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神に拾われた臆病者 〜逃げ続けた俺は、二度目の人生で旅を始める〜  作者: 星海凡夫


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扉を開ける神

第2話 扉を開ける神


死後にあるには、あまりに普通の音だった。


古い木。


丁寧に油を差された蝶番。


雨の前に、家が目を覚ますような小さな音。


気づくと、俺は低いテーブルの前に座っていた。


狭く、静かな部屋だった。


畳のようで、畳ではない床。木のようで、木とは言い切れない壁。窓には白いカーテンがかかっていて、その向こうからやわらかな光だけが差し込んでいる。


景色はなかった。


空も、町も、庭も、道もない。


ただ、光だけがあった。


それなのに、その部屋は不思議と空っぽではなかった。誰かが長く住んでいたような、あるいは誰かを迎えるために何度も整えられてきたような、奇妙な生活感があった。


テーブルの上には、二つの湯呑みが置かれていた。


片方は俺の前。


もう片方は、向かいに座る男の前。


最初に思ったのは、神には見えない、ということだった。


淡い色の髪を無造作に束ね、旅装のような簡素な服を着ている。顔立ちは整っているはずなのに、見た瞬間に息を呑むほど美しいわけではない。


若くも、老いてもいない。


優しそうにも、冷たそうにも見えない。


じっと見れば見える。


けれど視線を外すと、細部だけがするりと抜け落ちた。目の色も、口元の形も、髪の長さも、覚えたそばから水に溶けるように曖昧になっていく。


それが、かえって怖かった。


怪物なら、怖がればいい。


光り輝く神なら、膝を折ればいい。


けれど目の前の男は、あまりにも人間の部屋に馴染んでいた。


男は俺の前へ、湯呑みを少し押し出した。


「飲めるなら、飲むといい」


声は穏やかだった。


優しくも、冷たくもない。


ただ、穏やかだった。


それが、責められるよりも気に障った。


俺は湯呑みを見た。


茶は薄い琥珀色をしていて、麦のような香りがした。少しだけ甘い匂いも混じっている。蜂蜜か、乾いた花か、俺には分からない。


持ちたくなかった。


持てば、この状況を認めることになる。


死んだことも。


この部屋も。


目の前の男も。


それでも、俺の手は湯呑みに伸びた。


指先が温度に触れた瞬間、はじめて自分にまだ手があることを意識した。


噛み跡の残った爪。


青白い肌。


細い指。


あまりにも少ないことにしか使わなかった、あの手だった。


死んだ後までこの手のままなのかと、馬鹿な部分が不公平に感じた。


「俺は死んだのか」


「死んだ」


答えには何の飾りもなかった。


楽しんでいる感じもない。


哀れんでいる感じもない。


ただ事実を置いただけだった。


だからこそ、逃げ場がなかった。


俺は笑おうとした。


喉の奥で、乾いた音だけが出た。


「これは裁きか?」


「正確には違う」


「天国?」


「違う」


「地獄?」


「それも違う」


男は茶をひと口飲んでから、少しだけ考えるように間を置いた。


「間、とでも言えばいい。君に言葉が必要なら、それで足りる」


足りなかった。


けれど、ほかの言葉もなかった。


俺は部屋を見回した。


壁には絵も、時計も、仏壇も、十字架もなかった。何かの宗教を思わせるものは一つもない。あるのは低いテーブル、二つの湯呑み、座布団のようなもの、そして窓から入る景色のない光だけ。


