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第一話『雨上がりの蜘蛛の巣』by屋根の上のばよりん弾き

 雨上がりの蜘蛛の巣を見たことがあるだろうか?

 より具体的に、正確に言うなら、雨上がりの蜘蛛の巣とは、雨が止んだあとにその雨粒を糸の一本一本にまとっている蜘蛛の巣のことである。普段は目立たなく、見つかればその主の見た目ゆえか気持ち悪がられる蜘蛛の巣だが、こうなると日の光を水滴がきらきらと跳ね返し、幾何学模様が宙に浮かび上がってとても美しい。

 僕がこのような蜘蛛の巣を「雨上がりの蜘蛛の巣」として初めて拝んだのは大学一年生の夏のことだ。そして、僕が雨上がりの蜘蛛の巣を見るときには決まってそばに<彼女>がいた。

 これから語るのは僕が大学一年生のとき、<彼女>と過ごした一夏の物語だ。これを聴くにあたって、僕がどんな人間か、<彼女>とはいったい誰なのか、などの疑問を思い浮かべた人がいたら、とりあえずそういうことは頭の片隅に置いておいてほしい。気になったらすぐに手を伸ばして届くくらいの距離にね。


 みーんみんみん。

 午前中の講義を終えてキャンパスを歩く僕の耳に、我こそは君の伴侶に相応しいとアピールする蝉の叫びが聞こえてくる。季節は夏だ。熱中症対策をしっかりしている僕でさえ倒れそうになるような暑さに、小さな蝉が耐えられるわけがない。ましてや腹の底から大声を出しながら。オスはいつの時代でも、どんな種族でも平等に大変だ。メスの蝉が今なにをしているかなんて知らないけれど、少なくともオスよりは楽に違いない。そんなことを考えている僕の足元に、近くの木からぽとりと蝉が一匹、落ちてきた。噂をすればなんとやら、きっと体力を限界まで使い切って求愛を一週間にわたって続けたオス蝉なんだろう。僕はぴくぴくと足をうごめかせるそいつをそっと拾い上げると、近くの植え込みに放り込んでやった。こうしておけば誰かに踏まれて無残な死に方を晒してしまうこともないだろう。

 腕時計を見ると時刻は十二時ジャスト。ちょうど学生食堂の近くを歩いていたので、ちょうどいいや昼飯を済ませよう、と僕は食堂に入った。

 広い食堂内はクーラーが利いていて、多くの大学生でごった返していた。税込三五〇円の冷やし中華をお盆に載せて二人分の椅子が用意されたテーブルにつくと、麺をすすり始めて間もなく、僕の向かいの椅子に座った奴がいた。

「よう」

 声を聞いただけでそいつが誰かはわかっていたが、一応顔を確認した。僕は歩いていて知り合いの後ろ姿を見つけても、一度横に並んで顔を確認しないと話しかけられないタイプなのだ。

「よう。八木」

 そいつ、八木亨(やぎゆたか)は生姜焼き定食をテーブルに置くと、座って食べ始めた。生姜焼き定食は税込五一〇円。僕の冷やし中華と百六〇円分の開きがあるがコストパフォーマンスはどっちがいいんだろう、とくだらないことを考えていると八木が話しかけてきた。

「一人で静かに昼か? 寂しくならない?」

「ならない」

 短く答えてメンマを口に運ぶ。メンマって残してる人をよく見るけど僕は好きだ。

「お前こそ一人でご飯を買ったじゃないか。寂しくないの?」

「寂しいぜ。だから一人で飯食ってるお前のところに来たんだ」

 白米をかっ込みながら八木が言う。

 八木は僕の高校以来の友人だ。明るく染めた茶髪に伊達眼鏡にピアス、気取ってないけどセンスのいい服装、細身だが高校の陸上部で鍛えた身体、クールだがどこか愛嬌のある笑顔、どこをとっても<やれてる大学生>である。黒髪眼鏡(こちらは度が入っている)にTシャツにジーパン、人より若干痩せぎすな地味な僕とは正反対だ。

