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神に拾われた臆病者 〜逃げ続けた俺は、二度目の人生で旅を始める〜  作者: 星海凡夫


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汚れなき名



第4話 汚れなき名


二度目の人生で最初に学んだのは、生まれるということが、生まれる側にとって少しも美しいものではないという事実だった。


寒さがあった。


圧迫があった。


眩しすぎる光があった。


そして、何ひとつ思い通りに動かない体があった。


息をしようとすると、空気が喉を傷つけた。目を開けようとしても、世界は巨大で、ぼやけていて、形を持たないまま押し寄せてくる。言葉を出そうとしても、喉から漏れるのは、細く、必死で、役に立たない泣き声だけだった。


前の人生から持ち込んだ羞恥が、全部押し潰されて、ただの音になったみたいだった。


誰かの手が、俺を抱き上げた。


温かく、慎重な手だった。


けれど最初の俺には、そんなことすらまともに理解できなかった。ただ、大きすぎる手。高すぎる声。まだ自分の境目すら分からない肌に触れる、粗い布。血の匂い。湯気の匂い。潰した薬草の匂い。磨かれた木の匂い。


頭上には明るい天井があり、暗い梁が何本も走っていた。


耳元の近くで誰かが泣いていた。


別の誰かが、俺の知らない言葉で早口に何かを言っていた。


そのすべてが遠く、近く、痛いほど生々しかった。


そして、俺の上に顔が現れた。


女だった。


汗で髪が額に張りつき、目には、ただの痛みと呼ぶには重すぎるものをくぐり抜けた人間の疲労が滲んでいた。顔色は悪く、唇も乾いている。それでも彼女は、俺を見た瞬間に笑った。


