僕は格子にしがみついて叫んだ。
思考がショートしていたが、家族の危機を前に我に返った。
マルセラは振り返り、書類を見せてきた。
「奴隷商に売るのよ。
ここに“本人と子ども達が奴隷商に買われた額を慰謝料とする”って書いてあるでしょ」
よく見ると、小さな字で書いてあった。
焦って読んだら見落とすような場所に。
「こんなの詐欺だ!」
叫んだ瞬間──バシャ!
マルセラが、僕に冷水を浴びせた。
氷のような水が全身を打ち、息が止まる。
「空き地にテントを張って執務に必要な書類を運ぶから、あなたはそこで仕事をしてちょうだい。
私は今日をもって領主代理権を返却するから、もう領地経営とは無関係よ」
頭が理解を拒否する。
──テント? 執務? 返却?
マルセラが階段をのぼり、姿を消した。
兵士たちが牢の鍵を開け、僕を外に引きずり出した。
馬車に乗せられ、城下町の外れへ運ばれる。
そこには、ぽつんとテントが張られていた。
周囲には草しかない。
風が吹くたび、布がばさばさと揺れる。
次々と書類が運び込まれ、兵士が淡々と説明した。
「領主様の私物は、マルセラ様が売却したため1つもありません。
こちら公金となりますので、盗まれないようご注意ください」
──何だって? 1つもない?
僕は耳を疑った。
「我々は兵舎をマルセラ様から借りていますので、そちらの賃料もお忘れなく。
執務官は元々マルセラ様の実家から来られた方たちなので、お帰りになりました。
ヘルマン様は辞任されました」
つまり──
「政務は全て領主様が1人で行ってください」
兵士はそう言って、さらに紙束を差し出した。
「こちらはマルセラ様の当主代理権と領主代理権の返却状です」
僕の手は震えていた。
何が起きているのか、理解できない。
「では、見張りの兵を5名残し、後は兵舎に引き上げます。
──失礼します」
兵士たちは整然と去っていった。
残されたのは、見張りの兵と、風に揺れるテントだけ。
しばらくすると、王宮の使いが馬でやってきた。
僕の前に立ち、冷たい声で告げる。
「領主交代を命じる。
現状、領地経営の続行不可と判断した。
また、このような事態を引き起こした責任を鑑みて爵位を剥奪する」
頭が真っ白になった。
直後、また兵が来てテントと書類、公金をすべて回収していった。
残ったのは──
戦地から持ってきた荷物だけ。
ターニャもいない。
子ども達もいない。
マルセラもいない。
家も、爵位も、金も、誰もいない。
僕はただ、空き地の真ん中で立ち尽くした。
冷たい秋風が吹き抜ける。
何が起きているのか、本当に分からなかった。
夢なんじゃないか?
悪夢……。
しばらく動けずいたが──とにかく寝る場所が必要だ。
僅かに残った荷物を抱えて、城下町の宿屋へ向かった。
しかし──
「マルセラ様のヒモだったくせに!
裏切って全て失ったクズ元領主なんて泊めないよ」
女将は、僕の顔を見るなり門前払いした。
「あんた、誰のおかげでまともな生活できたと思ってるの?
あんたが先祖代々の蓄財と商会を売った金を全部ギャンブルに突っ込んだのは、みんな知ってるんだからね」
僕は言葉を失った。
「あんた、1回でも自分じゃなくて領地のこと優先したことあるの?
