第二十話:満月の下で
王弟邸の庭園は、夜になると幻想的な雰囲気に包まれる。巨大な円形噴水から流れ出る清水が月明かりを反射し、水面一面に星屑のような煌めきを撒き散らしていた。
「きれい……」
エレナは無意識に呟いた。
噴水の縁に腰掛けたジャックが、当然のように彼女の肩を抱き寄せる。
「ここからは城下町全体が見える。星空と共に眺める景色は格別だ」
低く甘い声が耳元に落ち、エレナの胸が小さく跳ねた。彼の碧眼には噴水越しの灯りが映り込み、宝石のように輝いている。
視線が合う。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かく満たされた。
ふとエレナは空を仰ぐ。
漆黒の天蓋に浮かぶ満月——完璧な円形が、宇宙の神秘を語るかのようだった。
(前世の癖で、つい見ちゃうなぁ……)
朧げな記憶が脳裏をかすめる。帰り道に見上げた都会の夜空。
(あれは、どこだったんだろう)
確かな記憶はない。それでも胸に残るのは、温かな想い出。
優しさに包まれていた時間——。
月光が頬を撫でる。
「考え事か?」
思索を断ち切るように、ジャックが優しく問いかけた。
「はい……月が、とても綺麗だと思って」
そう答えながらも、意識は遠く彷徨っていた。
幼い娘と公園で拾ったドングリ。
夫と過ごした何気ない日常。
(みんな、今どこで何をしてるんだろう……)
胸が締め付けられた、その瞬間——。
長い睫毛に、温かな指先が触れた。
「どうした」
ジャックの瞳に、はっきりとした心配が宿っている。
(……私のことを、気遣ってくれてる)
その優しさに触れた途端、胸が揺れる。
(どうして、こんなに優しいの……?)
本来は冷徹な人物と聞いていたのに。
「なんでもありません」
首を振ると、彼は納得しない顔でじっと見つめ続けた。
月明かりの下、ジャックの輪郭が浮かび上がる。
銀糸のような髪、鍛え抜かれた体躯、そして——息を呑むほどの美しさ。
(まるで月を統べる神様みたい……)
「……俺を見ていたのか?」
「は、はい……」
小さく答えると、ジャックは満足そうに微笑んだ。
「嬉しいな。君に見つめられるのは、何よりも好きだ」
その言葉に想いが零れ落ちた。
やがてエレナは震える声で言った。
「私の魂には……記憶が刻まれています」
ジャックは何も言わず、ただ静かに耳を傾ける。
「もう会うことのない愛おしい家族の記憶……優しくて暖かい、切ない思い出……」
涙が頬を伝った。
「顔も名前も思い出せないのに、忘れられないんです」
ジャックの手が、強く、けれど優しく彼女の手を包む。
「私は前を向いても良いのでしょうか……」
声が震えた。
「夢に出てくるんです。優しい手の感触や……声なき声が」
静寂。
水音だけが流れる。
「エレナ」
ジャックは彼女の手を引き寄せ、額をそっと重ねた。
「君が抱えているもの、すべて俺に分けてくれ」
低く甘い声が、胸の奥へ深く染み込む。
「過去も、傷も、迷いも——全部だ」
彼は涙を丁寧に拭い、微笑んだ。
「俺は君のすべてを愛している」
息が止まりそうになる。
「君の悲しみも、俺が抱きしめる。二度と一人で泣かせない」
大きな腕が包み込む。
「だから前を向け。これからは、俺が君の未来だ」
震えるほど甘い声で囁いた。
「愛している、エレナ」
心がほどけていく。
「……私も、あなたと生きて行きたい」
自然とこぼれた言葉。
「愛してる……ジャック様」
月光の下、二人は静かに唇を重ねた。
噴水の水音が祝福の音楽のように響く。
こうして私は——
王国最強の騎士団長と、愛を誓い合った。
――完――
最後までお読みいただきありがとうございました。
第二章に続きます。




