7-1
「これ、どこまで続いてるのかしら。なんとかしなさいよ、タイシ。迷路の抜け方くらい知ってるんでしょ?」
「セオリーでは左手法が有効だが、ここは見るかぎり一本道だ。それ以前に、ゴールがあるのかどうかすらわからん」
鏡の迷路。ミラーハウス。遊園地などでは定番のアトラクションに酷似した空間を、ミサキとタイシはまっすぐに進んでいく。
「ここは異世界じゃなくて、氷の女王がつくった異空間よね? なら、本当に女王は生きてるんだわ」
異世界がその名の通り、現実世界とは異なるひとつの大きな世界であるとすれば、異空間は即席のドールハウスのようなものだ。異世界で冒険をしていたときにも、氷の女王がつくった謎の異空間に何度も飛ばされ、おかしな試練を受けさせられたことを思い出して、ミサキは顔をしかめる。
「マコト、自分のせいで女王が生きてるって言ってたわね」
「真に受けるのはどうかと思うぞ。マコトも、いらない責任を背負うタイプだ」
「ユウと、意外にエリヤも同じタイプよね。覚えてないけど、きっとカナエも」
「お前は背負うのではなく、足を掴んで引き摺っていくタイプだな」
「アンタは、責任をその場に堂々と置き去りにしていくタイプだわ」
「お前は俺をなんだと――待て、ミサキ」
制止の声を受けて、首だけで振り返る。どうせ大したことではないだろうと思っていたミサキだが、タイシの視線の先を追って思わず目を見開いた。
壁の役目を果たすように連なっていた鏡の一枚に、幼い少女の姿が映り込んでいる。咄嗟に辺りを見回しても、自分たち以外の姿はない。実体を伴わず、鏡の中にだけ存在しているということだろうか。不思議な登場の仕方をした少女を改めて確認すれば、ついこの間から頻繁に目にすることになった、とある人物を連想させた。
「……カナエ、よね」
「マコトかエリヤがいたら確認できたのだろうが、おそらく間違いないだろう」
小学生くらいの少女は、腰まである長い髪をまっすぐに降ろし、白いワンピースに身を包んでいる。不安そうな瞳をこちらに向けながら、胸の前で組んだ両手の指をもじもじと動かす姿は、スターレットとして活躍する『氷の王子』白宮カナエとは、似ても似つかない。それでも、少女がかつてのカナエの姿をしているということは、六人目の仲間の記憶が戻っていないミサキにも感じ取ることができた。
『ミサキちゃんは、強いね』
「え?」
遠慮がちな幼い声が、鏡の空間に響く。目の前の少女の言葉だろうか。ミサキがじっと見つめる先で、少女の小さな唇が動いた。
『いつも元気で明るくて、みんなを引っ張ってくれる。アイドルになれるのは、きっとミサキちゃんみたいな人なんだよ』
鏡の中の少女と目を合わせても、記憶は戻らない。記憶のないミサキには、少女の言葉に懐かしさを覚えることもできない。けれど、胸がざわざわした。かっと、頭に血が上っていく。
『私はなにもできないから、ミサキちゃんが羨ましい。私も、ミサキちゃんみたいな人になりたかった』
「……なによ、それ」
「ミサキ」
自分がいつのまにか強く拳を握っていたことに、タイシの呼びかけで気づく。
「なにもできないって、なによそれ! アタシはまだアンタのこと思い出せてないから正直なんにもわからないけど、でもねっ! これだけはわかるわ!」
ずかずかと早足で少女の前にやってくると、ミサキは振り上げた両手を思いっきり鏡に叩き付けた。こちらを見上げる少女の顔と、自分の般若のような形相が、鏡に映り込んでぴったりと重なる。
「なにもできないなんて、そんなふうにアンタに思わせてた自分に対して、めちゃくちゃ腹が立つ!」
さっきの言葉がカナエの本心なのかどうか、確かめる術はない。性悪な氷の女王お得意の揺さぶりなのかもしれない。それがわかっていても、ミサキは自分への怒りを抑えることができなかった。
「なにもできない人なんているわけないじゃない! そう思うなら、それはアンタが気づいてないだけだし、周りにいたアタシたちが気づかせてあげられなかっただけよ!」
自分の猪突猛進な性格が、ときに誰かを置き去りにし、ときに誰かを弾き飛ばすということを、ミサキはよく知っている。中学生になった今でさえ、思い出しては反省することばかりなのだから、小学生のときのことなど想像もしたくない。カナエのことも、きっとその中のひとつだったのだろう。見ていたつもりで、見ていなかった。体が近くにいても、心が寄り添えなかった。
それでも、こうして気づくことができたのなら。今からだって、何度だって、ミサキはミサキのやり方を行使する。つかみ取って、引きずり戻す。こんなふうに。
