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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜【更新停止中】  作者: よるねこ


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第二十一話 中級悪魔を正面からねじ伏せた日の話

 悪魔の胴へ回した腕の内側で、硬い塊のような感触が暴れていた。


 地面へ叩き伏せたそいつは、まだ終わっていない。四肢をばたつかせ、爪で土を掻き、喉の奥で濁った咆哮を絞り出している。湿った土が抉れ、草の根が千切れ、焚火の明かりがそのたびに揺れた。


 シロウは歯を食いしばる。


 重い。だが、それだけだった。重さはある。力もある。けれど、押し返される感じはない。むしろ、腕の中でもがくたびに、どこへ力を逃がそうとしているのかが分かってしまう。右へ捻る。次は前脚を抜こうとする。その癖が、抱え込んだ胴の奥から手に伝わってくるのが気味悪かった。


「そのままです」


 横から飛んだリテュシアの声は短い。


 シロウは返事をする余裕もなく、言われた通りにさらに体を沈めた。腰を落とし、腕へ力を込める。悪魔の胴がぎしりと嫌な音を立てる。


 焚火の明かりが揺れ、その輪の中で相手の姿がはっきり見えた。


 獣に近い。だが獣ではない。肩から背にかけて不自然に盛り上がり、前脚は人の腕の名残を引きずったように長い。頭部は細長く、口の端から濡れた牙が何本も覗く。目は暗く、粘つくような鈍い光しか返さない。


 強い。


 ただ近くにいるだけで、胸の奥へ重たいものを押し込んでくる類の気配だ。低級悪魔の軽さとは比べ物にならない。ララが気配を拾った理由も、ユーナが様子を見ようとした理由も、今ならよく分かる。


 その悪魔が、今はシロウの腕の中でもがいていた。


 リテュシアはその横へ回っている。焚火を背にして低く構え、視線を一度も逸らさない。手の中の魔道具が細くしなり、夜気を裂くように鳴った。地下で見たのと同じ武器のはずなのに、今の彼女が持つと別物に見える。あれは遊びではない。仕留めるための手だ。


 悪魔が急に体を捻った。


 片脚を無理やり地面へ突き立て、反転しようとする。シロウの体勢が一瞬だけ浮く。胴へ回した腕の締めがずれ、悪魔の片腕が抜けかかった。鋭い爪が夜気を裂き、その先には焚火の向こうのララたちがいる。


 背筋が冷えた。


 その時だった。


 悪魔の首が伸びるように振られ、牙がシロウの肩口へ噛みついた。


 布が裂ける音がした。牙が食い込む感触もある。だが、それだけだ。深くは入らない。痛みも、熱も、来ない。肩へ張りついたまま力任せに噛み潰そうとしているのに、肉へ届いていないのが分かった。


 それでも嫌な感じはある。


 異物が無理やり触れている感触だけが残り、気持ち悪い。


 シロウは肩を振り払わず、そのまま悪魔の胴へ力を込めた。


「シロウ」


 リテュシアの声が飛ぶ。


 短い。その一声だけで十分だった。


 シロウは踏み直す。浮きかけた腰を落とし、足を深く土へめり込ませる。噛みついたままの頭ごと押さえ込み、抜けかかった腕も胴へ戻す。


 今度こそ逃がさない。


 そう思った瞬間、力の入り方が変わった。押さえるだけでは足りない。踏ん張らせるから暴れる。なら、踏ん張れないようにすればいい。


 シロウは悪魔の胴を抱えたまま、ぐっと持ち上げる。


 土を離れた瞬間、悪魔の暴れ方が変わった。


 踏ん張れない。地面へ力を逃がせない。四肢をばたつかせても、空中では空を掻くだけだ。噛みついた牙もすぐに離れ、代わりに喉の奥から苛立った咆哮が漏れる。


 シロウはさらに持ち上げた。


 重い。だが、腕が震えるほどではない。むしろ持ち上げてしまった方が、相手の動きが読みやすい。暴れる方向が限られる。逃げ場がなくなる。


 焚火の向こうで、ララが息を呑んだ。


 ミラも何か言いかけたが、声にはならない。


 ユーナだけが妙に静かだった。焚火越しに見ている気配だけがある。今この場で一番楽しそうなのに、一番動かないのもあの女らしい。


 リテュシアの目が細くなる。


「そのままです」


 シロウは頷くこともできない。ただ言われた通りに持ち続ける。


 悪魔が今度は首を引き、空中でもう一度噛みつこうとした。狙いは首筋。シロウの顎の下へ牙が走る。だが、そこでも同じだった。首の皮膚を噛み切るどころか、押しつけるだけで止まる。ざらりとした感触が残っただけで、血は出ない。