礼儀の笑みではなかった。


安心だけの笑みでもなかった。


彼女は、まるで俺が答えであるかのように笑った。


俺は、誰かの答えになるような人間ではなかった。


彼女は震える唇で、一つの言葉を口にした。


「ルカ」


その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。


けれど、それが俺の名前だということだけは分かった。あの神が、光に飲み込まれる前に、その音を俺の中へ置いていったからだ。


ルカ・オーウェン。


あまりにも清潔な名前だった。


まるで、自分の手の洗い方さえ知らなかった人間に渡された、真っ白な服のようだった。


彼女は俺を胸に抱き寄せた。


心臓の音がした。


速く、強く、確かに生きている音だった。


その数秒間、俺はそれしか聞いていなかった。周りの声も、泣き声も、足音も、部屋の外のどこかで風が打つ音も、全部遠かった。


ただその心臓だけが、何も知らないまま俺を迎えていた。


恥ずかしかったのは、泣いたことではない。


赤ん坊は泣くものだ。


この体には、それくらいしかできなかった。


恥ずかしかったのは、安堵したことだった。


生まれ変わったからではない。


生きていたからでもない。


その女――俺の新しい母が、俺を見ても少しも嫌悪しなかったからだ。


彼女は黒瀬直人を知らない。


あの部屋を知らない。


台所を知らない。


病院を知らない。


煙に満ちた廊下を知らない。


彼女にとって俺は、扉を閉める男ではなかった。


濡れて、赤くて、震えていて、耳障りな声で泣く、新しい名前を持った赤ん坊でしかなかった。


ほんの少しの間、俺はその中に隠れたくなった。


その瞬間、あの部屋を思い出した。


茶の匂い。


低い卓。


曖昧な顔をした神。


そして、いかにも簡単なことのように残された条件。


――君の前で扉が閉まったとき、背を向けるな。


新しい母は、俺の頭を指先で撫で、もう一度名前を呼んだ。


「ルカ」


俺はさらに大きく泣いた。


彼女はそれを、空腹か、寒さか、生まれたばかりの恐怖だと思ったのだろう。


それも間違いではなかった。


けれど、それだけではなかった。


俺はもう、与えられた名前の中へ逃げ込もうとしていた。


最初の数か月、俺の二度目の人生は、腕と天井と眠りの間に収まるほど小さかった。


寝返りを打ちたいと思っても、体にはその力がない。歯もない。言葉もない。手も思うように動かせない。泣き止むことすら、自分で決められない。


人生は、俺を可能な限り低い場所まで小さくした。


それでも、誰も俺を軽蔑しなかった。


それが、この世界で最初に出会った異常だった。


前の人生で、俺は依存を隠れ場所として使った。


ここでの依存は、ただの依存だった。


泣けば、誰かが来た。


腹が減れば、誰かが乳を与えた。


汚せば、誰かの手が俺を綺麗にした。


赤ん坊の体が赤ん坊らしいことをするたびに、大人たちは疲れ、眠そうな顔をし、それでも俺を捨てなかった。


俺はそれに苛立った。


苛立った自分を恥じた。


そして、その恥が形を持つ前に眠ってしまった。


赤ん坊というものは卑怯だった。


反省すら長く保てない。


新しい母の名は、エルナ・オーウェン。


エルナが名前であって、愛称や呼びかけの言葉ではないと理解するまで、少し時間がかかった。


彼女は低い声をしていた。部屋の中で場所を奪わなくても、自然と耳に届く声だった。俺を抱くとき、彼女はよく、あまり口を開かずに歌った。


その歌は、俺のためというより、彼女自身の体に聞かせているようだった。


柔らかく上下する音。


長い母音。


まだ俺には切り分けられない子音。


意味は何も分からなかった。


それなのに、いくつかの夜、俺はその歌に落ち着かされる自分を憎んだ。


憎むには、あまりにも温かかった。


父の名は、ダレン・オーウェン。


初めて彼をまともに見たとき、彼は揺りかごのそばに立っていた。


命令を出すことに慣れた男の姿勢と、赤ん坊を前にして自分の手をどう扱えばいいか分からない人間の顔をしていた。


肩幅は広く、茶色の髪を首の後ろで結んでいる。片方の眉を細い傷跡が横切っていた。その傷のせいで、普通なら少し怖く見えたかもしれない。


けれど彼は、俺を見るたびに困ったような顔をした。


冷たいからではない。


むしろ逆だった。


不用意に触れれば壊してしまうものを前にしたみたいに、彼は慎重すぎるほど慎重だった。


ある日、エルナが俺を彼の腕に預けた。


ダレンは長すぎるほど動かなかった。


大きな手が、俺の背中と頭を支えている。力の入れ方を一つ間違えるだけで傷つけてしまうと、本気で思っているような手だった。


「軽いな」


低い声だった。


当時の俺には、その意味は分からなかった。


けれど後になって言葉を覚えたとき、あの音と意味は自然に結びついた。


エルナは疲れた顔で笑った。


「当たり前でしょう。生まれたばかりなんだから」


ダレンは、ほとんど滑稽なくらい真剣な目で俺を見下ろした。


それから俺の手に指を触れた。


赤ん坊の体という裏切り者は、その指を勝手に握った。


俺の意思ではない。


反射だ。


ただの反射。


それなのに、ダレンは深く息を吸った。


まるで、その小さな力に何かを奪われたみたいに。


彼は強い父親の顔を保とうとして、腕の中に収まる存在を前に失敗していた。


それが、彼が残酷な人間だった場合よりもずっと怖かった。


残酷さなら、まだ分かる。


拒絶なら、知っている。


責められることにも、憎まれることにも、言い訳を作る方法はある。


けれど、借りのない優しさは扱いにくかった。


何も要求されていないのに、何かを返さなければならない気がする。


何も責められていないのに、責められるより苦しくなる。


俺はダレンの指を握ったまま、泣いた。


たぶん、ただ眠かっただけだ。


たぶん、腹が減っていただけだ。


そういうことにしておいたほうが、ずっと楽だった。


エルナが俺を受け取り、胸元へ戻した。


ダレンはまだ自分の指を見ていた。


その顔を見ながら、俺は思った。


この人たちは、俺を知らない。


それなのに、もう俺を大事にし始めている。


汚れなき名。


汚れなき体。


汚れなき家族。


その全部が、俺の前に置かれていた。


祝福みたいな顔をして。


罠みたいな静けさで。


俺はその中で泣きながら、もう一度だけ、神の言葉を思い出した。


――背を向けるな。


けれどこのときの俺には、何に背を向けてはいけないのかさえ分からなかった。


分かっていたのは一つだけだ。


優しさは、火よりも静かに人を焼くことがある。


そして俺は、その温かさにもう手を伸ばし始めていた。

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