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神に拾われた臆病者 〜逃げ続けた俺は、二度目の人生で旅を始める〜  作者: 星海凡夫


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丘の上の屋敷



第5話 丘の上の屋敷


オーウェン家の屋敷は、ロヴェルの村を見下ろす丘の上にあった。


それを最初から理解していたわけではない。


赤ん坊の俺にとって、世界は天井と腕と匂いでできていた。窓の外に何があるかなど分からない。家の広さも、部屋の数も、そこを歩く人間たちの関係も、最初は全部、音の違いでしかなかった。


朝になると、遠くで鐘が鳴った。


一度ではない。


小さく、間を置いて、何度か。


それに合わせるように屋敷の中が起きていく。


廊下を歩く足音。薪を割る音。水を汲む桶の音。台所で金属が触れ合う音。まだ顔も知らない女たちの低い会話。誰かが笑い、それを別の誰かが注意する声。


前の人生の朝は、母さんが家を出る音だった。


この家の朝は、人が残る音だった。


それだけで、俺には少し眩しかった。


エルナは、夜にあまり眠れない人だった。


少なくとも、俺が泣いているあいだはそうだった。


俺が泣くと、彼女は起きた。


すぐに来る日もあれば、疲れで一瞬遅れる日もある。そのわずかな遅れにさえ、赤ん坊の体は容赦なく泣き声を強めた。


俺はそのたびに、情けないほど腹が立った。


自分に。


この体に。


そして、来てくれることをもう期待している自分に。


エルナは俺を抱き上げると、よく窓のそばへ行った。


夜の窓には、黒い硝子みたいな外が映っていた。たまに、遠くに小さな橙色の光が見える。それが村の灯りだと知るのは、もう少し後のことだった。


彼女は俺の背をゆっくり撫でながら、まだ意味の分からない言葉で話しかけた。


「今日は風が強いわね」


「明日はダレンが畑のほうを見に行くそうよ」


「ルカも、もう少し大きくなったら見られるわ」


意味は分からなかった。


けれど、声の流れは残った。


母音の丸さ。


語尾の柔らかさ。


俺の名前を呼ぶときだけ、少し温度が変わること。


前の人生の記憶は、俺を罰するように残っていた。


けれどこの世界の音は、俺が思うより早く、俺の中へ沈んでいった。


最初に分かったのは、言葉ではなく、場所だった。


エルナの部屋。


俺の寝かされる小さな寝台。


陽の匂いが強い広間。


ダレンがよくいる、紙と革とインクの匂いがする部屋。


台所の近くへ行くと、空気が急に厚くなる。煮込んだ豆。焼いたパン。乾かした香草。脂。灰。雨の日には、湿った薪の匂いまで混じった。


屋敷は生き物のようだった。


朝は騒がしく息をし、昼は光を飲み込み、夕方になると廊下の隅に影を溜める。夜には床板が小さく軋み、壁の中で風が鳴った。


裕福ではあった。


それは、赤ん坊の俺にも分かった。


寒い日に火がある。


替えの布がある。


エルナが疲れ切っているとき、代わりに俺を抱く手がある。


誰かが床を磨き、誰かが食事を作り、誰かが衣類を洗い、誰かが外から荷を運んでくる。


貧しい家ではない。


けれど城ではなかった。


金と権力が世界を押し潰すような場所でもなかった。


オーウェン家は、ロヴェルで古くから名前の残る家だった。


貴族ではない。


王都の政治に口を出す家でもない。


ただ、この村で土地を持ち、人を雇い、道を直す金を出し、冬に穀物が足りなくなれば倉の数を数えられる側の家だった。


後になって分かったことだが、それは楽な立場ではない。


けれど赤ん坊の俺には、責任より先に恵みだけが見えた。


広い部屋。


清潔な布。


窓から差し込む光。


俺を落とさないよう慎重に抱く手。


それらは全部、優しさと同じ顔をしていた。


だから、怖かった。


ダレンは忙しい男だった。


朝、俺がまだ眠気と泣き声の間にいるころ、彼は外へ出る。戻ってくるのは、陽が傾いてからのことが多かった。


服には土の匂いがした。


雨の日には、濡れた革の匂い。


乾いた日には、草と汗と馬の匂い。


彼は屋敷の主というより、村の中で一番面倒な仕事を断れない男のように見えた。


戻ってくると、まず手を洗う。


それからエルナの部屋を覗く。


「ルカは?」


その声を聞くたび、エルナは少しだけ笑った。


「今は寝てるわ」


「そうか」


「起こさないでね」


「分かっている」


分かっている、と言いながら、ダレンは揺りかごのそばまで来た。


そして、俺が本当に眠っているかを確認するように覗き込む。


眠っているふりをしているわけではなかった。


赤ん坊の体にそんな高等技術はない。


それでも俺は、まぶたの裏で彼の気配を感じていた。


大きな影。


控えめな呼吸。


触れたいのに、触れるのを迷っている沈黙。


ある夜、俺は目を開けた。


ダレンがそこにいた。


彼は少し驚いた顔をした。


俺も驚いた。


しばらく、俺たちは互いに何もしなかった。


赤ん坊と大人の男が見つめ合っているだけの、間抜けな時間だった。


先に負けたのはダレンだった。


彼は指を一本、俺の前へ差し出した。


俺の手は、また勝手にそれを握った。


反射だ。


本当に、ただの反射だった。


それなのに、ダレンは小さく息を吐いた。


「……強いな」


違う。


強くない。


これは俺の意思ではない。


俺はまだ何も選んでいない。


そう言いたかった。


