第十九話:ご機嫌な王弟とざわめく執務室(ジャック視点)
(ジャック視点)
「なんですか……その顔は」
執務室へ足を踏み入れた途端、レオンハルトが怪訝そうに眉をひそめた。
甥の碧の瞳には、あからさまな警戒心が浮かんでいる。
(まったく、失礼な奴だ)
そう思いながらも、自分でも分かるほど口元が緩んでいた。
昨夜、エレナを迎え入れ、隣で眠った。
その事実だけで胸の奥が満たされ、普段なら煩わしく感じる朝の執務でさえ、今日は妙に心地よい。
「叔父上がそんなに上機嫌なのは珍しいですね」
探るような口調だった。
値踏みするような視線が向けられる。
(ああ、この甥は勘が鋭い)
何かを感じ取っているのだろう。
だが敢えて答えず、執務机の前に腰を下ろした。
目の前には書類の山が積み上がっている。
本来ならうんざりする光景だが、不思議と気分は悪くなかった。
「確かに今日の団長、おかしいですよ」
背後から副官がぼそりと呟く。
穏やかな性格の男だが、その顔には明らかな困惑が浮かんでいた。
「何故だと思う?」
わざと含みを持たせて問い返す。
するとレオンハルトの表情がぴくりと強張った。
「……まさか」
血の気が引いていくのが見て取れる。
どうやら察したらしい。
一方で副官はまだ事情が飲み込めていない様子だった。
それを横目に見ながら、俺はゆっくりと言い放つ。
「エレナを我が家に迎えた」
執務室が水を打ったように静まり返った。
そして次の瞬間。
「えっ!?」
「昨日、婚約式を挙げたばかりですよね!?」
「いくら何でも早すぎませんか!?」
騎士たちの悲鳴にも似た声が一斉に上がった。
「団長……いくらなんでもやりすぎでは?」
副官にいたっては、頭を抱え込んでいた。
一方、レオンハルトは完全に呆れ果てている。
「婚約式の翌朝に即同居って、一体何を考えているんですか。前代未聞ですよ」
「何が問題だ? 俺たちは婚約した。ならば一つ屋根の下で暮らすのは当然だろう」
俺が真顔で言い返すと、甥はこれ以上ないほど深いため息を吐き出した。
「常識の話をしています、常識の」
「恋愛に常識など必要ない」
きっぱりと言い切る。
執務室に何とも言えない空気が流れた。
「……一応聞きますが、エレナ嬢の同意は取ったんでしょうね?」
核心を突く問いだったが、その問いにこそ余裕を持って答えられる。
「満更でもなさそうだった。昨晩も――」
「それ以上話さなくて結構です」
即座に遮られる。よく見ると耳が赤いな。
(やはり気になるのか)
思わず内心で笑ってしまう。
副官がおそるおそる確認する。
「……伯爵家の了承は得ているんですよね?」
俺は大きく頷いた。
多少の『熱意ある説得』は必要だったが、了承は了承だ。
「どうせ無理やり伯爵に同意させたんでしょう……」
レオンハルトの冷ややかな呟きに、周囲の騎士たちが小さく首を縦に振っている。
「団長、本気だ……」
「エレナ嬢、逃げられないな」
「煩い。聞こえているぞ。仕事を続けろ」
団員達のひそひそ声に一喝すると騒ぎは収まった。
だが好奇と呆れの混じった視線までは消えない。
(構わん)
目的のためなら手段は選ばない。
今さら外野に何を言われようが、エレナが俺の邸にいるという事実は揺るがない。
「確かにエレナに溺れているな」
何気なく口にすると、今度はレオンハルトが本気で固まった。
「叔父上がそんなことを認めるなんて……」
(それがどうした)
「心配するな。公私の区別くらいはつく。国政に支障は出さない」
静かに言い切る。
「だが、私生活くらいは好きにさせてもらう」
レオンハルトはなおも納得がいかないという風な顔をしている。
そこでふと考える。
(レオンハルトは、まだ諦めていないのか?)
以前から、甥がエレナに特別な好意を抱いていたことは知っていた。
今でも完全にその想いを吹っ切れたわけではないのだろう。
(だとしても、一歩たりとも譲る気はないが)
「しかし団長、エレナ嬢のためにも、せめて節度を持ったお付き合いというものをですね……」
副官が再び忠告してくる。
(節度など知るか)
そう思いながら、俺はさらりと言った。
「昨夜も一緒に寝ているぞ」
副官の動きが止まる。目を見開いたまま固まっていた。
「まさか……同じ部屋に……?」
「無論だ」
「犯罪です」
レオンハルトが即答した。
その目に軽蔑の色が浮かんでいる気がするが、恐らく気のせいだろう。
「犯罪ではない。俺の婚約者だ」
そう返すと、甥は露骨に不機嫌そうな顔をした。
「何が不満だ? ただ寄り添って眠っただけだ」
「別に、不満なんかありません」
全然『別に』に見えない。心の中で苦笑いする。
(分かりやすいな)
「エレナ嬢は迷惑しているかもしれませんよ……」
副官が小さく反論する。
(これでも意思は尊重している。最低限はな)
「なら本人に聞けばいい」
冷たく言い放つ。
「だが、エレナは疲れている。昨日の婚約式で消耗していてな。今は休ませてやりたい」
「……卑怯です」
レオンハルトが悔しそうに呟いた。
俺は気にせず執務机の抽斗を開く。
そこには昨夜、魔道具で撮影した写真が収められていた。
窓際で本を読むエレナの後ろ姿。柔らかな陽光を受けた白金色の髪が美しく輝いている。
「美しい……」
思わず、心の声がそのまま漏れ出てしまった。
それを見た副官が、完全に引きつった顔で俺を見ている。
「団長……それは盗撮では?」
「違う。婚約者として、護衛するために確認している」
副官の冷ややかな視線など、今の俺には蚊に刺されたほどの影響もない。
適当に誤魔化しながら考えを巡らせる。
(晩餐の後に散歩へ連れ出そう)
夜の庭園は静かだ。噴水広場から見える景色も美しい。
あの場所なら、エレナも気に入るだろう。
窓の外へ目を向ける。
城下町の景色が穏やかな陽光に照らされていた。
(エレナの幸せのためなら、どんな犠牲も払おう)
その想いに迷いはない。
ふと騎士の一人が思い出したように口を開く。
「団長……前まで恋愛なんて不要だって言ってましたよね」
(過去など価値はない)
エレナと出会った。
ただそれだけで世界は変わった。
副官が半ば呆れたように呟く。
「団長、本当に別人みたいですね」
俺は小さく、満足げに笑った。
(そうだな)
氷の王弟。
そう呼ばれていた頃の自分は、もうどこにもいなかった。
*
しばらくして、執務を終えた俺は、足早に執務室を後にした。
回廊を歩いていると、不意に、風に乗ってエレナの鈴を転がすような笑い声が聞こえた気がした。
ただの愛おしい幻聴だ。そう思いながらも、自然と歩く速度が速くなる。
胸の奥が落ち着かない。
一刻も早く、彼女の元へ帰りたい。
顔を見たい。声を聞きたい。
それだけでいいはずなのに、会えばきっとそれ以上を望んでしまう。
執着でもいい。
狂気でも構わない。
誰に何を言われようと関係なかった。
今の俺にとって、エレナは何よりも大切な存在なのだから。