 その瞬間、シロウの中で何かが決まった。


 痛くない。


 通らない。


 なら、気にする必要もない。


 悪魔の頭を自分の顎の下から押し外すように肩を使い、そのまま持ち上げた体勢を崩さず固定する。両腕の中で胴体がみしりと鳴る。噛みつこうとした頭が一瞬だけ外へ逸れ、首の線が露わになる。


 リテュシアが一歩踏み込んだ。


 手首が返る。ムチ型の魔道具が細い刃の光を帯びる。


 次の瞬間、横薙ぎの一閃が悪魔の首を走った。


 裂ける音は乾いていた。


 太い首が一瞬遅れてずれ、頭部が胴から離れる。血のような黒い液が弧を描いて散り、焚火の光を受けて鈍く光ってから土へ吸われた。


 ここで終わるはずだった。


 首は落ちた。仕留めるには十分だ。リテュシアの一撃は迷いなく通っている。


 だが、シロウの体はまだ止まらなかった。


 持ち上げた腕が、そのままさらに締まる。


 首のない胴を抱えたまま、無意識に力を込め続けている。切られて急に軽くなったせいで、余計に力が奥まで入ったのかもしれない。胴へ回した腕が肉へめり込み、骨が悲鳴みたいな音を立てた。


 ぐしゃり、と湿った音が夜に響く。


 悪魔の胴が不自然にくびれ、次の瞬間、そのまま上下に裂けた。


 腹から胸までが裂開し、持ち上げられていた胴の上半分と下半分が別々の重さになってぶら下がる。黒い液体と肉片が雨のように散り、裂けた断面が焚火に照らされてぬらりと光った。


 シロウはそこでようやく、自分がやりすぎたのだと気づいた。


 腕の中に残った感触が生々しい。潰したつもりだった。ただ締めただけだった。それなのに、相手の胴は耐えきれずに裂けてしまった。


 残骸が左右へ落ちる。鈍い音が二つ。地面に広がる影がさらに歪む。


 それでもシロウはすぐに手を離せなかった。


 呼吸が荒い。胸の内側で熱いものがまだ渦を巻いている。傷はない。肩も首も、噛みつかれたはずなのに痛みひとつない。血も出ていない。けれど、戦いの熱だけが体の中で騒いでいた。


 焚火の向こうで、ララが笑っていない顔をしていた。


 いや、違う。笑っていないのではない。息を呑んだまま目を見開き、そこへ熱を集めている顔だ。唇は少しだけ開いていて、頬がわずかに上気して見える。見惚れるのに近い。


 ミラは目を細め、裂けた悪魔の残骸とシロウとを何度も見比べていた。引いているようにも見えるし、評価を改めているようにも見える。


 ユーナは一歩も動かず、ただじっとこちらを見ている。焚火越しでも分かる。あの目は完全に観察の目だ。


 シロウは呼吸を一つ、二つと繰り返した。


 まだ腕に力が残っている。指先まで熱い。視界の端が少しだけ赤く見える。血の匂いと土の匂いが今になって鼻へ戻ってきて、頭の奥がまだ終わっていないと告げている。


 その時、誰かが近づく気配がした。


 ララではない。あの柔らかく甘い足運びではない。


 シロウが顔を向けるより早く、リテュシアが目の前に立っていた。


 距離が近い。


 さっき首を噛まれた場所へまだ異物感が残っているのに、その顔を見た瞬間、別の意味で息が止まりそうになる。


 リテュシアはシロウの顔を見上げた。


 裂けた悪魔の残骸も、肩や首筋についた黒い汚れも、荒い呼吸も見えているはずだ。なのに、眉ひとつ動かさない。怖がっていない。引いてもいない。ただ、当然のようにそこへ来ている。


