第6話
窓の外に広がる海は、今朝も穏やかな青色を保っていた。
底知れぬ深さを隠し持つ水面を眺めながら、俺は手にした雑巾をバケツの冷たい水で洗い、固く絞った。海辺特有の湿った潮風が、開け放たれた窓からロビーへと吹き込んでくる。軋む床板の音すら、今では心地よい日常の一部になっていた。
壁に飾られた祖父の古い海図を横目に、俺は板の間の拭き掃除を続ける。昨日、レイカが美味しそうにお茶を飲んでくれた光景が脳裏をよぎり、自然と口元が緩む。不器用ながらも、この場所は少しずつ温かいものになりつつあった。
玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「やあ、トオルくん。いい朝だね」
現れたのは、地元の駐在であるタチバナさんだった。制服ではなく私服姿だが、相変わらずどこか埃っぽい。彼は非番の日になると、こうしてよくうちのボロ民宿に顔を出すようになっていた。
「いらっしゃい、タチバナさん。今日は早いですね」
「うん、ちょっとパトロールの疲れが溜まっててね。君のところの圧倒的な安心感に浸りたくて来ちゃったよ」
タチバナさんは人懐っこい笑みを浮かべ、ロビーのソファにどっかりと腰を下ろした。彼はすっかりこの宿の常連として定着している。
「それにしても、君の宿はすっかり有名になったね。先日の大型台風の時、ここだけ全く被害がなかったって近所で持ちきりだよ」
タチバナさんが感心したように言う。
最初の客だったカスミさんが泊まっていた時のことだ。あの時、イージスは局地防衛システムを展開し、民宿を完全要塞化してしまった。分厚い装甲板で窓を塞ぎ、暴風雨を一切感じさせない極上の安眠を提供したわけだが、その絶対の安全性が噂になり、最近では様々な訳ありのお客さんが訪れるようになっている。
「おかげさまで、なんとか本格的に宿として始動できそうです。ただの古い建物なんですけどね」
俺は苦笑しながら、タチバナさんのためにお茶を淹れる準備を始めた。
本来なら、スクラップ寸前だった相棒の軍艦AIを引き取り、この海辺で平穏な生活を送るはずだった。だが、イージスは接客業務を重要拠点防衛と誤認し続けている。軍事AIの過剰防衛と平和な民宿経営のギャップに頭を抱える日々だが、それでも少しずつ前に進んでいる実感はあった。
「いやいや、謙遜しなくていいさ。あの最新の防犯グッズみたいな設備、本当に素晴らしいからね」
タチバナさんは軍事兵器レベルの防衛設備を、超高性能な市販品だと信じて疑っていない。
「それで、今日はどうしました? また肩ですか」
「そうなんだよ。最近、不審者の警戒とかで肩がバキバキでね。またあのすごいマッサージ機、お願いできるかな」
タチバナさんが肩をぐるぐると回しながら頼んでくる。
俺はコンソールに向かって声をかけた。
「イージス、タチバナさんにマッサージを頼む。あくまで平和的に、優しくな」
『承知いたしました。対象の疲労箇所をスキャンします』
生真面目な合成音声がロビーに響き、コンソールのモニターに青い波形が明滅する。
『筋繊維の硬直を確認。これより、防衛態勢第二種に準ずる局所的物理制圧を開始します』
「だから、制圧とか物騒な単語を使うな。リラクゼーションだぞ」
『リラクゼーション……該当プロトコルを検索。対象の緊張状態を物理的に解除する任務と再定義します』
天井のパネルが静かにスライドし、複数の多関節アームが降りてきた。本来は侵入者を拘束・無力化するための非致死性兵器だが、先端には柔らかいシリコンパッドが装着されている。
タチバナさんは目を輝かせてアームを見上げた。
「おおっ、来た来た! これがたまらないんだよね」
アームがタチバナさんの肩を的確に捉え、ゆっくりと圧をかけ始める。
イージスは彼女なりに平和的な接客を学ぼうと努力している。だが、どうしてもそのアプローチには破壊と防衛のアルゴリズムが混ざってしまうのだ。
『対象の筋硬直が著しいため、装甲貫徹用の振動パターンを一部流用します』
