第十八話:強制同居開始と始まりの溺愛
「……は?」
朝靄の残る早朝。
エレナ・フォン・ローゼンバーグは、自室の光景を前に呆然と立ち尽くしていた。
「え……どういうこと?」
見慣れた部屋では、侍女のマリアが手際よく荷造りを進め、使用人たちが家具や衣装を次々と運び出している。
まるで引っ越し当日のような慌ただしさだった。
「お嬢様、急いで身支度を。ジャック殿下がお待ちです」
淡々と告げるマリアに、エレナは思わず声を上げた。
「待ってよ!私、昨日まで伯爵邸で暮らしていたわよね?婚約式をしただけで、今日はもう――」
言葉が続かない。
婚約の翌朝に住まいを移るなど聞いたこともなかった。
「昨日のうちに殿下がすべて手配されました。伯爵閣下も了承済みです」
その一言で、だいたい察してしまう。
ジャック様が動いたのだ。
マリアは化粧道具を鞄へ収めながら、小さく息を飲み込んだ。
(今のジャック様は誰にも止められません)
もはやお嬢様の運命は決まったようなものだ。
「マリア……私、本当に大丈夫かしら」
不安そうな問いに、マリアはにっこりと微笑んだ。
「少なくとも生活環境は最高級ですので、ご安心ください」
(精神的な安定は保証できませんが)
その本音は胸の内だけに留めておく。
*
王弟邸へ到着した瞬間、エレナの胃はきゅっと縮こまった。
巨大な門をくぐり、大理石の階段を上る。
豪奢な玄関ホールへ足を踏み入れると、そこにはジャックが待っていた。
「ようこそ、エレナ」
漆黒の軍服に身を包み、真っ直ぐ彼女を見つめる碧眼には隠しきれない熱が宿っている。
「お待たせいたしました……」
礼をしようとした途端、大きな手が伸びてきた。
「待ちくたびれたよ、エレナ」
(距離が近くない!?)
驚く間もなく、指先に軽く口づけられる。
「今日からよろしく頼む」
「はい……よろしくお願いいたします」
ぎこちなく微笑むと、ジャックの表情が柔らかく緩んだ。
「緊張しているな」
そう言って肩を包み込む手は驚くほど優しい。
ふと軍服越しに彼の匂いが届き、エレナの胸が小さく跳ねた。
(あ……好きな匂いだ)
「エレナ?」
不思議そうに首を傾げるジャックに、慌てて何か言おうとしたその時だった。
「殿下!至急のご報告です!」
執事が書類を抱えて駆け込んでくる。
ジャックは露骨に眉をひそめた。
「チッ……今行く」
離れていく体温に、なぜか少しだけ物足りなさを覚える。
(なんで寂しいんだろう……)
「遅くなるかもしれない、その時は先に休んでいてくれ」
「はい。お仕事頑張ってください」
自然に返した言葉に、自分で少し驚いた。
(なんだか夫婦みたい……)
ジャックは満足そうに微笑み、そっと頬を撫でる。
「行ってくるよ、エレナ」
(甘い……!)
そうして、彼は颯爽と執務室へ向かっていった。
*
「お茶をお持ちしましたよ」
客間で一息ついていたエレナのもとへ、マリアがワゴンを押してやって来た。
「ありがとう。でも、このケーキ……すごいね」
思わず目を丸くする。
テーブルに並べられたのは、三段重ねの豪華なアフタヌーンティーだった。色とりどりの菓子が美しく飾られ、まるで芸術品のようだ。
「王弟邸専属シェフによる特製スイーツです」
「これ、全部食べていいの?」
「もちろんです」
恐る恐るスコーンを口に運ぶと、芳醇なバターの香りが広がった。
「美味しい……」
自然と頬が緩む。
「当然です。殿下が選りすぐりの素材を全国から集めさせましたので」
「え?」
「エレナ様のための特別注文だそうです」
その言葉に胸がじんわりと温かくなる。
(私のために……)
だが、マリアはどこか冷静だった。
「お嬢様、これくらいは序の口ですよ」
「え?最初だからじゃないの?」
マリアは静かにため息をついた。
(お嬢様は本当に分かっていらっしゃらない)
「……なに、その目」
エレナが警戒したように身を引く。
「ジャック殿下は、お嬢様のために王都中の店へ注文を出されたそうです」
ぶふっ。
盛大に紅茶を吹き出したエレナへ、マリアが無言で布巾を差し出した。
「王都中!?」
(それはやり過ぎでは!?)
