15.ゲイル伯爵の名
村を出てから、六度目の冬が来た。
背が伸びて、去年の上着が着られなくなった。母が継ぎを当ててくれた古い上着は、畳んで櫃の底にしまってある。声はまだ変わらないが、ギルドの受付に立っても、客が驚かなくなった。それだけの年月が経った。
その冬、香辛料商のメルダという女が、ギルドに駆け込んできた。
「荷を、押さえられたんです」
倉庫の前に役人が立ち、荷を封じている。理由は、街道税の未納だという。
「三年ぶんです。銀貨で六百枚」
メルダの店の一年の稼ぎより多い。
差し押さえたのは、ハルカスという男だった。ゲイル伯爵領の徴税を請け負っている。
俺は、メルダの三年ぶんの帳簿と、道中の宿の証文を全部出してもらった。三日かけて、日付と地名を並べ直した。
そして、四日目にハルカスの事務所へ行った。
「メルダさんの荷は、北の街道を通っています」
俺は、地図を広げた。
「ゲイル伯爵領の街道は、こちらの東回り。通行料が発生するのはこの道です。メルダさんが使ったのは、王国直轄の北街道。三年ぶん、宿の証文が全部残っています。ヴァレナ、ソルド、東ヴァレナ。どれも北街道沿いの宿です」
ハルカスは、証文の束をめくった。めくる速さが、途中から遅くなった。
「税を課す根拠がありません。荷を解いてください」
事務所が、静かになった。
ハルカスは、証文を置いた。それから、俺を見ずに言った。
「……これは、ゲイル伯爵のご意向でな」
俺は、その言葉の軽さに驚いた。
「ご意向、ですか」
「そうだ」
「どの文書に書かれていますか」
「文書?」
「伯爵が、王国直轄街道の通行に課税せよと命じられたのなら、その命令書があるはずです。あるいは、王国から徴税権を委ねられた許状が。写しで構いません。見せてください」
ハルカスは、しばらく口を開けたまま、何も言わなかった。
「ないのなら、それは伯爵のご意向ではなく、あなたの願望です」
その日のうちに、荷は解かれた。
俺は、勝ったと思った。
三日後、ギルドの大部屋に呼ばれた。
ヴァルダスが、卓の上に一通の書状を置いていた。封蝋に、見たことのない紋章が押してある。剣と麦の穂を組み合わせた意匠。
「ゲイル伯爵家からだ」
読め、と目で言われた。俺は読んだ。
——聞くところによれば、貴ギルドの渉外担当者が、当家の徴税権に疑義を呈したとのこと。事実であれば、貴ギルドの当家領内における営業許可について、再考の要あり。
短い。それだけだった。
「……徴税権を否定したわけではありません。あの街道が伯爵領ではないと申し上げただけです」
「そうだな」
「事実です。地図も証文もあります」
「そうだ。お前は正しい」
ヴァルダスは、書状を巻き取った。
「だから、詫び状を出す」
俺は、耳を疑った。
「……なぜですか」
「うちは伯爵領に三つ支所を持ってる。あそこを通る荷が、年に千二百。閉められたら、うちと取引してる商会が四十ほど潰れる」
「でも」
「潰れた四十軒は、お前が正しかったことを知らん。知っても、腹は膨れん」
反論の言葉が、いくつも頭に浮かんで、どれも口から出なかった。全部、正しかった。正しくて、何の役にも立たなかった。
詫び状は、その日の夕方に出された。俺の名前は書かれなかった。「担当者の不見識」という言葉だけが入った。俺は、名前すら残らなかった。
メルダの荷は戻った。だが翌月から、彼女は伯爵領の道を使えなくなった。理由は誰も言わない。ただ、通行の許しが下りなくなった。遠回りをすれば、日数が倍かかる。
「いいんですよ」
メルダは、そう言った。
「あなたのせいじゃない。もともと、あの人たちに目をつけられたら終わりなんです。この街の商人は、みんな知ってる」
みんな知っている。知っていて、誰も何も言わない。
俺は、ギルドの裏の階段に座って、しばらく動けなかった。
前世で、俺は理不尽と戦ってきたつもりだった。相手が強大でも、法廷という場所があった。そこでは、伯爵も商人も、同じ椅子に座らされた。座らせる仕組みがあった。
この世界には、それがない。
紋章が押された紙が一枚届くだけで、俺の集めた三年ぶんの証文は、なかったことになる。
ヴァルダスが、階段の上から降りてきた。手に、酒の瓶を持っている。俺の隣に、どすんと座った。
「悔しいか」
「……はい」
「よし」
彼は、瓶の口を親指で拭いて、一口飲んだ。
「カイン。お前は正しかった。だが、正しさってのは、それを認める場所がなきゃ、ただの独り言だ」
俺は、顔を上げた。
「法廷、というものが」
「なんだ、それは」
「……前世に、ありました。誰でも、身分に関係なく、同じ場所に立って、証拠で争える場所です」
ヴァルダスは、へえ、という顔をした。それから、豪快に笑った。
「いいな、それは。この国にはねえよ」
「はい」
「貴族議会ってのはある。だが、あそこに立てるのは貴族だけだ。商人は呼ばれて、床に座って、頭を下げて帰る」
彼は、瓶をもう一口あおった。
「作りたきゃ、作れ」
「……え」
「お前が言った場所だ。作りたきゃ、作りゃいい。俺には無理だが、お前なら、五十年もありゃ、なんとかするかもしれん」
冗談のような言い方だった。だが、目は笑っていなかった。
俺は、膝の上で手を組んだ。指先が、まだ冷たかった。
その夜、俺は自分の部屋で、父からもらった木の物差しを取り出した。目盛りは、握るところだけ擦り切れて、数字が読めなくなっている。
測る側の人間だ、と父は言った。
だが、この国では、測る道具を持っていることと、その目盛りを認めさせることは、まったく別の話だった。




