13.守るべき依頼人
西街区の路地に、間口が三歩ぶんしかない仕立て屋がある。
看板は出ていない。出す必要がないからだ。この街で三十年、ギレムという老人が一人で縫ってきた店で、客は場所を知っている者だけが来る。
その戸口に、羊皮紙が一枚、乱暴に打ちつけてあった。
——本契約は次期更新をもって終了する。三月以内に明け渡されたし。ダルトン商会。
「打ちつけてある、っていうのがね」
フィオナが、釘の頭を指で弾いた。
「郵送でも手渡しでもいい。わざわざ通りから見える場所に釘で留めるのは、追い出すためじゃない。見せしめよ」
店の中で、ギレムは椅子に座っていた。立ち上がろうとして、途中でやめた。膝が悪いらしい。
「ギルドの方かね。……いや、坊やも?」
「渉外の見習いです。カインといいます」
八つになったばかりの俺を、ギレムはしばらく見ていた。それから、疲れたように笑った。
「まあ、いい。誰が来ても、同じだろう」
俺は、契約書を見せてもらった。
そこに、探していたものがあった。
——更新を拒む場合、いずれの側も、期限の六月前までに、書面をもってこれを通知すべし。
「フィオナさん。この通告、日付は」
「先月の末。明け渡しまで三月」
「六月前じゃない」
「そうね。半分しかない」
簡単すぎる、と思った。簡単すぎるときは、たいてい相手に用意がある。
翌日、ダルトン商会の差配人が店に来た。先月、革細工の店に押しかけていた男だ。あのときは名乗らなかったが、今日は名乗った。
「レイフ・ダルトン。当主ゴドウィン・ダルトンの甥だ」
三十半ばの、身なりのいい男だった。前に会ったときより、笑い方が丁寧になっている。丁寧になった、というのは、俺を面倒だと認識したということだ。
「六月前の通知が要る、というお話でしたね。ええ、存じております。ですから、一年前に伝えてあります」
「書面で、ですか」
「口頭で。ギレム殿に、直接」
ギレムが、掠れた声を出した。
「そんな話は聞いとらん」
「お年ですからな。お忘れかもしれない」
レイフは、穏やかにそう言った。穏やかなぶん、たちが悪かった。
俺はこのとき、少しだけ安堵した。相手が用意していたのが、これだったからだ。
「レイフさん。ひとつ、確認させてください」
「どうぞ」
「一年前、あなたはどの立場でギレムさんに通知したんですか」
レイフの笑みが、そのままの形で止まった。
「……どの立場、とは」
「この土地と建物は、去年の秋まで、サデルさんという方の持ち物でした。ダルトン商会が権利を取得したのは、八月前です。商会自身が、ギルドの登記台帳に届け出ておられる」
俺は、写しを卓に置いた。ギルドの書庫にある。昼の書庫整理は、こういうときのためにある。
「一年前、あなたは、この土地に何の権利も持っていなかった。持っていない人が、賃貸借の更新拒絶を通知することはできません。通知は、権利者がするものです」
「……代理として」
「サデルさんの代理として? では、サデルさんからの委任状を拝見できますか。それがあるなら、あなたの主張は通ります」
レイフは、答えなかった。あるわけがない。八月前に買った土地の、その一年前に、追い出しの根回しをしていた委任状など存在しない。
「もうひとつ、申し上げます」
俺は、契約書のその一行を指した。
「『書面をもって』。この条項です。ギレムさん、これ、いつから入っていますか」
「……去年の秋だ。持ち主が変わったからと、新しい書き方の紙に替えさせられた」
「レイフさん。この書式は、ダルトン商会がお作りになったものですね」
レイフの喉が、はっきりと動いた。
「借主が勝手に出ていかないよう、六月前の書面通知を義務づけたかった。だから入れた。違いますか」
「……」
「けれど、この文は『いずれの側も』と書いてある。双方向です。あなたがたが、自分たちを縛るつもりのない条項を、自分たちの書式で、自分たちの手で入れた。俺が持ち出したのではない。あなたがたが書いたものです」
長い沈黙があった。
レイフは、ゆっくりと羊皮紙を巻き取った。
「……今回は、引きます」
「今回は?」
「次の更新期は、二年後だ。そのときは、六月前に、書面で、正しく通知しますよ」
彼はそう言って、俺を見た。今度は笑っていなかった。
「坊や。今日のは、あんたが正しい。だが、正しさで買える時間は、二年ぶんだけだ」
戸が閉まった。
俺は、握った拳が汗ばんでいるのに気づいた。勝った。手続きの穴を突いて、二年を買った。それだけのことだ。
「ギレムさん、二年あります。その間に、更新の条件そのものを組み直しましょう。地代を先に長期で払い込む形にすれば、簡単には——」
言いかけて、俺は口を止めた。
ギレムが、机の上で手を組んでいた。組んでいる、というより、押さえつけていた。右手が、細かく震えていた。
老人は、俺の視線に気づいて、手を膝の下に隠した。
「……気にせんでくれ」
「いつからですか」
「去年の冬あたりからかな。針の穴が、こう、二つに見える日がある」
俺は、何も言えなかった。
「店は、ありがたい。あんたのおかげで残った。残ったが」
ギレムは、天井を見上げた。
「……わしはもう、縫えんのだよ」
店の中は、糸と布の匂いがした。壁一面の棚に、色ごとに揃えた糸巻きが並んでいる。三十年ぶんの並べ方だった。
俺の持っている技術は、契約書を読むことだ。人の言葉の矛盾を突くことだ。それは、この店を守れた。
老人の手の震えには、指一本、触れられなかった。
外へ出ると、フィオナが壁にもたれて待っていた。俺の顔を見て、何も聞かなかった。
しばらく黙って歩いてから、彼女が言った。
「勝ったんでしょ」
「はい」
「そういう顔じゃないわね」
俺は、路地の先を見ていた。夕方の光が、石畳の隙間に細く落ちていた。
「守るって、店のことなんですかね」
フィオナは、答えなかった。答えないまま、俺の歩幅に合わせて、少しだけ歩くのを遅くした。




