第二十ニ話 旅立ちの準備を終え、不穏な気配を知った日の話
魔道都市の門が見えた時には、陽がだいぶ傾いていた。
石の壁は夕焼けを受けて赤く染まり、その下を行き交う荷車の軋む音が乾いた道へ長く響いている。街へ戻ってきたというだけで、足の重さが少しだけ軽くなった。けれど、体の奥には昨夜の戦いと、そのあと一晩野営した疲れがまだ残っている。
シロウは背負い袋の位置を肩で直した。
横ではリテュシアが前を見たまま歩いている。疲れていないはずはないのに、歩き方は相変わらず静かで乱れがない。ララはその少し後ろで伸びをし、ミラは面倒そうな顔のまま足を動かしていた。ユーナだけが妙に元気で、街門の番兵に軽く手まで振っている。
「帰ってきたねえ」
呑気な声だった。
「門が見えた時点で分かります」
リテュシアが言う。
「そういうのじゃなくて、気分的に」
ユーナは肩をすくめた。
門を抜けると、街の匂いが濃くなる。焼いた肉、薬草、金属、乾いた紙、どこかで焦げた魔力の匂い。魔道都市にしかない混ざり方だ。シロウは無意識に少しだけ息を深くした。嫌いではない。この匂いを安心と結びつけていいのかはまだ分からないが、少なくとも外よりは落ち着く。
ユーナの家へ着いた頃には、空の端はもう紫に寄っていた。
その夜は全員あまりしゃべらなかった。
簡単な食事だけ済ませ、荷を下ろし、必要最低限のことだけを確認してそれぞれ休む。ララが一度だけシロウへ何か言いかけ、リテュシアの視線に止められて笑った。ミラは最初から余計なことを言う気もなさそうで、椅子へ座ったまま半分眠っていた。
強い悪魔を潰した夜のあとは、さすがに話も薄い。
シロウが寝台へ倒れ込むと、体の奥から重さがじわじわ上がってきた。目を閉じた時には、もうほとんど意識は沈みかけていた。
次にしっかり目を覚ました時には、朝の光が部屋の中へきれいに差し込んでいた。
昨日までの疲れが残っていないわけではない。だが、体の痛みはない。噛みつかれた首筋も肩も、傷ひとつなくきれいなままだった。そこへ指先で触れ、何もないことを確かめてから、シロウは身を起こす。
居間へ出ると、そこにはすでに卓いっぱいに物が広げられていた。
細長い箱、小さな革袋、丸めた布、背負い袋、見慣れない金具。ユーナがそれらの前に陣取り、何やら楽しそうに並べ替えている。ララは頬杖をついて見ており、ミラは椅子へ深く腰を沈めたまま、まだ半分眠そうだった。リテュシアだけがもう立っていて、卓の上を静かに見ている。
「おはよう」
ユーナが顔を上げる。
「おはようございます」
「ちょうどいい。今から旅立ち前の支度」
言いながら、ユーナは最初の細長い箱を開けた。中に入っていたのは金属の枠と小さな魔石だ。それを手早く組み合わせると、淡い光がふわりと灯る。
「照明ね」
彼女はそれを軽く持ち上げる。
「火より静かだし、風にも強い。洞窟とか夜道なら十分」
次に開けた箱から出てきたのは、低い台座のようなものと丸い輪だった。ユーナが魔石をはめ込むと、中央に薄い熱が灯る。火ではない。だが鍋底を温めるには十分そうだ。
シロウがそれを見て首を傾げると、ユーナがにやりとした。
「地球で言うと、カセットコンロみたいなもんだよ」
その一言で一気に分かった。
「ああ」
「分かった?」
「分かりました」
「でしょ」
ユーナは満足そうに頷く。
リテュシアが横からそれを見ていたが、ユーナはそちらへは何も言わない。ただ次の品を出した。
大きめの背負い袋だった。厚い布と革でできているように見えるが、口の広さと底の張り方が妙に安定している。ララとミラが使っていたものと似ている。
「素材集め用」