マルセラ様はあんたの代わりに、ずっと領地のために働いてたよ」
女将の声は怒りに震えていた。
「あんたみたいなクズは、この土地から出て行きな!」
扉がバタンと閉まった。
その後、どこへ行っても同じ対応だった。
誰も僕を泊めてくれない。
誰も僕を助けてくれない。
しかし──母なら助けてくれると思った。
最後の望みをかけて、母が入っている老人ホームへ向かった。
しかし、受付の職員は淡々と言った。
「先日、亡くなられましたよ。
連絡がつかなかったので、共同墓地へ埋葬しました」
頭が真っ白になった。
「……え? なんで……」
「それと、費用の未払い分がありますので、こちらにサインを」
差し出された紙には、未払いの金額がずらりと並んでいた。
支払いが止まったのは、出兵した年の冬から……。
つまり、ターニャと同居を始めた頃。
僕は母のことを、完全に放置していた。
マルセラが支払ってくれていると、勝手に思い込んでいた。
でも、そんなわけがない。
あの頃から、僕はもう見限られていたのだ。
知らなかった。
本当に、何も知らなかった。
金額がとても払いきれるものではなかったので、正直にそう言った。
すると職員は淡々と告げた。
「給料から天引きしますので、払い終わるまでここで働いてください」
問答無用で拘束された。
行くところがない僕には、逃げようがなかった。
こうして僕は、老人ホームの汚物処理係として3年働いた。
便槽の掃除、汚れた寝具の処理、排泄物の片付け──
毎日、臭いが体に染みついた。
そして、ようやく解放されたが、手元には一銅貨も残らなかった。
行く当てもなく、とぼとぼ歩いていると──
レストランからターニャが出てきた。
平民にしては上等な服を着て、髪もきれいに整えている。
「ターニャ! ターニャ、無事だったのか?!」
僕は駆け寄った。
家族として、ずっと心配していた。
子ども達も、どうなったのか気が気じゃなかった。
しかしターニャは、他人を見るような目で言った。
「ああ、あなた……」
え?
そのリアクションは何だ?
僕は夫だぞ?
ターニャは、僕を路地裏へ連れていった。
「今度から私のこと見かけても、絶対に話しかけてこないで」
「え、なに言ってる? 家族なのに。
それより子ども達は、どうした?」
「知らないわよ。みんな別々に売り飛ばされたんだから」
頭が真っ白になった。
「知らないって……無責任じゃないか」
ターニャは、僕を睨みつけた。
「無責任は、あんたでしょ!
あんたが甲斐性なしだから、こんな目に遇ったのよ。ふざけないで!」
その言葉は、刃物より鋭く胸に刺さった。
「それは……」
都合が悪くなったので、話題を切り替えた。
これは大事な案件だ。
「そうだ、聞きたいことがあったんだ。
あの、マルセラが言ってた“情夫”って何のことだ? 僕のテントにって?」
ターニャは、大きくため息をついた。
「まだ、そんなこと言ってんの。呆れた」
「え?」
ターニャは、まるで馬鹿を見るような目で僕を見た。
「兵士の1人と口裏合わせて、あんたに取り入ったのよ。
あんたから貰った給与の一部を、その兵士に渡してたの」
何を言ってるんだ?
「は? 首絞められるって……嘘だったのか?」
「当たり前でしょ。
首に痣がないんだから、見ればわかるでしょうよ」
「あ……」
言葉が出なかった。
あの時、僕は本気で心配して……。
助けたつもりで……いや、助けたと思い込んで……。
全部、利用されていただけだったのか。
「あんたみたいのが、よく領主様と結婚できたわね」
ターニャは鼻で笑った。
マルセラは3年前、女子爵となり、この土地の新領主に任命された。
「あんたは領主様と結婚したことで、一生分の幸運を使い果たしたのよ。
最初から身の丈にあった相手と結婚しておけば、ここまで落ちぶれなくて済んだのに」
胸が締め付けられた。
言葉が出てこない。
そこへ、使用人が駆け寄ってきた。
「ターニャ様、ご主人様がお探しです」
ターニャは、すぐに表情を切り替えた。
上品な微笑みを浮かべ、使用人に頷く。
「すぐ行くわ」
そして僕に向き直り、冷たく言い放った。
「いい? 私は奴隷から愛人まで成り上がったの。
もう2度と邪魔しないでね」
踵を返し、元妻は去っていった。
その背中は、もう僕を“知り合い”とすら思っていない。
路地裏に残された僕は、ただ呆然と立ち尽くした。
ターニャもいない。
子ども達もいない。
母もいない。
マルセラもいない。
家も、爵位も、金も、ない。
僕は放心しつつ、フラフラ歩いていった。
マルセラに離婚されたと知ってから、状況を受け入れるのに2ヶ月かかった。
そのあとの時間は、ターニャたち家族のことを思って耐えてきた。
それなのに……。
歩いていると、だんだんと腹が立ってきた。
マルセラと結婚したことで、一生分の幸運を使い切ったんじゃない。
ターニャという毒婦に出会ってしまったから、運が尽きたのだ。
あの女め……!
それにしても、奴隷から愛人まで成り上がるなんて。
彼女が自分に取り入った過程を思い出す。
──あれを真似すれば、僕にもできるんじゃないか?
