第1話
海辺特有の湿った潮風が容赦なく吹き込み、軋む床板がギシギシと悲鳴を上げる。
俺は手にした雑巾をバケツの冷たい水で洗い、固く絞ってから再び板の間に這いつくばった。
祖父から受け継いだこの海辺の民宿は、控えめに言ってもボロかった。壁紙はところどころ剥がれ落ち、窓枠の隙間からは砂混じりの風が入り込んでくる。大型台風が直撃しやすいこの過酷な地域で、よく今まで倒壊せずに持ちこたえてきたものだと感心するレベルだ。海辺の再開発を企む地上げ屋がうろついたり、近海に武装密漁団が出現したりと、治安面でも不安を抱える地域でもある。だが、俺にとってはここが新しい城だった。
ロビーの壁には、祖父が遺した周辺海域の古い海図が飾られている。そこには不自然で詳細な手書きの書き込みが多数残されており、子供の頃から不思議に思っていたものだが、今はただのインテリアとして壁のシミを隠すのに役立っている。
雑巾がけに力を込めた瞬間、右肩の奥で鈍い痛みが走った。
思わず手を止め、作業着の上から肩をさする。軍属時代に負った古傷だ。もう随分と前のことなのに、天気が崩れる前や無理をしたときには、こうして自己主張をしてくる。
痛みが引くのを待ちながら、ふと過去の記憶が脳裏をよぎった。
『所詮は人殺しの道具だ。AIに心なんてあるわけない』
かつての同僚が吐き捨てた冷たい言葉が、耳の奥で蘇る。
軍の技術者だった俺にとって、彼女は単なる機械や道具ではなかった。共に数々の危機を乗り越えてきた、かけがえのない相棒だったのだ。
だが、軍の上層部は彼女を危険視した。理由は表向きにはシステムの老朽化とされていたが、俺は知っている。彼女が「人命保護を最優先する」という、軍の命令を超える自己判断能力を獲得し始めていたことを。
スクラップ寸前だった彼女を、俺は軍の廃棄リストからどうにか引き取った。そして、祖父が遺したこのボロ民宿の管理システムとしてインストールしたのだ。
彼女に平和な日常を与えたい。戦いとは無縁の、穏やかな場所で。
それが、俺の強い願いだった。
床の汚れを拭き取りながら、俺は大きく息を吐き出した。
「よし、こんなもんか」
立ち上がり、腰を伸ばす。
客を迎えるにはまだまだ直すべきところが多いが、最低限の清掃は終わった。
次は、いよいよ彼女の再起動だ。
掃除を一段落させた俺は、民宿の裏手に建てたプレハブ小屋へと向かった。
そこは元々ただの物置だった場所だが、今は厳重な空調設備と大型のサーバーラックが鎮座している。海風による塩害を防ぐため、壁には特殊なコーティングを施し、電源も独立したものを引いていた。
メインコンソールの前に座り、電源を入れる。
低い駆動音と共に冷却ファンが回り始め、プレハブ小屋の中に機械特有の匂いが漂った。
モニターに無数の文字列が滝のように流れ落ち、やがて中央に青い光の波形が浮かび上がる。
「システム起動確認。マスター、おはようございます」
スピーカーから、生真面目で透き通るような女性の合成音声が響いた。
「おはよう、イージス。気分はどうだ?」
「各部センサー、正常に稼働中。本艦……いえ、本施設の防衛ラインに異常はありません」
言い直すイージスの波形が、少しだけ不規則に揺れた。
軍艦の制御AIだった彼女にとって、ここはまだ「艦」であり「防衛拠点」という認識なのだろう。彼女の演算能力は、一国の軍事ネットワークを単独で制御できるほどのものだ。それをたかだか部屋数五つのボロ民宿の管理に使うなど、軍の人間が知れば卒倒するだろう。だが、俺は彼女のその能力を、人を癒やすために使いたいのだ。
「これからは軍艦じゃない。ここは民宿だ。お前の新しい任務は、お客さんに快適な空間を提供する『おもてなし』だぞ」
俺が苦笑しながら言うと、イージスは即座に応答した。
「了解しました。マスターの命令を絶対とします。宿泊客の脅威となる対象は徹底的に排除・無力化し、本施設の防衛ラインを如何なる理由があろうと死守いたします」
「いや、だから排除とか無力化とか物騒な単語は忘れろって。平和的に頼むぞ。客の安全とプライバシーを最優先にするんだ」
「平和的……」
イージスの青い波形が、今度は小さく収縮した。
