幸せ
即答することができずに、ギルスレイドはスカラを見つめていた。
口を噤んで笑みを浮かべるスカラに焦りは見えず、ただギルスレイドの応えを待っている。
その言葉が生き延びるためのその場しのぎではなく、心からの願いだということは伝わっていた。
スカラの願いと己の心。
重なる想いに手を差し出しかけ、本当にいいのかと逡巡するものの。その惑いも長くは続けられそうになかった。
登ってくる複数の怒気を孕んだ気配。
もう時間は碌にない。
最後のためらいを振り払い、ギルスレイドは今度こそ手を差し出した。
「いいんだな」
低く問う、その声に。
「ええ」
喜色を滲ませ、スカラが頷いた。
夜の空を金の光が一筋奔る。
「すごい! 空の上は広いのね!」
「舌を噛むぞ」
はしゃいだ声をあげるスカラを一喝し、ギルスレイドは飛ぶことに専念する。
気温が低いせいで動きが鈍い。加えて地龍のギルスレイドは飛ぶのが得意とはいえない。それでも集落の手から逃れるにはこれが一番確実だった。
山の中からは木々が目隠しとなる。見られていなければこの先追われることはないだろう。
隣の山をひとつ越えたところでギルスレイドは地上に降りた。龍にとってはただでさえ地上でも厳しくなってきていた寒さ。夜の上空は輪をかけて冷たく、とてもではないが長時間は飛べなかった。
「スカラ。ひとまず降りてくれ」
あれ以来黙ったままのスカラに声をかけ、降りやすいように身を伏せる。背に感じていたぬくもりが離れた瞬間、ずるりとスカラが地面に落ちた。
「スカラ!」
ガチガチと歯の根が合わない様子のスカラを、人の姿になったディアが抱き起こす。
蒼白い顔で震えるスカラ。今にして思えば、着ている上着も普段見かけるものよりも薄い。
人が龍よりも寒さに強いのは確かではあるが、服を着込み火を扱うからこそでもある。この服装では上空の寒気に耐えられなかったのだろう。
「ごめ……な……」
「喋らなくていい」
冷え切った手を伸ばすスカラを地面に横たえ、ディアは元の姿に戻って地中に穴を掘り始めた。
穴は真下にいくらか掘ってから横へと広げた。
最奥にスカラを寝かせ、少しでも風除けになればと龍の姿のまま縦穴と横穴の境目に座る。
掛けてやる服も温めてやる体温もなく、火龍ではない自分には火すらつけられず。ただこうして土の囲いを作ることしかできない。
それでも地上より暖かいおかげか、やがてスカラの震えも止まった。
「ディア……?」
「ここにいる」
暗くて人の目では捉えきれないのだろう、身を起こして手を彷徨わせるスカラにギルスレイドが応える。
「日が昇るまでもう少し休むといい」
「ディアは……?」
「龍は人と同じように休む必要がないから気にしなくていい」
声をかけてもまだ探す手に、ギルスレイドは人の姿になって近付いた。
手を取ると強く握りしめられる。更に伸ばされたもう片方の手は、触れた腕にそっと添えられた。
「……迷惑かけてごめんなさい」
「いいから休め」
短い言葉に滲む心配に笑みを見せ、スカラはありがとうと呟く。
離れた手を見届けてから龍の姿へと戻り、ギルスレイドはまた元の位置に座った。
翌朝。朝のまだ弱い日差しながら、日の光を浴びたスカラの頬には赤みが戻ってきた。
「もう大丈夫よ。ありがとう、ディア」
本人の言葉通り、昨日のように凍えて震えたりはしていない。しかし――。
「ディア?」
スカラの顔から視線を下げていたディアが、はっと顔を上げる。
「いや、それならいい。食べ物を探してくる」
怪訝そうなスカラにそう返し、龍の姿に戻る。
「……あと、俺の本当の名はギルスレイドというんだ」
ぽそりとつけ加えたギルスレイドに、スカラは首を傾げた。
「本当の名前があるの?」
「ああ、龍としての名だ。これからはそう呼んでくれ」
おそらくスカラは人を装っていたから本当の名を告げていなかったといった程度の認識で、龍にとっての名の意味は知らない。しかしそれでも伝えておきたかった。
「わかったわ。ありがとう、ギルスレイド」
微笑んで受け取られ、呼ばれた名。
こそばゆい喜びに、ギルスレイドも少し笑った。
スカラに見送られ、ギルスレイドは飛び立った。
――これからどうするのか。
ここはまだ棲処から少し東に移動しただけ。集落からの追手はかからないだろうが、気温はほとんど変わらない。
つまり、いずれ自分は飛ぶどころか地上にすら出られなくなるかもしれないのだ。
そして人は命を繋ぐ糧がいる。だがあの状態のスカラがひとりで取りに行けるとは思えなかった。
生き延びることを考えるのであれば集落に戻った方がいいが、おそらくスカラは頷かず、戻ったところで扱いも変わらない。
今朝にはもう感じられなくなっていた彼女の内の僅かな魔力。失われていなければ集落に戻っても受け入れられていたかもしれないが、それを彼女に話すことはこの先もないだろう。
戻らないならば、自分が活動できる地まで移動するしかないのかもしれない。
現状と、取り得る手段と、彼女の望みと。
すべて並べ、選んでもらうしかなかった。
「一緒にいるわ」
スカラがささやかな食事を終えてから、これからのことを考えたいと告げたギルスレイド。
現状を話し、集落に戻ることも選択肢に入れてスカラの意向を尋ねると、案の定そう即答された。
「食べるものも着るものも困るかもしれないけど。それでも私はもうあそこに戻りたくない」
一切迷いのないその様子に、ギルスレイドも腹を括る。
この先もまだ気温が下がり続けるのなら、少しでも早く移動した方がいい。
気温とスカラの復調を考慮し、翌々日の日中に移動することを決めた。
スカラを背に乗せ、前よりは低い高度で数時間飛ぶだけ。
暖かい場所へと抜けて腰を落ち着けたなら、動ける自分がスカラの衣食を調えればいい。
そう、ギルスレイドは思っていた。
その日は薄く曇っていた。
「行こうか」
「ええ。お願いね」
予定通りにスカラを背に乗せて飛び立つギルスレイド。速度を出し過ぎぬよう気をつけながら進んでいく。
ふたつめの山を越えるため、少し昇ったその時だった。
ふっと背中が軽くなる。
何を、と思ったその時には、スカラの身体は悲鳴ひとつあげないまま地上へ向けて落ちていた。
「スカラっ!!」
急旋回したギルスレイドの眼が、どこかきょとんとした顔をしているスカラを捉える。直後、背を掴んでいた格好のまま伸ばされていた手が、その身体ごと木々に呑まれた。
「スカラ!!」
枝を折りながらあとを追う。あまりに軽い落下音はギルスレイドの体が立てる破壊音に掻き消され、ただ静かに地に着いたようにも見えた。
「スカラっっ」
着地と同時に人の姿になって駆け寄る。
仰向けに倒れたスカラ。
その背の下から、じわりと広がる赤。
「……スカラ……」
温かみを失った焦点の合わない瞳を覗き込み、声をかける。
何も動きはなかった。
ただ名残のように幸せな気持ちが伝わり、やがて霧散した。