ユーナが袋を軽く叩いた。
「見た目よりかなり入る。重さも増えにくい」
ララが笑う。
「ほんと便利なんだよね。これないと帰りつらいし」
「拾いすぎても平気」
ミラが小さく言った。
ユーナは袋をシロウの前へ押す。
「持つのは基本シロウくんで」
「ぼくですか」
「一番強いから」
それはそうだ、としか言えない。シロウは袋を持ち上げる。見た目のわりに軽い。むしろ軽すぎて少し気味が悪いくらいだ。
ユーナは次々に細かいものも出してきた。予備の魔石、火打ち石、頑丈な紐、小型の刃物、保存用の油紙。卓の上が少しずつ「これから出る」形になっていく。
「足りないものは街で買う」
リテュシアがそう言って、すぐに紙と筆記具を引き寄せた。
「保存食、包帯、針、糸、薬草、予備の布」
言葉が迷いなく並ぶ。
「塩も」
ミラが横から言う。
「乾燥肉だけだと飽きる」
「それは重要だね」
ララが笑う。
「あと小瓶も欲しい。油でも薬でも入れられるから」
「鍋は小さめでいいですよね」
リテュシアがユーナを見る。
「二つで足りる」
ユーナは即答した。
「あと杯。割れないやつ」
こういう時のリテュシアは強い。必要なものがどんどん形になる。シロウは途中から相槌を打つしかできず、ただ頷いていた。
「……すごいですね」
思わず漏らすと、リテュシアは紙から目を離さずに答えた。
「旅立つのですから当然です」
「当然なんですね」
「当然です」
迷いがない。
そのやり取りを見て、ララがまた機嫌よく笑った。
「ほんといい感じ」
視線はシロウへ向いている。朝から相変わらずだ。
買い物へ出る段になると、例のリードが当然のように出てきた。
首輪型の魔道具へ金具が掛かり、乾いた小さな音がした。シロウは少しだけ肩を落とす。
「今日もですか」
「今日もです」
リテュシアが平然と答える。
「街の中では必要です」
正しい。腹立たしいが正しい。シロウは何も言い返せず、背負い袋を肩へ掛けた。
昼前の街は活気があった。
石畳の上を荷車が通り、店先には果実や布や干し肉が並ぶ。研究区画から流れてきたような焦げた匂いが風へ混じり、どこかで金属を打つ音がする。魔道都市はやはり普通の街とは少し違う。
リテュシアはまっすぐ前を見て歩く。
必要な店を見極めるのも早い。布屋、薬屋、保存食を扱う店、雑貨屋。シロウはその半歩後ろを歩き、言われたものを持ち、言われた場所で止まる。少し情けない気もするが、勝手に動いて面倒を起こすよりはずっとましだ。
ララはそんな二人の後ろを楽しそうについて回った。
「ねえ、それ似合いそうじゃない?」
布屋では、旅用の厚い布をシロウの肩へ軽く当ててみる。
「荷物持つ?」
雑貨屋では、同じ袋へ手を伸ばしかける。
「こっちの色の紐の方が好き」
どうでもいいことまで口にする。
そのたびに、リテュシアがするりと間へ入った。
「結構です」
「それは不要です」
「戻してください」
淡々としている。だが全部止まる。
ララはそのたびに笑うだけで引く。引くが、しばらくするとまた自然に近づく。距離感が独特だ。酔っているわけでもないのに、最初から少し崩れている。
シロウは途中から、それにどう反応すれば正解なのか分からなくなっていた。
怖くはない。嫌でもない。だが慣れていない。しかも向こうは隠す気がない。
ミラは相変わらず必要な時しか口を出さない。
「その布、薄い」
「小瓶もう少し」
「針は太いのも」
短い。だが間違っていない。ユーナは店先をふらつきながら、勝手に余計なものまで増やしていた。
「それ何に使うんですか」
シロウが聞くと、
「何かに」
としか返ってこない。
買い物を終えて家へ戻る頃には、陽はもうだいぶ傾いていた。
