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帯刀が空に合図を送ると、竜頭鷁首の天の鳥船がするすると雲間を下りて、草地に横づけされた。あまりの不思議さ、玄妙さに目をうばわれ、邑人から大きなどよめきが沸き起こった。ここで初めて、目の前の貴人一行がただ人でないと思い知ったからだ。水主方が舫い綱をくくり、渡り板がわたされると、お館さまは有為の手を取って立ち上がらせた。後ろから有明が被衣を整え直す。
「笛はお預かりいたしましょう」
有明が両手を出すと、有為はうなずいて笛を渡し、有明はそれを丁寧に箱に納めた。鈴蘭が袿袴の裾を直しながら後ろにつくと、お館さまは有為の手を引いて渡り板に足をかけた。座を払った後の幔幕はみるみる片付けられていく。
「お待ちくだされ。お待ちを」
ふわりと浮く被衣の端をぐっと握って引くものがあった。掛帯があるため被衣が脱げることはなかったが、鈴蘭が咎めるようにきっとにらんだ。有為が衣ごしに見返ると、義母が立っていた。
「その方がわたしの義娘の有為だというなら、この玉木は義妹。姉が縁あってお仕えする貴いおん方に、妹もまたお仕えさせて頂きとう存じます。玉木は有為とちがって、作法もきちんと身につけております。見目もまた義姉に勝るもの。きっとお心にたがうことがないと存じます。どうぞいっしょにお連れください」
義母は娘を前に押し出して、お館さまの目に留まらせようとした。たしかに、玉木は年頃の娘らしく、ういういしくも愛らしい。邑にはもったいないような美人かもしれない。だが、この程度の見目の娘は京にはざらにいる。狩衣をまとった京人、橘の何某は、物知らずの田舎女にあきれてため息をついた。貴人に直に口を利くのもはばかられるのに、その連れた者に手をかけるとは。随身に手打ちにされても文句は言えない仕儀であろうに。まあ、口を出すことはなかろう。所詮は他人。玉木という娘は従兄弟の血縁ではなく連れ子のようだから。橘の何某は供の者をまとめ、貴人を見送った足で京に戻るよう仕度させていた。
とり片付けられた座所は別の渡り板からどんどん船につまれていく。その間も帯刀方はきちんとお館さまの一行を警護している。体はそのまま、視線だけ、有為の義母と義妹に向けられているのが、有為にはどこかこわい気がした。お館さまはふわりと笑った。
「ほう、それほど身に覚えがあるというのか。なるほど、そうまで申すならば、船に乗ってみるがよかろう。乗れるならば縁あるものとしてついて参ることを許す」
「え?」
有為は胸がどきんとした。義妹はお館さまの美しさにすっかり心を奪われているようだ。有為は小さいころからずっと、この義妹にまさったことがない。せっかくいただいた有為のお薬としてのお役目も、義妹はもっとうまくこなすかもしれない。どうしよう、と思うと、目がじんわりぬれてきた。
手をとっていたお館さまが急にうろたえた。
「どうしたの?どうしたの。疲れたのかも。ね、早く乗って。すこし横になったほうがいいかもしれない。有明、屋形の敷物を厚く、清水を手桶に用意して」
お館さまはてきぱきと指図すると、有為を抱えるようにして鳥船に乗った。屋形にはもう厚い敷物が敷かれていた。その上に座らされると、垂帳をおろして有為の頭から被衣をはずした。かいがいしく清水で濡らした手巾で有為の顔や手を拭く。
甲板に座っていた太白と北斗も心配そうに顔を出した。
「お墓参りもしたし、いっしょに帰ってくれるよね、ね」
お館さまは眉を寄せて有為の顔をのぞきこんだ。両手は有為の手をにぎったままだ。
「わたくしはいい子にしたでしょ。屋敷に帰って、いっしょにごはんを食べて、遊んでくれるよね。また、いっしょに寝てくれるよね」
お館さまは有為にぎゅっと抱き付くとふるふると震えた。
「いや、いやよ。もうひとりぼっちにしないって言って」
ああ、おどろいた。お館さまは急にまた泣きむしの甘えむしになってしまった。屋形のまわりには垂帳があるけれど、その外は船上だ。お供の文人や帯刀方もいれば、水主方も操船のお仕事をしている。有為は恥しくなって真っ赤になった。自分が先に泣きそうになったこともすっかりわすれて、お館さまのぬれたほっぺをぬぐってあげた。見ると、太白も北斗も気まずそうに目をそらしている。有明と鈴蘭は席をはずしたようだ。
「あの、義妹もいっしょにお屋敷に行くでしょう。白妙に住むの?」
「え?」
お館さまは心底びっくりしたような顔をした。そして顔色をくもらせた有為の額に額をこつんとあてると、ふふっと笑った。
「そんなはずないでしょう。そんなこと気にしてたの。見てごらん」
お館さまは手桶を引き寄せると、その水面をいっしょに覗き込んだ。
天の鳥船の渡り板に義母と義妹が乗っている。そのうしろから地主が続こうとしている。鳥船は靄をはらんでふわりとその船体を持ち上げた。義母が船縁に足をかけようとしてするりとすべり、手をつないでいた義妹も渡り板から足を踏みはずして、ふたりは着物をはためかせて草地に落ちて行った。水主方が渡り板を引き上げると、その端に両手でしがみついていた地主も、どんと音をさせて落ちて行った。
「この船には人気の強いもの、つまり俗心の抜けないものは乗ることができないの」
お館さまが有為の白い髪をなでながら、ほっぺをくっつけてきた。
「縁がある、というのはそういう意味」
有為は、落ちて行った義母と義妹がけがなく草地にころがるのを、水鏡で見届けてほっと息をついた。
「有為もやきもちを焼いてくれるの?かわいい、うれしい」
お館さまはぽっと赤くなって笑った。「や」有為は恥しくなって顔をそむけると、
「え?そうでしょ。ね、こっちむいて」
お館さまは心から幸せそうに有為の顔を覗き込んだ。天の鳥船は蒼天の下をゆうゆうと幽世の屋敷を目指して飛んでいった。