「もう大丈夫です」


 声は静かだった。


 それだけで、腕にこびりついていた力が少し緩む。


 シロウはようやく悪魔の残骸から手を離した。肉が地面へ落ちる鈍い音がした。腕を下ろしても、さっきまで抱えていた感触だけは消えない。


 リテュシアは一歩近づいた。


 白く細い手が伸びる。


 頭へ触れられた。


 シロウの肩が小さく跳ねる。だが、その手は乱暴ではない。髪の上をすっと撫で、そのまま首筋へ指先が移る。噛みつかれた場所を確かめるように、けれどあくまで優しく。


「よくできました」


 短い言葉だった。


 けれど、それだけで十分だった。


 頭を撫でられ、首筋へ指先が触れるたびに、体の奥に残っていた戦いの熱が少しずつ引いていく。呼吸が落ち着く。肩の力が抜ける。視界の端の赤さも消えていく。


 シロウはようやく、まともに息を吐けた。


「……無傷ですね」


 リテュシアの指先が首筋をなぞったまま言う。


「はい」


 自分で答えながら、少し不思議だった。あれだけ噛まれたのに、痛みは本当にない。肩も首も、ただ汚れているだけだった。


「なら十分です」


 リテュシアはそう言って、もう一度だけ頭を軽く撫でた。


 焚火の向こうで、ララがようやく息を吐いた。


「すごいね」


 声が少し熱っぽい。


 ミラが横でぼそりと言う。


「思ったより、ちゃんとしてる」


「失礼だなあ」


 ユーナが笑いながら立ち上がる。


「でもまあ、想像以上ではあったね」


 そのまま悪魔の残骸へ歩いていく。裂けた胴を見下ろし、転がった頭部をつま先で軽く押してから、腰を落として何かを探り始めた。


 ララもついていく。ミラは少し遅れて立ち上がった。


 シロウはその場に立ったまま、まだリテュシアのすぐ近くにいた。手はもう離れているのに、頭と首筋にはさっき撫でられた感触だけが残っている。戦いの熱が引いたあと、その感触だけがやけに鮮明だった。


 ユーナが残骸の中から小さな魔石を拾い上げる。


 焚火の光へかざすと、表面の色が少し薄い。


「薄いね」


 ララが横から覗き込む。


「ちょっと持っていった感じ?」


 シロウはその言葉に、無意識に自分の手を見下ろした。今は爪を出していない。ただ、さっきこの手が何をしたのかだけは、嫌でも分かっている。


 ミラが短く言う。


「素材は残ってる」


「十分だね」


 ユーナは上機嫌だった。


「情報も素材も取れたし、何より見れた。今日は当たり」


 完全に研究者の顔だ。


 ララが立ち上がる。


 今度は焚火越しではなく、まっすぐシロウの方へ歩いてきた。目が合う。最初からずっと好意的だったが、今はそれがさらに露骨になっている。隠す気もないらしい。


「シロウくん」


 呼ばれただけで、シロウは少しだけ身構えた。


「……何ですか」


「ほんとに強いね」


 真っ直ぐな声だった。お世辞でも持ち上げでもない。本気でそう思っている声だ。


 ララはそのままもう一歩近づこうとする。


 その前へ、リテュシアが明確に入った。


 さっきまでのような自然な間の取り方ではない。分かるように、一歩前へ出る。細い背中がシロウの前を塞ぎ、ララとの距離を完全に切った。


 ララはそこで足を止めた。


 一瞬だけ、リテュシアと目が合う。


 それからララは小さく笑った。


「仲いいね」


「はい」


 リテュシアは迷いなく答えた。


 短く、それだけ。


 その一言で空気が変わる。シロウは思わずリテュシアを見る。否定する理由があるかと自分へ問いかけてみるが、見つからない。むしろ、そう言われて当然だという気持ちの方が強い。昨日から今夜までに積み上がったものを思えば、それを違うとする方が嘘だった。


 シロウは結局、何も言わなかった。


 ただ首を振らず、リテュシアのすぐ後ろに立ったままでいた。


 それだけで十分だった。


 ララの笑みが少し深くなる。


「そっか」


 不満そうではない。むしろ余計に面白くなったという顔だった。


「いいね」


「何がですか」


 ミラが横から気だるそうに聞く。


「いろいろ」


 ララは笑ったまま、それ以上は踏み込まなかった。今はこれ以上行かない方がいいと分かっている顔だ。


 ユーナがそのやり取りを見ながら、肩を揺らす。


「これなら問題ないね」


 軽い調子だったが、それは許可に近かった。


「まだ見ることは山ほどあるけど、とりあえず外には出せる」


 リテュシアが短く言う。


「十分です」


 シロウは何も返せなかった。


 ただ、自分の胸の奥に残っている熱が、もう戦いの興奮だけではないことだけは分かっていた。前に出て、押さえて、持ち上げて、裂いた。その全部をリテュシアの手が静めた。ユーナも、ララも、ミラも、それを見た。


 焚火の明かりが四人の影を地面へ長く落とす。


 その中心に自分とリテュシアがいる。少し外れたところにララ。さらにその向こうにミラとユーナ。立つ位置の違いが、そのまま今の関係の形のようだった。


 シロウはゆっくり息を整え、ローブの襟元を直した。


 裂けた悪魔の残骸からは、まだ血の匂いが立っている。気味が悪くないわけではない。自分がやったことなのに、まだどこかで他人事みたいに感じている自分もいる。けれど、隣にリテュシアが立っているだけで、それを今すぐ全部理解しなくていいと思えた。


 リテュシアが横目でこちらを見る。


「立てますか」


「立ってます」


「そうですね」


 それだけのやり取りだったが、シロウは少しだけ笑った。


 戦いには勝った。終わりではない。むしろここからだ。けれど、前に出ることがもう怖いだけではないと、今夜初めて分かった。


 焚火の火がまた小さくはぜた。


 夜はまだ長い。だが、その長さの中にさっきまでの迷いはなかった。

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