居間へ荷を下ろし、背負い袋へ順番に詰めていく。照明用の魔道具、調理器具、保存食、小瓶、布、薬草。旅立ちの輪郭がそこで一気に濃くなる。
ユーナは途中で何か思いついたらしく、研究室から小さな箱を一つ持ってきた。
「予備」
それだけ言って袋へねじ込ませる。
「何の予備ですか」
「何かの予備」
らしい答えだった。
夕方になると、食事の支度が始まる。
今日は酒も出た。
昨日は全員疲れ切っていて、そういう空気ではなかった。だが今夜は違う。旅立ち前の最後の夜だという意識が、卓の上へ少しだけゆるい空気を作っていた。
肉を煮た匂いが部屋へ広がり、焼いた生地が湯気を立てる。果実の酸味を残した甘い煮込みも並べられ、中央には琥珀色の酒瓶まで置かれた。
ララが上機嫌に瓶を持ち上げる。
「今日くらいいいでしょ」
ユーナも止めない。ミラは最初から杯を出していた。リテュシアも一度だけ瓶を見てから、自分の杯を差し出す。
シロウは即座に首を振る。
「ぼくは飲みません」
「知ってる」
ユーナが言う。
「でも勧めるくらいはするよ」
「しないでください」
「未成年だもんねえ」
その一言をさらりと言うのがユーナだ。リテュシアは意味を完全には分かっていないらしかったが、シロウが飲まない理由としては納得したようで、それ以上何も言わなかった。
「まだ飲めません」
シロウは真面目に言い切る。
「えらいえらい」
ララが笑う。
「じゃあ今日は見てるだけね」
「その言い方嫌なんですけど」
とはいえ、実際見るだけになった。
酒が入るとララは少しだけ顔が赤くなる。目元も柔らかくなる。けれど本気で酔っているというほどではない。むしろ、酔ったことを少しだけ言い訳に使っているような雰囲気がある。
「シロウくん、ほんとに飲まないの?」
「飲みません」
「一口も?」
「一口もです」
「堅いなあ」
そう言いながら、ララはわざわざ椅子を少しずらした。距離が近くなる。シロウが身を引くより先に、リテュシアの手が杯を置いた。
「ララ」
呼ぶだけだ。
それだけでララは手を止め、くすりと笑う。
「分かってるって」
「本当に」
「本当に」
言い方は軽い。だが、そのあともまた少しずつ距離を詰めようとする。酔ったふりをして肘を寄せたり、話をする時だけ必要以上に顔を近づけたり。
そのたびに、リテュシアが自然に間へ入った。
「それ以上は」
「近いです」
「椅子を戻してください」
静かなのに、全部止まる。
シロウは横で温かい飲み物を持ったまま、どうしていいか分からなかった。怖くはない。けれど落ち着かない。ララが本気で酔っているのか、酔ったふりをしているだけなのかも、やはりよく分からない。
ミラが杯を傾けながらぼそりと言う。
「酔ってないでしょ」
「ちょっとは酔ってるよ」
ララは笑う。
「ちょっとは」
「そのちょっとが面倒」
ミラはそう言って、自分の杯へまた口をつけた。
リテュシアは平然としていた。
酒を口にしても顔色は変わらない。動きも乱れない。杯を持つ手も、ララを止める視線も、全部いつも通り整っている。
それを見てシロウは少しだけ感心した。
「強いんですね」
つい口から出た。
「何がですか」
「お酒です」
リテュシアは少しだけ考えるような間を置いた。
「普通です」
普通ではないと思う。だがそこでララがまた笑い出したので、それ以上は言えなかった。
やがて、シロウは限界を感じた。
大人の酒の席には、独特の空気がある。ユーナは勝手に楽しみ、ララは距離を詰めてきて、ミラはそれを冷たく見ている。リテュシアがいるからまだいいが、これ以上いると自分が変なことを言いそうだった。
シロウは杯を置いて立ち上がる。