喉から出たのは、意味のない声だけだった。


ダレンは、その声を聞いて困ったように笑った。


「そうか。文句があるのか」


俺はさらに声を出した。


文句はあった。


山ほどあった。


けれどそのどれも言葉にならない。


ダレンは俺の小さな手を見て、静かに言った。


「大きくなれ、ルカ」


その言葉の意味をその場で理解したわけではない。


ただ、音だけが残った。


大きくなれ。


前の人生で、俺は大きくならなかった。


体だけは大人になった。


年齢だけは進んだ。


けれど、部屋の中で膝を抱え、誰かがドアを開けてくれることを待つだけのまま、何年も腐っていった。


大きくなれ。


それは祝福に聞こえた。


同時に、命令にも聞こえた。


俺はその夜、なぜか泣いた。


ダレンは慌てた。


エルナが起きた。


二人が小声で言い合い、最終的にエルナが俺を抱き、ダレンが役に立たない顔で立っていた。


その光景は、あまりにも家庭だった。


俺には、痛いほど似合わなかった。


季節が少しずつ移った。


窓の外の光が変わり、風の匂いが変わり、エルナの服の厚さが変わった。


俺は寝返りを覚えた。


失敗した。


また失敗した。


自分の腕が邪魔で、体が思うように返らない。頭が重すぎる。腹の下に腕が挟まり、泣きたくもないのに泣き声が出た。


そのたびに誰かが来た。


手伝われることが屈辱だった。


手伝われなければ何もできないことは、もっと屈辱だった。


けれど、その屈辱は長く続かなかった。


何度もやると、少しずつ体が覚えた。


左へ傾く。


足を動かす。


肩を捻る。


重さを越える。


ある日、俺は自分で寝返りを打った。


ただそれだけのことだった。


赤ん坊なら、いつか誰でもすることだ。


それなのに部屋の中が騒がしくなった。


エルナが笑い、使用人の一人が手を叩き、ダレンはその場にいなかったことを本気で悔しがった。


俺は床の上でうつ伏せになりながら、意味もなく息を荒くしていた。


達成感があった。


くだらない。


たかが寝返りだ。


それでも、俺の中には確かに何かが残っていた。


失敗の形。


体を傾けた感覚。


腕が邪魔になる位置。


うまくいったときの重心。


それらが普通より鮮明に残っている気がした。


反復によって残る。


神の言葉を思い出した。


俺は速くない。


ただ、残る。


その意味を、俺はまだ小さな体でしか知らなかった。


けれど、この体は確かに、繰り返したものを逃がしにくかった。


嬉しさより先に、怖さが来た。


力は、性格を直さない。


あの神はそう言った。


有能になっても、良い人間になるわけではない。


寝返り一つでさえ、俺は自分が特別かもしれないと考えそうになっている。


なら魔法を覚えたら?


剣を持ったら?


誰かに褒められたら?


俺はまた、それを自分が赦された証拠にするのではないか。


春が近づいたころ、エルナは初めて俺を抱いて外へ出た。


空気が違った。


屋敷の中の空気は、木と布と人の手で整えられている。


外の空気は、もっと乱暴だった。


湿った土。


草。


馬。


遠くで燃やされている枯れ枝。


低いところを流れる水の匂い。


そして、丘を撫でる風。


俺は眩しさに目を細めた。


視界はまだはっきりしない。


それでも、世界が広いことだけは分かった。


屋敷の前には庭があり、その先に緩やかな坂道があった。坂を下ったところに、家々が寄り集まっている。


煙突。


畑。


井戸。


小さな道。


人影。


ロヴェル。


俺が生まれた村。


正確には、俺が置かれた村。


エルナは俺を抱き直し、坂の下を見せるように体の向きを変えた。


「ルカ。あれがロヴェルよ」


当然、俺は理解できないふりをするしかなかった。


実際、言葉の意味はまだ曖昧だった。


けれど音は残った。


ロヴェル。


風に混じって、村の音が丘の上まで届いた。


子供の声。


犬の鳴き声。


荷車の軋む音。


誰かが遠くからダレンの名を呼んでいる声。


この家は、村から離れていた。


けれど孤立してはいなかった。


丘の上にあるから見下ろしている。


だが、村を捨てているわけではない。


その距離感が、オーウェン家そのもののようだった。


近すぎず、遠すぎず。


尊重され、頼られ、ときには疎まれる。


恵まれているが、自由ではない。


俺はまだ何も背負っていない。


ただ抱かれているだけだ。


それでも、丘の下から吹き上げてくる生活の音は、いつか俺にも何かを要求するような気がした。


エルナが俺の頬に指を触れた。


「大丈夫。怖くないわ」


違う。


怖いのは村ではない。


広い空でもない。


新しい世界でもない。


怖いのは、この全部を自分のものだと思い始めることだ。


丘の上の屋敷。


俺を愛そうとしている両親。


俺の名前をもう知っている人たち。


まだ何も返していないのに、俺のために動き始めている生活。


それらを眺めながら、俺はまた少しだけ、逃げ込む場所を見つけてしまった気がした。


風が吹いた。


エルナの髪が揺れた。


坂の下で、誰かが笑った。


俺はその音を聞きながら、赤ん坊の小さな手を握った。


何かを掴むためではない。


ただ、開きっぱなしにしていると、差し出された温かさにそのまま縋ってしまいそうだったからだ。

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