7-2
「……この声、モモか?」
「よかった、無事だったのか。上ならちょうどいい。僕たちも急いでここを抜けよう」
ずっと気がかりだった、ほかの仲間の安否。その三分の二の安全を知ることができて、ユウはホッと安堵の息を吐いた。あとは、マコトだ。おそらくはひとりきりで、それもなにか思いつめたような状況で、この異空間を彷徨っているに違いない。すぐにでも合流しようという決意を固めて、ユウは階段の先を軽く睨みつけた。
真っ黒な空間の中で、透き通った氷の階段だけが螺旋状にどこまでも伸びている。ゴールの見えない道を進むことに躊躇いはあったが、ミサキの声でその不安は綺麗に弾け飛んだ。彼女が上へ行けというのなら、ステップを踏む足にも力を込めることができる。
「……オマエ、まだ怒ってんのかよ」
十段ほどの距離を開けて後ろからついてきているエリヤの、戸惑ったような、探るような声。
「別に怒ってない」と感情を乗せない言葉を投げれば、即座に「嘘つけ」という答えで打ち返された。
「エリヤの単独行動なんて、いつものことだろう。いちいち怒ってたら身がもたない」
そう。エリヤの気まぐれには、もう慣れている。そこには彼なりの理由があることも理解している。だから本当に、その件に関しては怒っていない。――その件に関しては。
「なら、どれに怒ってんだよ」
どれ? わかりきっているくせに、どうしてもユウの口から言わせたいらしい。エリヤからは自分の顔が見えない角度だということを確認してから、ユウはそっと息をついた。
エリヤの家庭環境に関しては、それなりに把握している。母親が、国内でもその名を知らない人のほうが少ないほどの大女優であること。その母親とは、ずっと疎遠であること。それもあって、芸能界というものに、あまり良い印象を持っていないということ。
それなのに今回の単独行動の目的は、よりにもよって芸能事務所への乗り込みだ。数か月前に街中でスカウトされた伝手を頼ってまで。その場にはユウも一緒にいたので、よく覚えている。あからさまに迷惑そうな顔をしたエリヤは、ユウが取り成さなければ名刺すら受け取ろうとしなかった。
なのでタイシから、エリヤが件のコスモスプロダクションへ行ったと聞き出したときは驚いた。慌ててエリヤを捕まえに行った先で、見知った家政夫の姿まで一緒に発見したときは、さらに驚いた。「お、噂をすればですね。後は頼みます、ユウさん」と、なぜか普段はしないような格好をした家政夫は、すぐにその場を立ち去ってしまったが、残されたエリヤが気まずそうに視線を逸らし続ける姿を見て、久しぶりにユウの腹が大きく立ち上がった。
「芸能界なんて嫌いな癖に、どうしてわざわざ自分から嫌な思いをしに行くんだ。わかってる、それも僕たちを気遣ってのことなんだろう? カナエさんが僕たちを拒絶する本当の理由を聞き出して、もしそれが僕たちが傷つくようなことだったら自分の胸だけに留めてしまって、僕たちには別の適当な理由を教えて誤魔化せばいいって。そうすれば僕たちは傷つかずにすむって、そういうことなんだろ? わかってるよ!」
暗闇に向かって投げたユウの感情の発露は、ブラックホールに飲み込まれたかのように遥か遠くへ消え去った。慣れない大声を出すと、すぐに喉が痛む。僅かに咳き込むユウを心配でもしてくれたのか、階段の下から囁きのようなエリヤの声が飛んできた。
「……おい、ユウ」
「まだ終わってないから黙ってて」
「……」
背中を向けたまま、ぴしゃりとはねのけると、エリヤは大人しく口をつぐむ。「ユウさんに怒られると、エリさんは弱いですね」とは、彼の家政夫の談だった。
「――どうしてそんなに、自分を大事にしないんだ」
どうして? それもわかっている。エリヤは、ひとりで何でもできてしまうからだ。人を頼ることが下手だからだ。それが高じて、いつの間にか仲間を守る防波堤の役目を率先して請け負うようになっていた。けれどそれは、基本的に面倒くさがりであるエリヤの行動理念には反するように思える。その奥には、別の大きな動機が根深く存在していた。
エリヤは、自分の容姿が嫌いだ。理解不能なほどの存在感が嫌いだ。自分が望んで得たわけでも、自分が望んで振り撒いているわけでもないにも関わらず、周囲に命の危険すら伴いかねない影響を及ぼし、生まれた瞬間から実の母親に疎まれ続けている。そんな自分自身が、大嫌いだ。
本人は気づいていないが、その鬱積した思いは、常に自己犠牲という形で表面化する。いつ死んでもいいと思っているエリヤは、だからこそ、ひとりで何でもできてしまう。
「……喋っていいか?」
「どうぞ」律儀に確認をとるのが少しだけ面白くて、ユウはうっかり笑ってしまいそうになった。
「オマエのほうこそ、勝手な思い込みばっかしてんじゃねぇよ。別にオレは、そんな悲愴な決意を持って事務所に乗り込んだわけじゃねぇっての」
はあっと、エリヤが特大の溜息をつく音が聞こえる。「元はといえば、オマエが――」
僕が、なんだ。そう尋ねようと振り返りかけたユウの視界に、淡い光が映り込んだ。鏡の階段だけの真っ黒な空間に、ふわりと漂う白い影。まるで空中を魚のように泳いでくる――あれは。