「ぼく、もう寝ます」
ララが顔を上げる。
「早くない?」
「ちょうどいいです」
「逃げた」
ミラが言う。
「逃げます」
シロウは正直に認めた。
「おやすみなさい」
それだけ言って、さっさと部屋へ戻る。背中の方で笑い声が上がったが、振り返らない。扉を閉めると、ようやく少しだけ静かになった。
部屋へ戻り、寝台へ倒れ込む。
今日は一日歩き回った。街を回って、荷を持って、買い物をして、袋を詰めて、最後は酒の席から逃げてきた。疲れていないはずがない。
目を閉じる直前、ふと明日からのことが頭をよぎる。
また出るのだ。今度はもっと長く。迷宮の中で一人きりだった頃を思えば、信じられないくらい遠い話だ。
そう思っているうちに、意識はすぐに沈み始めた。
居間では、シロウがいなくなってから空気が少し変わった。
ララは杯を指先で回し、ミラは淡々と飲み、ユーナは肘をついて灯を見ている。リテュシアは相変わらず平然としていたが、杯の中身はもう半分以下になっていた。
ユーナがその横顔をちらりと見る。
「リテュシアちゃん」
「何ですか」
「一つだけ」
ユーナの声は軽い。だが笑ってはいなかった。
「忘れないでほしいんだけど」
リテュシアは答えず、視線だけを向ける。
ユーナは杯の縁を指でなぞった。
「シロウくんの中にいるかもしれないのは、ただの強い悪魔じゃない」
灯が小さく揺れる。
「暴虐の悪魔は九大悪魔の筆頭だよ。一番強くて、一番異常」
ララもミラも口を挟まない。二人とも、この調子のユーナを知っているのだろう。
リテュシアは静かに酒を口へ含み、飲み下した。
「分かっています」
「本当に?」
「ええ」
ユーナは少しだけ目を細めた。
「前回、中級悪魔を倒した時も、シロウくんには大きな変化が出てない」
指先が杯の縁を離れる。
「完全に取り込んでいるのか、まだ取り込んでいる途中なのか、それとも別の形で中に残っているのか。そこがまだ分からない」
リテュシアはその言葉を聞いても眉ひとつ動かさなかった。
「あなたは、どう考えているのですか」
そこで初めて問いを返す。
ユーナは少しだけ肩をすくめた。
「今のところは、取り込んでいる途中かなと思ってるけど」
「確信ではない」
「絶対じゃない」
ユーナはそう言って笑みを薄く戻す。
「だから見たいし、知りたい」
その言葉だけは、いつもの研究者の顔そのものだった。
少し沈黙が落ちる。
ララは杯を持ったまま、リテュシアを見る。ミラも何も言わず視線だけを向けていた。
リテュシアは静かに酒を飲み、杯を置いた。
「それでも、わたしのやることは変わりません」
短い声だった。
だがその場で一番強い答えでもあった。
ユーナは一瞬だけ笑みを深くする。
「そう言うと思った」
「でしょうね」
そこで会話は終わった。
もう一杯だけ注がれ、ララがまた何か言いかけ、ミラがそれを面倒そうに受け流し、ユーナがいつもの顔へ戻る。だが、さっきの言葉だけは酒の匂いの下に沈んだまま残っていた。
立ち上がった時、リテュシアの足取りは乱れていなかった。
顔色も変わらない。目元もはっきりしている。だから誰が見ても、彼女はいつも通り平然として見えただろう。
部屋へ戻った時、シロウはもう眠っていた。
寝台の上へ大きな体を横たえ、規則的に呼吸している。ローブは脱いでいて、首輪型の魔道具だけが首元に残っていた。薄い灯りがその輪郭をぼんやり照らしている。
リテュシアは扉を閉め、しばらく黙ってその寝顔を見た。
それから自分の寝台ではなく、シロウの寝台へ向かう。
躊躇はなかった。
布を少し持ち上げ、そのまま潜り込む。眠っているシロウの体へ腕を回し、胸へ顔を寄せる。そこではじめて、酒の熱が頬へわずかに浮いた。