ターニャは、もう40だ。
それでも愛人になれた。
僕は、まだ31。
マダムの愛人になれば、貴族のように暮らせる。
食事も、寝床も、金も、全部手に入る。
ターニャができたんだ。
僕にできないはずがない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
まだ終わっていない。
僕の人生は、ここからまたやり直せる。
マルセラの邸宅に向かった。
かつて自分の家だった場所。
門番に訪問の理由を告げると、怪訝な顔をされたが取り次いでくれた。
しばらく待たされてから、応接室に通された。
マルセラとヘルマンが入ってくる。
反射的にヘルマンに掴みかかりそうになったが、グッとこらえた。
主君の妻に手を出すなんて──!
僕ばかり責められるのは、おかしいだろう。
こいつは領主の妻を奪っておいて、お咎め無し……。
でも、今それを言うわけにはいかない。
マルセラは椅子に座り、淡々と口を開いた。
「愛人業をやりたいと?」
「ああ。昔、君が言っていただろう。
『王都に行ってマダムの愛人になり、情報と金を貰え』と」
マルセラがヘルマンと顔を見合わせる。
その動作も表情も腹が立つ。
僕の妻なのに。
「いいわ。手配する」
「え、本当に? ありがとう!
やっぱり君は、僕のことを愛してたんだね。
ターニャのやつに、君は『僕を愛してない』なんて吹き込まれたけど、あれは間違いだった」
感動した僕は、マルセラの手を握ろうとした。
だが、ヘルマンが、それを無言で遮った。
そして──
「使用人部屋に連れていって商品に仕上げろ」
メイドたちが動き出し、僕の両腕を取った。
商品──
僕の前で言うのは少し乱暴じゃないかと思ったが、それを言うと追い出されるので抵抗しない。
これから僕は、愛人として成り上がるのだ。
ターニャができたんだ。僕にもできる。
マダムに気に入られて、いろんな情報をもらい、それを流せば──
マルセラは僕のことを見直して、また結婚してくれるかもしれない。
もう僕しか知らないマルセラではなくなってしまったが、僕も子作りのためとはいえターニャを抱いてしまったので、そこは不問にしてあげよう。
お互い様だ。
そんなことを考えながら、メイドたちに身体を洗われ、磨かれ、言葉遣いや対応を教え込まれた。
1ヶ月経つと、見違えるほど美しくなった。
肌はつるつるになり、髪も整えられ、姿勢も矯正された。
鏡に映る自分が、まるで若い頃のようだった。
そして馬車に乗せられ、連れていかれた邸宅。
平民にしては金持ちだという。
御者が、ちらりと僕を見て言った。
「万一、逃げ出してマルセラ様の顔に泥を塗ったら、領地から永久追放だとよ」
「そんなことするわけないじゃないか」
胸を張って答えた。
戦場から帰ってきた時──マルセラは徹底的に僕から全てを奪った。
けれど、結局こうやって受け入れてくれた。
彼女の中で怒りが収まり、僕への愛を思い出した証拠だ。
僕がこれから任務を果たせば、彼女はまた僕と向き合ってくれる。
そう信じていた。
部屋に案内されると、薄いネグリジェのターニャがいた。
「は? え?」
声が裏返った。
なぜ、ここに──?
「あんたが旦那様の新しい愛人なの?」
「旦那様だって?!」
その時、男が入ってきた。
太った体を揺らしながら、にやにや笑っている。
「お前たちが元不倫カップルで、子どもまで作ったバカか。
本当に無責任だなぁ」
僕の背筋が凍った。
「領主様も面白いゲームを提供してくださるものだ。
どうやって、いたぶって遊ぼうか」
──マルセラは一言も“マダムの愛人”とは言っていなかった。
僕は勝手に勘違いしていたのだ。
自分に都合よく、都合よく、解釈して。
そんなバカな……。
僕はそこから13年、飼い犬のように扱われ、玩具にされた。
逃げることもできず、逆らうこともできず、ただ命令に従うだけの日々。
途中、ターニャが死んだ時は、死体の処理までさせられた。
あれほど愛していたはずの女の最期が、そんな形になるとは思わなかった。
そして僕も、44年の生涯を終えた。
その間、マルセラには会えなかった。
彼女は領主として、母として、そして新しい夫と共に、穏やかに生きていたのだろう。
僕のことなど、もう思い出すこともなく。
□完結□
ご愛読、ありがとうございました!
カシアンがすぐに爵位を売ってれば、それで借金と老人ホームの未払い分は完済できたのに……でした。