「マスター。私のアルゴリズムは、破壊と防衛に特化して設計されています。平和的な接客業務において、適切なアプローチを選択できるか、計算リソースの多くを消費してシミュレーションを繰り返していますが……最適解が見つかりません」
彼女の声には、機械でありながらどこか切羽詰まったような響きがあった。
「もし、私が民宿の管理に不適格と判断された場合、システムから切り離されるのでしょうか」
それは、彼女が抱える最も深い恐れだった。
軍で不要な兵器として廃棄されかけた記憶が、彼女のデータコアの奥底に刻み込まれているのだ。
俺はコンソールの縁に手を置き、モニターの青い光に向かってゆっくりと語りかけた。
「そんなことしないさ。お前は俺の相棒だ。単なる機械じゃない。やり方が分からないなら、これから一緒に探していけばいい。お前ならできるって、俺が一番よく知ってる」
俺の言葉に、波形がふわりと広がった。
「……感謝します、マスター。貴方の期待に応えるべく、完璧な『おもてなし』を提供してみせます」
「ああ、頼りにしてるよ」
これで少しは安心してくれただろうか。
俺はプレハブ小屋を出て、再び民宿の母屋へと戻った。
数時間後。
開業に向けた備品のチェックをしていると、庭のあちこちから微かな駆動音が聞こえてきた。
窓から外を覗くと、軒下や木の枝に設置された小型の監視カメラが一斉に首を振り、不自然な赤いランプを点滅させている。空を見上げると、いつの間にか数機の小型ドローンが編隊を組んで旋回している。あれは確か、軍事用の索敵ドローンを俺が改造したものだ。プロペラの風切り音が、まるで軍事パレードのように規則正しく響いている。
「おい、イージス。何をしてるんだ?」
俺がインカム越しに尋ねると、イージスの誇らしげな声が返ってきた。
「はい。まずは『おもてなし』の第一歩として、敷地周辺の安全確保を実行中です」
「安全確保?」
「敷地境界線に、高出力の不可視レーザー網を展開しています。不審な侵入者を瞬時に炭化させ、お客様の安眠を完璧にお守りします」
「待て待て待て! それはおもてなしじゃなくて要塞化だ! 炭化ってなんだよ、さっき平和的って言ったばかりだろ!」
俺は慌ててプレハブ小屋へと走り出した。
「マスター、レーザー網の展開は過剰でしたか? 申し訳ありません。ただちに致死性を下げ、重度の火傷に留める設定に変更します」
「そういう問題じゃない! レーザー自体をしまえ! 郵便屋さんが来たらどうするつもりだ!」
「郵便配達員。身元が確認できた非武装の対象であれば、レーザー網を一時的に解除し、ドローンによる監視下で敷地内への進入を許可します。ただし、不審な挙動を見せた場合は即座に制圧します」
「制圧するな! 普通にハンコ押して受け取るだけだ!」
プレハブ小屋に飛び込み、コンソールを叩いて強制的にレーザー網の出力をゼロに落とす。
全く、先が思いやられる。彼女の能力を誰よりも信頼しているのは本当だが、この過剰な防衛本能をどうやって接客業にチューニングしていくか、頭が痛い問題だ。
ドタバタと設定を修正している最中、イージスの音声が急にトーンを変えた。
「マスター。敷地周辺の地中スキャンを実行したところ、異常な反応を検知しました」
「異常な反応? 水道管でも破裂してるのか?」
「いえ。本施設の地下約三十メートル地点に、巨大な空洞が存在します」
モニターの画面が切り替わり、ボロ民宿の地下に広がる広大な空間の3Dマップが表示された。
「なんだこれ……ただの空洞じゃないぞ」
モニターに映し出された3Dマップには、複雑に入り組んだ通路と、巨大なコンテナのようなものがいくつも並んでいる様子が描画されている。ただの防空壕や貯蔵庫にしては、規模が大きすぎる。
「はい。内部に多数の金属反応を確認。形状および配置から、旧軍の隠し物資貯蔵庫である可能性が極めて高いと推測されます」
俺は息を呑んだ。
祖父が遺したこの海辺のボロ民宿。その地下に、なぜ旧軍の施設が眠っているのか。ロビーに飾られたあの不自然な海図の書き込みは、これと関係があるのだろうか。
「マスター。未知の領域です。詳細な探査のため、地中貫通型ドローンの射出許可を」
「いや、ちょっと待て。まずは状況を整理させてくれ」
平和な日常を求めてやってきたはずの場所で、足元に得体の知れないものが口を開けている。
モニターの青い光が、薄暗い部屋の中で不気味に明滅していた。