シロウの体がびくりと揺れた。
「……ん」
すぐに目が開く。寝ぼけた目が至近距離のリテュシアを捉え、次の瞬間にはっきり覚めた。
「リテュシアさん!?」
「起きましたか」
平然とした声だった。
シロウは半分夢の中みたいな顔で、腕の中のリテュシアを見下ろす。距離が近い。近すぎる。しかも、さっきまでの酒の匂いがふわりと届いた。
「酒くさいです」
思わず出たのはその一言だった。
リテュシアの睫毛が一度だけ揺れる。
「少しだけです」
「少しじゃない気がします」
「そうでしょうか」
声は落ち着いている。けれど、いつもの切れ味がほんの少しだけ鈍い。そこでようやく、平然としていたのは平然としていただけで、酔っていないわけではなかったのだと分かる。
リテュシアはシロウの胸へ顔を押しつけたまま、腕の力を少し強めた。
「今日は、こっちです」
「何がですか」
「こっちがいいです」
あまりにも率直だった。
シロウはどうしたものかと一瞬だけ固まる。逃げるという選択肢はない。腕の中にいるのがリテュシアでなければ飛び起きていたかもしれないが、今は不思議とそうならなかった。
代わりに、どう扱えばいいのかが分からない。
「……リテュシアさん」
「はい」
「酔ってますよね」
「少しだけです」
その返事の遅さで分かる。少しでは済んでいない。けれど崩れてはいない。そこがまた厄介だった。
シロウはしばらく迷った末、そっと手を伸ばした。
頭へ触れる。
リテュシアの髪はさらりとしていて、指の間を静かに滑った。昼間や戦いの中で触れるのとは違う、寝床の中の柔らかさがある。
「……こうですか」
誰に聞くでもなく呟いて、ゆっくり撫でる。
リテュシアは何も言わなかった。ただ、小さく息を吐いてさらに体重を預けてくる。
シロウはもう片方の手で、今度は首の後ろあたりを軽く撫でた。
昨日の夜、自分がそうされたことを思い出している。戦いのあと、頭と首筋を撫でられて、あの熱が落ち着いていった。今は少しだけ、それを返しているのかもしれない。
「大丈夫ですか」
聞くと、リテュシアは目を閉じたまま答える。
「大丈夫です」
声が少し低い。
「ならいいですけど」
「あなた、上手ですね」
「何がですか」
「よしよしが」
その言い方に、シロウは耳が熱くなるのを感じた。
「そういう言い方やめてください」
「ですが事実です」
事実と言われても困る。
けれど、リテュシアの呼吸は少しずつ緩やかになっていた。最初は妙にしっかりしていた意識が、撫でているうちに少しずつほどけていくのが分かる。酒の匂いはまだする。けれどそれも、今はもう嫌ではなかった。
シロウは頭を撫で続ける。
夜は静かだった。
窓の外からは遠くの風の音だけが聞こえる。部屋の中には二人分の呼吸と、時々布が擦れる小さな音しかない。
「リテュシアさん」
返事はない。
見下ろすと、もう眠っていた。
いつもなら隙のない顔が、今は少しだけ幼く見える。強くて、賢くて、迷いなく前へ出る人間が、自分の腕の中でこんなふうに眠るのは妙に不思議だった。
シロウはもう一度だけ頭を撫で、それから自分も目を閉じた。
翌朝はすっきりと晴れていた。
窓から差し込む光は明るく、昨日までの疲れを少しだけ追い出してくれる。起きた時、リテュシアはもう身支度を整えていたが、顔色も目元もいつも通りだった。
「おはようございます」
声まで平然としている。
「おはようございます」
シロウは一瞬、昨夜のことが夢だったのではないかと思いかけたが、鼻の奥へかすかに残る酒の匂いで違うと分かった。
「よく眠れましたか」
「……たぶん」