「ですので、これはまだ序の口かと。向こう一年分の衣装も予約済みだと伺っておりますし、宝飾品に関しては――」
そこから先は、ほとんど頭に入らなかった。
話の規模が大きすぎる。
衣装一年分。
宝飾品。
王都中の店。
理解が追いつかない。
(これってキャンセルできるの?)
思わず前世の感覚が顔を出す。
(クーリングオフとか……この世界にないよね?)
現実逃避気味にそんなことを考えながら、エレナは遠い目になるのだった。
*
深夜。
広すぎる寝室の中、エレナは天蓋付きのベッドに身を沈めながら、なかなか眠れずにいた。
王弟邸へ移ってきた初日。
慣れない環境に加え、今日一日の出来事が次々と思い返される。
シーツからは、かすかにジャックの残り香が漂っていた。
(落ち着かない……)
そう思いながらも、不思議と嫌ではない。
時計の針が零時を回ろうとしたその時、静かに扉が開いた。
「エレナ」
低く呼ぶ声に、彼女は身を起こす。
湯浴みを終えたジャックが、疲れを滲ませながら近づいてきた。
「起こしたか?」
「いえ、まだ眠れていなくて……」
「そうか」
短く答えたジャックは、ベッドの傍らに腰を下ろした。
仕事帰りらしい疲労は見えるのに、エレナを見つめる眼差しだけはどこまでも柔らかい。
「遅くなってすまない」
「お疲れさまです。こんな時間までお仕事なんですね」
自然と心配そうな声になる。
するとジャックは小さく笑った。
「そんな顔をするな」
「え?」
「眉間に皺が寄っている」
指先がそっと額に触れる。
「可愛い顔が台無しだ」
途端に頬が熱くなった。
どうしてこの人は、こうも自然に恥ずかしいことを言えるのだろう。
しばらく沈黙が流れた後、ジャックが静かに問いかける。
「隣で休んでもいいか?」
「へっ?」
思わず変な声が出た。
ジャックは苦笑しながら肩を竦める。
「何もしない。今日は疲れたんだ」
「そ、そうですか……」
緊張しながら頷くと、彼は静かにベッドへ入った。
広い寝台のはずなのに、すぐ近くに体温を感じる。
それだけで心臓が落ち着かない。
気を紛らわせるように、二人は明日の朝食の話をした。
好きな料理の話。
何気ない会話。
そんな些細なやり取りが、どこか嬉しい。
これまで知らなかった彼の日常に、少しだけ触れられた気がした。
「このまま眠るのは嫌か?」
不意に尋ねられ、エレナは首を振る。
「嫌じゃないです。ただ……少しドキドキします」
正直に答えると、ジャックの表情が和らいだ。
「そうか」
その声は、どこか嬉しそうだった。
やがて彼の手がそっとエレナの手を探り当てる。
大きく温かな手。
優しく包み込まれると、不思議と緊張が和らいでいった。
「これから少しずつ慣れていこう」
静かな声が耳に届く。
「実は俺も、少し緊張している」
意外な言葉だった。
誰より堂々としている人が、そんなことを言うなんて。
驚いて顔を向けると、ジャックは照れ隠しのように微笑み、彼女の髪へ軽く口づけた。
「おやすみ、愛しい人」
「おやすみなさい……ジャック様」
手を繋いだまま目を閉じる。
やがて二人は、静かな眠りへと落ちていった。
*
翌朝。
朝食の席で向かい合った二人は、穏やかな時間を過ごしていた。
「昨夜は眠れたか?」
「はい。思ったよりは」
「それなら良かった」
ジャックは満足そうに頷く。
その様子に、エレナも自然と頬を緩めた。
「ジャック様はどうでした?」
問い返すと、彼は何でもないことのように答える。
「悪くなかったな。毎日君と眠れると思うと嬉しくて仕方ない」
一瞬、時が止まった。
(毎日……?)
次の瞬間。
エレナは盛大にパンを喉に詰まらせた。
朝の食堂に響いた咳き込みだけが、その場の静寂を破ったのだった。




