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零時のログ  作者: 橋本陽


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【第12章 透明化テストの再現】12-1


 署名欄の切れ端は、結菜の手の中で紙以上の重さになっていた。

 薄い紙が、掌の熱で少し柔らかくなる。それが余計に怖い。柔らかくなるほど、現実に馴染んでしまうからだ。馴染んだら、逃げ場がなくなる。


 結菜はロビーのソファに座らされる形になった。座らされた、と思ったのは、自分で座ったという実感が薄いからだ。

 梨央が隣に座り、峰岸が対面の椅子を引いた。修は少し離れた位置に立ち、航は窓際に立ったまま動かない。静香だけが、椅子に座らず、ロビーの中央に立っている。まるで司会者の位置だ。


 峰岸が口を開いた。

「先ほどの紙片は、私どもの施設——失礼、宿の管理区域から出たものと思われます」

 施設、と言いかけた。

 結菜はその一瞬を逃さなかった。宿ではなく施設。宿泊ではなく滞在。旅行ではなく——。


 梨央が峰岸を睨んだ。

「言い間違い?」

 峰岸は表情を変えない。

「言葉の選択は慎重にします」

 慎重に。

 ここで慎重にするのは、正確さのためではない。空気を制御するためだ。結菜はそう思ってしまう自分を嫌悪する。嫌悪しても、疑いは消えない。


 静香が淡々と言った。

「言い間違いじゃないよ」

 峰岸が静香を見る。静香は峰岸を見返す。

 視線の交換だけで合意が成立しているように見えた。二人は同じ計画書を読んでいる人の目をしている。


 結菜は紙片の署名を見た。自分の筆跡。自分の名前。

「私……これ、書いたの?」

 口から出た声は、思ったよりかすれていた。

 誰かが答える前に、静香が言った。

「書いた。あなたの手で」

 断定。

 断定は、結菜の中の正しさを刺激する。断定するなら根拠を出せ。根拠があるなら説明しろ。説明しないなら不誠実だ。

 結菜の頭の中で、誰かの声が勝手に“条項”を組み立て始める。

 ——沈黙は不誠実。拒否は放棄。

 まだ読んでいないはずなのに、言葉だけが先に来る。言葉が先に来るのは、たぶん結菜の癖だ。言葉で世界を整える癖。


 梨央が結菜の肩を押さえた。

「結菜、今は——」

 今は。

 航の「今は」と同じ響きがした。今は、を繰り返して、ずっと今のままになる。

 結菜は梨央の手をそっと外した。外すと梨央の目が揺れる。守る人は、拒まれると崩れる。


「今、知りたい」

 結菜は言った。言ってしまった。

 言うと空気が変わる。空気が変わると、誰かが“正しさ”を武器にする。

 正しさを武器にするのは、結菜だ。


 静香は頷いた。

「うん。だから、ここで話す」

 静香はロビーの中央に立ったまま、峰岸を一度見てから、結菜を見た。

「結菜さん。——透明化テスト、覚えてないなら、ここで“再現”しよう」

 再現。

 結菜の背中に冷たい汗が浮いた。再現という言葉は、実験室の言葉だ。ここが施設だと確定していく。


 梨央が声を荒げた。

「やめてよ。再現なんて」

 静香は梨央を見る。

「やめる理由、ある?」

「結菜が壊れる」

 梨央は言い切った。

 その言い切りが、結菜には突き刺さった。壊れる、という言葉を梨央が使う。梨央は本気で怖れている。梨央の恐怖は、善意の形をして結菜を縛る。

 結菜は喉の奥が痛んだ。


 修が小さく言った。

「……静香、いまは」

 修の“いまは”も、航と同じだ。今は、今は、で核心を避ける。避ければ避けるほど、空気が膨らむ。膨らんだ空気は、最後に誰かを押し潰す。


 静香が修を見た。

「修。あなた、抜いたよね」

 ロビーの空気が一瞬で凍った。

 結菜は息を止めた。静香は“犯人”を作らないと言っていたのに、いまは名指しする。名指しは刃だ。

 修の顔から血の気が引いたように見えた。見えたのに、修は笑わない。怒らない。言い返さない。

 沈黙する。

 沈黙は不誠実——その言葉が結菜の頭に浮かぶ。

 浮かんだ瞬間、結菜は自分を止める。止めないと、今ここで修を裁いてしまう。


 修はやっと息を吐いて言った。

「……抜いた、って」

「条項のページ」

 静香は淡々と言った。

「あなたは“優しい顔”で抜いた」

 修の唇が震えた。

「……優しくなんか」

 修は言いかけて、止めた。止めたことで、静香の言葉が当たっているように見える。

 静香は追撃しない。追撃しないのが、追撃より怖い。

 静香は結菜に向き直り、言った。

「ここで大事なのは、修が悪いかどうかじゃない」

 結菜は喉が鳴った。

「じゃあ、何が大事?」

 静香は答えた。

「修が“抜く必要がある”と思った空気」

 空気。

 また空気だ。曖昧な言葉。曖昧なのに、ここでは捕まえられてしまう。


 峰岸が淡々と言った。

「再現、という表現は適切ではありません。——確認です」

 確認。

 峰岸はいつも確認と言う。確認は正しい。正しいから断れない。断れば不誠実になる。

 静香が峰岸を見て、同じ温度で言った。

「確認でもいい。言葉はどうでもいい」

 言葉はどうでもいい、と言いながら、静香は言葉でここまで空気を動かしている。

 結菜は思った。静香は言葉がどうでもいいんじゃない。言葉がどうでもいいと言えるほど、言葉を使い慣れている。


 静香はロビーのテーブルに紙片を置いた。署名欄の切れ端。

「これが“結果”」

 静香は言った。

「そして、抜かれた一枚が“ルール”」

 結菜は唇を噛んだ。

 ルールを知らないまま結果だけ見せられるのがいちばん怖い。ルールを知らないと、自分が何に同意したのか分からない。分からないまま同意したなら、それは合意ではなく服従だ。

 服従を合意と言い換えるのが、同調圧力だ。


 静香が続けた。

「透明化テストでやったこと、ひとつだけ言う」

 結菜の心臓が跳ねた。

 ひとつだけ。勿体ぶらない宣言。けれど、ひとつだけがいちばん刺さることもある。


「スマホを出させた」

 静香は言った。

「恋人なら、境界線を公開しろって。——異性との連絡先、SNS、どこまで許すかを、全員の前で設定させた」

 結菜の喉が詰まった。

 それは、たしかにあり得る。あり得るから怖い。

 境界線。

 恋人の境界線。

 恋人だから、という理由で相手の領域に踏み込む。

 踏み込まれた側が拒否すれば、不誠実になる。拒否は放棄になる。

 そんなルールがあったのだと、結菜は理解した瞬間に思った。

 ——だから条項が抜かれた。

 あのルールを読んだら、結菜は正しさで暴走する。そう思われた。そう思われたなら、結菜は過去に暴走したのだ。


 梨央が震える声で言った。


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