死後の世界にしては、あまりに質素だった。


その質素さが、俺を苛立たせた。


もっと分かりやすくあってほしかった。


燃える地獄。


白い天国。


巨大な裁判所。


母さんの声。


遥の目。


そういうものなら、まだ態度を決められた。


けれどこの部屋では、俺はただ座って茶を出されているだけだった。


まるで、近所の誰かの家に呼ばれたみたいに。


「お前は誰だ」


「神だ」


俺は笑った。


今度はちゃんと笑えた。


短く、醜い笑いだった。


勇気ではない。


反射だった。


「神?」


「そう」


「そんな顔で?」


「君には、こういう顔のほうが都合がいい」


「俺の都合?」


「大きすぎるものなら、君は縮こまる。美しすぎるものなら、君は疑う。恐ろしすぎるものなら、君は罰を受けていると思い込み、そこに落ち着く」


胸の奥で、嫌なものが動いた。


「落ち着く?」


「そうだ」


「俺を知ってるみたいな言い方だな」


「知っている」


即答だった。


俺の怒りは、一瞬だけ行き場を失った。


知っている。


たったそれだけの言葉が、妙に重かった。


「どこまで」


「君が自分を紹介するために使うであろう言い訳に、時間を使わなくていい程度には」


俺は湯呑みを握りしめた。


熱いはずなのに、指は離れなかった。


「なら、俺が何をしたかも知ってるんだな」


「十分には」


「十分?」


「人間一人を、完全に知っていると言うのは傲慢だからね」


「神のくせに?」


「神だから、余計に」


その返しは、妙に自然だった。


俺は言葉を失った。


怒鳴る隙がなかった。


目の前の男は、俺を責めているわけではない。許しているわけでもない。高い場所から踏みつけるわけでも、同じ高さまで降りてきて慰めるわけでもない。


ただ、俺が逃げようとする先に、先回りして椅子を置いているような感じがした。


気味が悪かった。


それなのに、なぜか信用できそうにも見えた。


そのことが、一番気味が悪かった。


「罰しに来たのか」


「違う」


「許しに?」


「それも違う」


二つ目の答えのほうが、思ったより痛かった。


許しを期待していたわけじゃない。


そう言いたかった。


けれど、それもまた小さな嘘だった。


俺の中のどこかは、いつだって許しを待っていた。


母さんから。


遥から。


誰か知らない、もっと大きな何かから。


俺が何も言わなくても、俺の苦しみまで汲み取って、仕方なかったのだと告げてくれる何かを。


そんなものがないことくらい、分かっていたはずなのに。


死んだ後まで、まだ期待していた。


「じゃあ、何をしに来た」


男は湯呑みをテーブルに置いた。


音は小さかった。


けれど、その音で部屋の空気が少し変わった。


「通り道を差し出しに来た」


その言葉は、嫌な重さで俺たちの間に残った。


通り道。


褒美でもない。


救いでもない。


赦しでもない。


ただ、向こう側があることを示す言葉だった。


そして、渡るかどうかがまだ何かの意味を持つと言っているようでもあった。


「どこへ」


「人生へ」


俺はすぐに笑えなかった。


言葉が、胸の奥に引っかかった。


人生。


あまりにも大きくて、あまりにも雑で、あまりにも卑怯な言葉だった。


そんなもの、今さら欲しいわけがない。


そう言いたかった。


でも、口が動かなかった。


浴室の床を思い出した。


濡れたタオル。


煙。


扉の向こうで助けを求める声。


閉めた手。


あの瞬間の自分。


もう一度、という言葉は嫌いだった。


やり直し、という言葉も嫌いだった。


どちらも綺麗すぎる。


俺みたいな人間が口にすると、すぐに腐る。


それでも、人生という言葉だけは、簡単に捨てられなかった。


「何のために」


俺の声は、自分で思ったより低かった。


「俺みたいな人間に、何をさせる気だ」


男はすぐに答えなかった。


その沈黙が、また上手かった。


嘘を探しているようには見えない。


むしろ、俺を壊さない程度に収まる真実を選んでいるように見えた。


そのせいで、俺は必要以上に彼を信用した。


「させる、という言い方は少し違う」


「違わないだろ。神が死んだ人間に通り道を差し出す。どう考えても、裏がある」


「ある」


俺は息を止めた。


男は否定しなかった。


それが最初に上手い一撃だった。


すぐに綺麗な理由を並べていれば、俺は疑えた。


けれど彼は、俺の疑いを正しい場所に置いたまま、茶を飲んでいた。


「あるのかよ」


「ある」


「それを隠さないのか」


「隠すべきものと、隠すと安くなるものがある」


「俺を使いたいんだな」


「たぶんね」


たぶん。


その言い方が、妙に腹立たしかった。


そして妙に、人間臭かった。


「だが、“使う”は短すぎる言葉だ」


男は続けた。


「君の母親は、働くために手を使った。君の姉は、君から離れて生きるために怒りを使った。君は、変わらないために罪悪感を使った。誰だって何かを使う。違いは、それで何を作るか、何を壊すかだ」


