3・公爵令嬢の誕生パーティ
ノックに対してお入りと柔らかな声がかかったので、わたしはお辞儀をして旦那さまの書斎に入った。
侍女長が言っていた通り、旦那さまと奥さまが正面の椅子にかけられ、エドワードさまがご両親の傍におられる。時を感じさせる重たい木材の香りと書物とインクの匂いが混ざったアディソン公爵の書斎は実用的な作りだけれど立派なお部屋で、長い事このお館に勤めているけれども、ヴィクトリアさま付きのわたしは数える程しか入った事がないので緊張する。
けれど、御当主夫妻である旦那さまと奥さまは、下働きの者にもお優しく心配りなさる方々なので、怖いと感じた事はない。旦那さまは国政でも重要な位置におられ、皆の尊敬を集める御方で、奥さまは美貌で知られているにも関わらず結婚なさってからは社交に必要な事以外は全く目立つ場所に立たれる事なく、内助の功を尽くしておられる。まったく、このご夫妻のお子様たちだから、エドワードさま、ヴィクトリアさま、妹のクリスティーナさま皆さまが素晴らしい気質にお育ちなのだろうと思う。
ちょっと主君贔屓がきつい、って? でも本当に毎日なんの不満もなく過ごせる素敵な職場なんだもの。男爵家の養女とはいえ元は孤児であるわたしが、こんな環境であんな素敵なお嬢様にお仕え出来る事に、わたしは毎日感謝の祈りを捧げているくらいだ。
「やあアリス、遅い時間に済まないね」
と旦那さまは優しく仰った。
「いえそんな、お気遣い勿体なく存じます」
「さっき帰宅して、エドに話を聞いたものでね。ヴィクの事なら直接そなたに聞いた方が早いと思ってな。ヴィクがそなたに話した夢の内容、なるべくそのままの言葉でもう一度聞かせてもらえるかね?」
「はい!」
わたしは記憶力には自信がある。殆ど一語一句変えずにお伝え出来たと思う。話し終わると、ご夫妻はなんだか深刻なお顔になられてしまった。え、やっぱり公爵ご夫妻は、あれがただの悪夢ではないとお考えなの?!
「ヴィクは、ただの夢だとは思えない、手枷の感触がいまも残っているような気がする、と言ったのだね?」
「はい。え、でもまさか本当にあんな事が起こるかも、とお考えなのでしょうか?」
公爵殿下にこちらから質問するなんて不敬だとは思ったけれども、でも聞かずにはいられない。まさかお嬢様の身に本当にあんな事が? と思っただけで、背筋が寒くなってくる。
わたしの質問を旦那さまは咎められる事もなく、僅かに口角を上げられて、
「いや……私たちだって、まさかそんな事は、と思っているよ。しかし、万が一、という事は常に考えておかなければならないからね。何か起こってからでは手遅れになってしまう」
「え、でも、あの、でも」
「遠慮せずに何でも尋ねなさい。おまえが好奇心でなく忠義から知りたいと思っているのはわかっているし、ヴィクの側近には与えられる情報は与えておきたいからね」
「恐れ入ります。では、お言葉に甘えさせて頂いてもよろしいでしょうか。あの、未来視というのはそもそも神殿で下りるもので、もっと漠然とした予知だと認識していたのですが?」
「公式にはそういうことになっている。だがそれは、未来視を個人の利益の為に利用しようとする良からぬ輩が現れない為にそう言っているに過ぎない。実際は、極稀にであるし、そもそも未来視姫が意図的に未来視出来る訳ではないのだが、神殿以外でも未来視が下りた例はいくつもあるのだよ……夢、という形でね」
「え。ではまさか、本当に未来視だと?!」
「それがただの夢なのか未来視なのかは、我々にはもちろん、未来視姫本人にもしかとはわからないそうだ。私の母がそう言っていた。だから、わからない、としか言えないのだよ。そしてわからない以上は用心せねばならない。ヴィクがアレクさまや陛下を裏切るなどあり得ないとは思うが、ヴィクを、或いは我が公爵家を嵌めようという陰謀が今後存在しないとは断言できないからな」
「そん、な……」
わたしは茫然としてしまった。そんなわたしに向かってエドワードさまは苦笑いを浮かべて仰った。
「まあ、用心するに越した事はない、ということだから。ヴィクには何も言わないで。折角なんでもなかったんだと本人が思っているのに、妙な意識をしてアレクさまとの間がぎくしゃくしては良くないからね。だから、夕方にも言ったけど、ヴィクが夢の事なんか忘れてしまうように誘導して欲しい、というのがアリスへの頼みだよ」