そう返すと、リテュシアはわずかに目を細めた。覚えていないわけではないらしい。けれど、それ以上は言わない。その距離感がありがたかった。
居間へ出ると、ユーナ、ララ、ミラがすでに待っていた。
荷はもうまとめてある。背負い袋も、照明も、調理器具も、全部玄関近くへ整えられている。
「じゃ、行ってらっしゃい」
ユーナが手を上げる。
「無茶はしないでね」
「しますよね、たぶん」
ミラが言う。
「なるべくしません」
シロウが返すと、ララが笑った。
「帰ってきたら話聞かせてね」
「無事ならね」
ユーナが軽く続ける。
リテュシアは短く頷いた。
「行ってきます」
シロウも同じように頭を下げる。
「行ってきます」
二人が家を出る。扉が閉まる。
その音が消えるまで、誰もすぐには動かなかった。
やがてユーナが立ち上がる。
「研究室戻るよ」
その声色が、そこで変わった。
軽さが消えた磨いた金属みたいな硬い声だった。ララとミラはそれに何の反応も示さず、ただ当然のようについていく。
研究室へ入る。扉が閉まる。
居間とは違う空気がそこにはあった。紙と薬液と魔石の乾いた匂い。整然と並んだ器具。外へ見せる顔とは別のユーナの場所だ。
彼女は振り返らずに言った。
「大至急、王国の暴虐の悪魔の迷宮を調べてきて」
ララの表情から笑みが消える。
ミラも壁から背を離した。
「確認だけでいいの?」
ララが聞く。
「内部には入れない」
ユーナは机の上へ手をついたまま答える。
「認められた生贄以外、あそこは通さない。でも、近づけば分かる。いるか、いないかくらいはね」
ミラがわずかに眉を寄せる。
「前に行った時」
「うん」
ユーナはそこで初めて振り返った。
「前は近づいただけでちびりながら気を失っただろう」
ララが顔をしかめる。
「あれは忘れてほしいんだけど」
「忘れない」
ユーナは冷たい顔で言う。
「近づいて、ちびらなかったら暴虐の悪魔はいないって事さ」
ララはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「そんなに危ないのに、行かせてよかったの?」
問いそのものには反抗の色がない。ただ確認だ。ユーナの判断を理解しているからこその問いだった。
ユーナは即答した。
「それ程危険だから、魔道都市に置いておけなかった」
研究室の空気が少し冷える。
「もし、ここで暴走したら被害が大きすぎる」
ララはそれを聞いても言い返さない。ミラも同じだ。二人とも、ユーナがこういう顔をする時の意味を知っている。
「分かった」
ララが言う。
「見てくる」
「すぐ行く」
ミラも短く続けた。
二人が出ていく気配がして、研究室はまた静かになった。
ユーナは一人になると、机の上へ視線を落とした。紙の束、魔石、記録の断片。そのどれを見ているのでもない。
暴虐の悪魔。
王国の迷宮。
アーシアン。
そこまで言葉が並び、彼女の思考はそこで止まる。
口には出さない。ララにもミラにも言わない。シロウにも、リテュシアにも当然言わない。
だが、可能性としては高い。
あれほど異常だった理由。あの暴虐さ。あの迷宮。もし本当に暴虐の悪魔がアーシアンだったなら、シロウの異常さにも一本筋が通る。
だからこそ、誰にも知らせる気はなかった。
知らせれば余計なものが動く。知れば二人も変わる。変わられるのは面倒だし、危険だ。
ユーナは小さく息を吐き、机の上の紙を一枚引き寄せた。
書くべきことはまだ多い。観察も、仮説も、検証も足りない。けれど今はまず、迷宮の確認が先だ。
窓の外では、すでに朝の光がしっかり街を照らしている。
その下を、シロウとリテュシアはもう歩いているはずだった。