「綺麗事だな」


「そうだね」


「簡単に認めるんだな」


「君に嘘をつくには、君をもう少し軽んじる必要がある」


ほとんど感謝しかけた。


そのことが、言葉以上に恥ずかしかった。


俺はあんな死に方をしたばかりなのに、まだ、自分の知性が尊重されたような気がして気分をよくすることができるのだ。


神はそれを見た。


たぶん、見た。


何も言わなかった。


それもまた、俺が彼を信じる理由になった。


最悪だった。


この男は、俺を撫でていない。


俺を責めてもいない。


それなのに、俺が自分から少しずつ近づいてしまうように、距離を置いている。


近すぎない。


遠すぎない。


まるで、扉の前に立つ人間が自分でノブに手をかけるのを待っているみたいに。


「俺がもう一度生きる価値なんてないことも、知ってるんだろ」


「知っている」


答えはあまりに簡単だった。


胸が冷えた。


怒りより先に、納得が来た。


そうだろうな、と思ってしまった。


「なら、なぜ差し出す」


男は、窓のほうを見た。


景色のない光が、彼の横顔を白く縁取っていた。


その輪郭も、見つめている間だけしか覚えていられなかった。


「価値で人が変わることは、あまりない」


「どういう意味だ」


「“値する者だけが次へ進むべきだ”という考えは、聞こえはいい。けれど多くの場合、それは誰が清らかな気分でいてよいかを整理しているだけだ」


俺は黙った。


「君がもう一度生きる価値があるかどうかを、私はここで判決にするつもりはない」


「じゃあ何だ」


「問いだ」


「人生が?」


「そうだ」


男は指先で、テーブルの木目に触れた。


その瞬間、木目が水のように揺れた。


暗い線がほどけ、淡い光がその隙間から滲み出す。


俺は身を引いた。


男は何も言わなかった。


テーブルの上に、知らない風景が映っていた。


低い石垣に区切られた緑の畑。


木々の間を抜ける明るい道。


丘のふもとにある小さな村。


さらに上には、風に囲まれた大きな家。


城ではない。


宮殿でもない。


それでも、そこには安らぎがあった。


広すぎる空間。


多すぎる光。


俺の人生には、最後まで似合わなかったものばかりだった。


「どこだ、ここは」


「次の扉の向こう側だ」


「世界なのか」


「そうだ。剣と魔法が、まだ生きたものとしてある世界だ。いちばん簡単に言えばね」


「物語みたいだな」


「君にとっては、そうだろう」


「俺は、そこで生まれるのか」


「渡るなら」


景色の中で、窓辺に女がいた。


赤ん坊を抱いている。


その隣に立つ男は、固い顔をしていた。けれど感情を隠しきれていない。笑うのが下手な人間が、それでも笑おうとしている顔だった。


その光景は、馬鹿みたいなほど俺を打った。


知らない女。


知らない男。


知らない家。


知らない世界。


それなのに、俺は一瞬、その中へ入りたいと思ってしまった。


その一瞬で、自分が嫌になった。


「やめろ」


「何を?」


「そういうものを見せるな」


「君が欲しがるものだから?」


「違う」


違わなかった。


俺はその家が欲しかった。


明るい窓が欲しかった。


俺をまだ知らない人間の腕が欲しかった。


何も壊していない名前が欲しかった。


母さんの人生を食い潰した俺ではない誰かとして、最初から置かれる場所が欲しかった。


「良い家族のところに置くな」


神は俺を見た。


「なぜ?」


「俺は、それをどうするか知ってる」


声が低く出た。


「誰かが家をくれたら、俺は居座る。誰かが飯をくれたら、俺は受け取る。誰かが俺に値する前に愛してくれたら、俺はそれを、自分がこのままでいていい許可に変える」


神は静かに聞いていた。


「君は、優しさを隠れ場所に変える」


「味方みたいに話すな」


初めて、彼の表情が少し変わった。


哀れみではなかった。


哀れみなら俺は憎んでいた。


たぶん疲れか、気遣いか、俺が人間的と呼ぶしかない何かだった。


「君の味方でなくても、君について嘘をつかないことはできる」


沈黙が落ちた。


世界のない窓の外では、光だけが変わらずそこにあった。


「どこへ」


俺はもう一度、ほとんど同じことを聞いた。


けれど今度は、場所ではなく意味を聞いていた。


男は答えた。


「人生へ」


その瞬間に、代償を聞くべきだった。


たぶん考えはした。


たぶん、死後に誰かが茶を出すような顔で人生を差し出すわけがないと、俺のどこかは気づいていた。


けれど、「人生」という言葉は卑怯なくらい強かった。


扉の向こうで助けを求める声を聞きながら、浴室の床で丸まって死んだ男にとっては。



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