「いい!? アタシは絶対にアンタのこと思い出して、ふざけたこと言ってんじゃないわよって叫びながら窒息するまで抱き締めてやるんだから! 首を洗って待ってなさい、カナエ!」
きょとんと少女の目が瞬いたかと思えば、すぐに嬉しそうに細められる。そのまま姿が掻き消えると同時に、目の前の鏡が大きく波打ちながら消失した。ぽっかり空いた白い空間の先を覗けば、上と下の二方向へと続く氷の階段が見える。
「ふむ、階段か。全く別の場所へとつながっているようだな。なにかしらのリアクションを起こすことで、正解のルートが現れる仕組みか」
「氷の女王の、いつものお遊びってやつね。相変わらず、いい性格してるわ」
「余興として楽しんでいるのだろう。ミサキの怒り狂う姿は、俺から見ても面白すぎる」
「ぶっとばすわよ。……そんなことのためにカナエの姿や記憶を使ってるなら、絶対に許さないから」
ミサキは鏡の通路のほうへ振り返ると、すうっと大きく息を吸い込んだ。
「聞こえてるっ!? アタシとタイシは無事! 迷ったら上に行って! 以上!」
鏡という鏡を反射しながら、その声はどこまでも遠く響き渡る。想像以上の成果に満足したミサキは、両手を腰に当てながら、ふふんと得意げに笑った。
「ちょっとすっきりしたわ。ほら、さっさと行くわよ」
「なぜ上なのだ? 根拠は?」
「なんとかと煙とラスボスは、高い所が好きだと相場が決まっているでしょ」
清々しい笑顔で通説を言い捨てると、ミサキは階段に向かって力強く前進した。なんの迷いもなく上へと続く氷のステップを踏み締め、あっという間に十段ほど駆け上がる。
「厳密に言えば、そのことわざは『愚か者はおだてに乗りやすい』という例えだ。額面通り、本当に馬鹿と煙とラスボスが高所を好むのかと言えば、そんなことはないだろう」
「うるさいわね、いいから黙ってついて来なさいっ」
『――タイシくんは、本当になんでも知ってるね』
ぴたり、と。ミサキの足が止まる。カナエの声だ。カナエの声が、この真っ白な空間に響いている。けれど視線を何周させても、その姿を見つけることはできない。
『私は体が弱くてみんなに迷惑をかけてばかりだったけど、タイシくんみたいに色んなことを知っていたら、少しは役に立てたのかな』
「俺がなんでも知っていたなら、お前も俺たちと一緒にいられたはずだ」
まだ階段を上る手前。タイシが立ち止まり、眼鏡を上げている。今更ながら、タイシがフリフリのエプロンを身に着けていることが、ミサキは無性に気になってきた。
「知識を集めるだけなら簡単だ。だが、集めた知識を使うためには、知恵を学ばなければならない」
階段の上からでは、伏せられたタイシの表情は見えない。つむじは右向きなのだという死ぬほどどうでもいいことしか、ミサキにはわからない。
「ただの自己満足のために得た知識を、誰のために、どう使うのか。昔の俺には、その思考が欠けていた。だから、お前を犠牲にするしかなかった。お前も含めて、全員が間違いなくハッピーエンドになる道を提示できなかった」
犠牲。そうだ、犠牲だ。今までに得た情報から推測すると、どうしてもその結論にしか辿りつけない。ミサキたち五人の仲間が現実世界で再び巡り会えた陰には、間違いなく六人目の仲間の犠牲がある。
「だが、お前も悪い。キーとなる情報を隠していては、俺とて正しい判断などできん。それはフェアではない」
マコトにしか教えなかった、氷の女王の縁者であるという事実。カナエは隠したがっていたようだが、もしこの事実をもっと早く全員で共有できていたら。そうすれば、全員が納得できる打開策を見つけられていたかもしれない。
「結論だ。誰がなんと言おうと、お前が悪い。俺はこの点において、ネチネチとお前を責め立てる。だから、次に会ったときは覚悟しておけ」
それっきり、カナエの声は聞こえなくなった。満足したのか、はたまた恐怖したのか。ほとんど脅しのようなタイシ節に呆れて、ミサキは深い息を吐く。「前言撤回するわ」
タイシがこちらを見上げたことで、ようやくその表情が視認できた。いつも通りの、なんの変哲もない真顔。けれどその下には、彼なりの信念があり、葛藤があり、弱さが隠れている。
「アンタは置き去りにした責任の場所をずっと覚えていて、いつか戦車に乗って回収に戻ってくるタイプね」
なぜ戦車なのだ、と眉をひそめるタイシの顔についたままの生クリームとフリフリエプロンが、やっぱりどうしてもおかしくて、ミサキは指を差しながら大声で笑った。




