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8.村を出る日

出発は、五日後の朝と決まった。


ヴァルダスは村に留まらず、いったん近くの町へ下りていった。「家族と話す時間が要るだろう」と言って。豪快に笑う男だが、そういうところは細やかだった。


その五日間、家の中はおかしなくらい普通だった。母は普通に飯を作り、父は普通に畑に出た。誰も、俺が村を出るという話をしなかった。俺もしなかった。


四日目の夜になって、ようやく父が口を開いた。


「カイン。断ってもいいんだぞ」


竈の火が、父の顔の半分だけを照らしていた。


「あの人は偉い人らしいが、偉い人が子供を連れていくってのは、昔から、ろくな話じゃねえ」


「うん」


「お前が賢いのは分かってる。分かってるが……賢い子が、どこかへ連れていかれて、それきりって話も、俺は聞いたことがある」


俺は、父が何日もこれを考えていたのだと分かった。畑に出ている間も、飯を食っている間も、ずっとだ。


「父さん。俺、あの人の書類を見た」


「あ?」


「ヴァルダスさんが最初に俺に見せた契約書。あれ、本物の案件だった。数字も、日付も、辻褄が合ってた。俺を試すためだけに作った偽物なら、あそこまで細かく作らない。手間が合わない」


父は、ぽかんとした顔をした。


「あの人は、本気で商売の話をしに来た。子供をだまくらかしに来た人間の書き方じゃなかった」


「……そんなもんで、分かるのか」


「紙は、書いた人のことを喋るんだ」


父は、しばらく黙っていた。それから、深く息を吐いた。


「そうか」


それきり、父はこの話をしなかった。


出発の朝、母は俺の上着の肘に、あて布を当て直していた。何度も繕った上着だ。もう布のほうが継ぎ目だらけで、どこが元の生地か分からない。


「向こうは寒いのかしらねえ」


「わかんない」


「わかんないのに行くの」


母は笑おうとして、失敗した。針を持つ手が止まって、そのまま動かなくなった。


俺は、母の膝に頭を押しつけた。六歳の体でできる、精一杯の甘え方だった。前世の記憶を持っていようが、この体はまだ六つで、母の膝は温かかった。


「ごめん」


「なんで謝るの」


「わかんない」


母は俺の頭を撫でて、それから、思い切ったように立ち上がって、包みを押しつけてきた。焼いた麦の菓子と、塩漬け肉が入っていた。二日で食べきれる量ではなかった。


戸口で、父が待っていた。手に、細長い木の棒を持っている。


「持っていけ」


受け取ると、それは物差しだった。父が畑の畝を測るのに使っていたやつだ。目盛りが焼き印で刻んであって、握るところだけ色が変わって光っている。何十年も、父と、たぶん祖父が握った跡だ。


「そんな上等なもんじゃねえ。だが」


父は、言葉を探していた。


「お前は、測る側の人間だ。俺は、測られる側だった。ずっとな」


俺は、その意味が分かった。分かってしまった。


四話前のあの朝、卓の上に並べた二枚の借用書。父は、あれを自分で読めなかった。読めないから、七十八枚だと言われれば七十八枚だと思うしかなかった。この村の大人のほとんどがそうだ。


「測る側になったら、測られる側のことを、忘れるな」


「うん」


「返事が軽い」


「……忘れない」


父は満足したように頷いて、それきり、何も言わなかった。


村の広場に、思っていたより人が集まっていた。ガレンさん。寄合の年寄りたち。俺が揉め事に口を挟んだ家の人間が、だいたい来ていた。


その中に、あの婆さんがいた。


いつだったか、俺の顔をじっと覗き込んで「あまりにも大人びているわね」と言った、あの人だ。あのとき、その目には、はっきりと警戒の色があった。俺が初めて、自分を気味悪がる視線というものを自覚した相手でもある。


婆さんは、人の輪の一番後ろに立っていた。近づいてはこなかった。


俺のほうから歩いていくと、婆さんは少しだけ身を引いた。それから、そうした自分に気づいたのか、ばつの悪そうな顔をした。


「……あんたが行くと聞いてね」


「はい」


「わたしゃ、あんたが怖かったよ」


正直な人だ、と思った。


「今も、少し怖い。子供の顔で、大人の頭で喋るのが、どうにも慣れない」


「……はい」


「でもね」


婆さんは、皺だらけの手で、自分の胸のあたりを押さえた。


「うちの息子夫婦は、あんたのおかげで畑を取られずに済んだ。怖いのと、ありがたいのは、両方あるんだよ。片方だけにしろってのは、無理な話だ」


俺は、何も言えなかった。


前世の俺なら、これを「社会の偏見」と呼んで分析しただろう。だが、この婆さんは、俺を偏見で見ていたのではなかった。怖いものを怖いと言い、ありがたいものをありがたいと言った。それだけだ。歪んでいたのは、たぶん、片方だけを求めていた俺のほうだった。


「行っておいで」


婆さんは、それだけ言って、輪の中に戻っていった。


馬車が動き出した。


俺は幌の後ろから、遠ざかる村を見ていた。母が手を振っていた。父は振らなかった。腕を組んだまま、こちらを見て、立っていた。


道が曲がって、村が丘の陰に隠れた。


俺は、膝の上の物差しを握り直した。握るところだけ、つるりとしていた。


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