 しばらく互いの近況などを話していると、八木が言った。

「なあ七海(ななうみ)、お前今日の夜空いてるか?」

 僕は冷やし中華を食べながら、脳内で今日の予定を確認した。午後は講義に出て夕方は四時から七時までバイト。来週提出のレポートは半分くらいは終わっている。家に帰っても夕飯と風呂と歯磨きくらいしか、寝るまでにしなければいけないことはない。僕は答えた。

「七時以降なら空いてるよ。なんで?」

 そう訊くと、八木は嬉しそうに小さくガッツポーズを決めた。

「実は今日の七時半からA女子大の子と合コンやるんだけどさ、女の子の数に比べて男が一人足りてないわけ。お前、来てくんない?」

「つまりは数合わせってこと?」

「そんな言い方するなよ。でもまあ……平たく言えば……そうだな」

少しだけ申し訳なさそうに八木は答えた。

「僕があまり女の子を得意じゃないの、お前なら知ってるだろ」

 僕だって健全な男子だ、女の子に興味はある。だけど女子特有の、群れをつくって行動したりだとか、なんにでも「カワイイ」を連呼したりだとか、そういう習性とでもいうべきものが僕はどうにも苦手で、中学高校とあまり女子とは深く仲良くしたことはなかった。一方、八木は明るくてモテたので、女の子と遊ぶなんてことは日常茶飯事、お茶の子さいさいだろう。ちょっと言い方が古かったかな。

「それは知ってるけど、お前今まで彼女の一人もできたことないだろ。この機会に、そういう子をつくっておけばどうだ?」

「僕を好きになるような女の子なんていないよ」

「やる前から諦めんなよ。お前は確かに地味だけど顔が絶望的に悪いとか、太ってるとかワキガだとかいうこともないんだからさ、たまには行動を起こしてみようぜ」

「顔が悪くて悩んでる人や、肥満に悩んでる人に謝れ」

 八木はコップの水をぐいっと飲み干すと言った。

「別にそういう人たちを完全に否定はしないけどさ、女の子ってやっぱりそういう点を気にするわけ。お前はそんな心配もないのに、何もせずに突っ立ってるのか?」

 八木の言うことももっともだ。八木は過去にも僕を女の子同伴の遊びに誘ってくれたが、僕は今のようにのらりくらりとかわしてきた。彼女が欲しいと思ったことがないわけではないが、自分から動いたことはない。今はまだいいや、また今度頑張ろう、を何回繰り返してきただろう。思い返すとまだ両手の指で数えられたのでちょっと安心した。

「お前また『今度頑張ろう』って思っただろ」

 ぎくりとした。八木は「図星だな」という顔をしながら続けた。

「確かに次の機会はあるかもしれないけどさ、明日なにが起こるかはわからないし、大学一年の夏は一度しかないんだぞ? 一年後の夏もこんな合コンの話なんてできる状況にいるとは限らないじゃん。ちょっとはチャンスを大切にしろよ」

 壁にかかっている時計に目をやった八木は「やっべこんな時間」と言いながら、きれいに平らげられた生姜焼き定食を持つと立ち上がった、と思うと、ポケットから手帳を取り出し何かを書きなぐるとページを千切って渡してきた。

「じゃあな」と言って去っていく八木の背中を見送ってメモ書きを見ると、大手居酒屋チェーン店の店名が書かれていた。その下には「途中参加大歓迎! もしそうなら連絡よろ」と添えられていた。奇しくも僕のバイト先の近くの店だ。十八歳が居酒屋に入っていいんだろうか、と思ったけれど、僕も講義の時間が迫っていることに気づいてとりあえずメモ書きを財布に押し込んだ。

「十八の夏は一度しかない……か」

 ぼそりと呟きながら外に出た僕を迎えたのは、さっきと何も変わらない蝉の鳴き声だった。

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