「まあ、それだけですか? お嬢様に良くない企みを持つ者なんかがいましたら、わたくしがとっちめてやりたいです」
「いやいやいや、アリスはそんなことしなくていいけど、ただ、何か気が付いた事があったら、些細な事でも構わないから知らせておくれ」
「はい、それはもちろん」
まあ、いくらわたしが気負ったって、何が出来る訳でもないというのは解っているけれど……。わたしは不甲斐ない自分を責める気持ちを顔に出してしまっていただろうか、エドワードさまは、
「ヴィクの一番近くにいるアリスにしか言えないことなんだよ。さっき父上が仰った未来視のこと、陛下はご存知だけどアレクさまだって多分まだ知らないと思うよ。それだけ信頼してるんだから、そんな顔しない。僕がヴィクにくっついて回る訳にはいかないし、けっこう重要任務だよ? 来週のパーティだって気を付けておかないとね」
と声をかけて下さる。
「は、はい! 命に代えてもお嬢様をお守りします!」
「いや危ない事があったら人を呼んでね」
―――
そんな事があってから数日の間、わたしはお嬢様の誕生日パーティに向けての準備に追われた。取り仕切るのはもちろん執事や侍女長なのだけど、使用人の中で誰よりわたしがお嬢様のお好みを把握しているという事で、わたしはあちこちの部署に引っ張りだこ。その合間には、お嬢様とドレスやアクセサリーについて色々予定をたてたり。自分の事のようにわたしは楽しくて張り切っていた。何しろお嬢様を最高に美しく飾ってアレクさまに褒めさせるのがわたしの生き甲斐のひとつなのだし、それに今は、わたしなんかが頑張らなくても大丈夫とは思うけれど、やっぱり少しでもよりお嬢様の魅力を見せつけて、もっともっとアレクさまのお心をお嬢様に繋いでおくのだという気負いもある。
「どうかしらアリス?」
パーティの前日。一番人気の仕立て師に誂えさせた流行の最先端のスタイルの水色のドレスを纏ってお嬢様は笑う。これはアレクさまからの贈り物。明日にもまだ贈り物があるんだと聞いたけれど。
「まああ、最高に素敵です! さすがお嬢様、『馬子にも衣装』ですね!」
「……アリス、そなたは頭はいいのに、なぜそこだけ間違うかしら?」
とにかく。そんなこんなでパーティの当日はやって来た。
館の人々は皆忙しく立ち働きつつも、お嬢様の晴れ姿を見て続々いらっしゃるお客様たちが賛辞の雨を浴びせるのを、何より喜んでいる。
アレクシス王太子さまに愛情いっぱいのエスコートをされるお嬢様に、ご両親やエドワードさま、妹君のクリスティーナさまも嬉しそう。空は雲一つない。やっぱりお嬢様に悪い未来なんてある筈ない、と心から思えた。
「ヴィー、誕生日おめでとう。受け取ってくれ」
お客様たちの前でアレクさまが贈られたのは、王家に伝わる由緒ある煌めく宝石の指輪。もうご成婚も間近いのだと誰もが思い寿ぐ。
「ありがとうございます、アレクシスさま」
「喜んで貰えたなら嬉しい」
そう仰ってアレクさまはお嬢様の頬にキスをなさる。周囲は温かな歓声を上げる。少し離れた所で小間使いのお皿運びを指示しているわたしも、見ていて嬉しくなる。
だけれど、この時。
人波を割って、一人の女性がお二人に近付いた。
「アレクシス殿下。いつになったらヴィクトリアさまを紹介して下さいますの?」
おっとりとしていて上品な声。美しく着飾った、見慣れない女性の姿に人々はざわめいた。
「ああ、ディアナ殿、申し訳ない」
アレクさまは女性に対して朗らかな笑顔を向けられる。
「ヴィー、こちらは、叔父上、王弟殿下の三女、つまり俺の従妹にあたるディアナ殿だ。名前は知っているだろう? 幼少の頃からずっと病弱で、王都を離れて養生されていた。最近はすっかり体調も良いとの事で、数日前にこちらにお戻りなのだよ。まだご友人もいないから、是非ヴィーと仲良くなりたいと仰ってね」
「まあ、そうでしたの。ヴィクトリアでございます。どうかこちらこそよろしくお願い致します、ディアナさま」
お嬢様は礼儀正しく腰を折ってご挨拶なさった。
快晴だった空に、どこからか湧いた雲が浮かんでさっと日差しを遮った。