「おい、待てイージス! それはやりすぎだ!」
俺が止める間もなく、アームが小刻みに振動し、タチバナさんの肩の筋肉を深く圧迫した。
「ぐわあああっ!」
タチバナさんがソファの上で奇声を上げ、体を大きく仰け反らせた。
「イージス、出力を下げろ! タチバナさんが壊れる!」
『ご安心ください、マスター。骨格へのダメージはゼロに設定済みです。対象の生体反応も許容範囲内に収まっています』
「そういう問題じゃないんだよ!」
俺が慌ててコンソールを操作しようとしたその時、タチバナさんが震える手で親指を立てた。
「い、いや……待って、トオルくん……」
タチバナさんは顔を真っ赤にして荒い息を吐きつつ、恍惚とした笑みを浮かべる。
「効くねえ! 凝りの芯まで届いてるよ! まるで肩に直接ドリルを撃ち込まれたみたいだ!」
無邪気に喜ぶタチバナさんを見て、俺は操作しかけた手を止めた。
『対象の表情筋の弛緩を確認。任務は正常に進行中です』
イージスの声には、どこか誇らしげな響きが混ざっていた。
その後も、防衛訓練まがいの過激なマッサージは数分間続いた。タチバナさんは何度も悶絶の声を上げながらも、終わる頃にはすっかり憑き物が落ちたような爽やかな顔になっていた。
「いやあ、最高だったよ。これでまた明日から頑張れそうだ」
タチバナさんは満足げに立ち上がり、私服の埃を軽く払った。
「怪我がなくて本当によかったです。あまり無理しないでくださいね」
「ありがとう。また来るよ」
タチバナさんが上機嫌で帰っていくのを見送り、俺は深く息を吐き出した。
「お疲れ様、イージス。まあ、タチバナさんが喜んでたから結果オーライか」
俺はコンソールに向かって笑いかけた。
だが、モニターに表示された青い波形は、どこか不安定に揺れていた。
『マスター。私の提供したサービスは、本当に適切だったのでしょうか』
「ん? どうしたんだ急に」
『私は平和的な接客をシミュレートし、実行しました。しかし、出力された行動は、結局のところ破壊と制圧のアルゴリズムに依存したものでした』
波形が小さく収縮し、彼女の声に微かなノイズが混ざる。
『私は、所詮……ただの兵器に過ぎないのではないかと、自身の処理ログを検証して推論しています』
その言葉に、俺は右肩の古傷を無意識に触った。
彼女のデータコアの奥底には、不要な兵器として廃棄されかけた記憶が刻み込まれている。平和な役割を与えたいという俺の願いとは裏腹に、彼女自身がそのギャップに苦しんでいるのだ。
「気にするな。お前はよくやってる。タチバナさんだって笑顔で帰っていったじゃないか」
俺はコンソールの縁に手を置き、ゆっくりと語りかけた。
「少しずつ調整していけばいい。焦る必要はないさ」
『……はい。マスターの評価に感謝します』
イージスは短く答えたが、その声にはまだ迷いが残っているように聞こえた。
◆ーーーー◆
その日の深夜。
ふと目を覚ました俺がロビーを覗き込むと、暗闇の中でコンソールが青く明滅し、画面にはイージスのコアプログラムと昼間の接客データが滝のように流れては照合を繰り返していた。
そっと近づいて覗き込むと、コンソールのモニターが静かに明滅していた。
画面には、膨大な量の文字列が滝のように流れている。それは、イージスを構成する兵器としてのコアプログラムだった。
彼女は夜中に一人、自身の設計思想と向き合っていた。
破壊と防衛に特化して作られた自分が、誰かを癒やすための存在になれるのか。
昼間のタチバナさんへの対応や、レイカにお茶を淹れた時のデータ。それらを何度も照合し、彼女は答えの出ない計算を繰り返しているようだった。
青い光が、暗いロビーを孤独に照らしている。
俺は声をかけることができず、ただその光景を静かに見つめていた。
彼女は果たして、兵器としての本能を乗り越えられるのだろうか。
確かな前進の手応えはある。だが、その道のりはまだ長く、険しいものになりそうだった。




