第十八話:強制同居開始と始まりの溺愛
「……は?」
朝靄がまだ残る早朝。エレナ・フォン・ローゼンバーグは、開いた口が塞がらなかった。
「え……どういうこと?」
目の前では、ローゼンバーグ伯爵家の侍女マリアがせっせと荷造りをしている。自分の部屋から次々と家具や衣装が運び出されていく光景に、思考が追いつかない。
「お嬢様、急いで身支度を。ジャック殿下がお待ちです」
マリアが淡々と言い放つ。伯爵家の使用人たちも、普段より素早い動きで作業を進めている。
「待ってよ! 私、昨日まで伯爵邸で暮らしてたよね? 婚約式をしただけで、今日はもう……」
言葉が続かない。婚約式の翌朝からいきなり他家へ移るなど、聞いたことがない。
「昨日のうちに殿下がすべて手配されました。伯爵閣下も承諾済みとのことです」
マリアが鞄に化粧道具を詰めながら説明する。その目が一瞬、哀れみの色を帯びていた。
(今のジャック様は誰にも止められません)
溜息を噛み殺すマリア。主人の運命を悟るような諦念が滲んでいる。
「マリア……私、本当に大丈夫かしら」
不安げに尋ねるエレナに、侍女は優しく微笑んだ。
「少なくとも生活環境は最高級ですのでご安心を」
(ただし精神的安定は保証できませんが)
心の中で付け加える。
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王弟邸に到着すると――
馬車が門をくぐった瞬間、エレナの胃がきりきりと締め付けられた。
(やっぱり来るべきじゃなかったかも……)
大理石の階段を上がり玄関ホールに足を踏み入れると、そこにはすでに――
「ようこそ、エレナ」
漆黒の軍服に身を包んだジャックが立っていた。碧眼が熱を帯びて彼女を見つめている。背後に控える使用人たちが恭しく頭を下げた。
「お待たせいたしました……」
エレナが礼をしようとした瞬間、逞しい腕が伸びてくる。
「待ちくたびれたよ、愛しい人」
(愛しい!?)
「今日からよろしく頼む」
ジャックがエレナの指先に軽く口づける。騎士団長の制服姿は威厳に満ちているが、彼女へ向ける視線は甘い。
「はい……よろしくお願いいたします」
エレナがぎこちなく微笑むと、ジャックの目尻が緩んだ。
「緊張しているな。大丈夫だ」
大きな手がエレナの肩を包み込む。軍服の袖から微かな彼の匂いが漂った。
(あ……好きな匂いだ)
「エレナ?」
ジャックが不思議そうに首を傾げる。エレナが赤面しながら答えようとした時――
「殿下! 至急のご報告です!」
執事が慌てた様子で書類を持ってきた。
「ちっ……今行く」
ジャックが舌打ちする。彼の手が離れると、エレナは安堵と寂しさが入り混じった複雑な気分を味わった。
(なんで寂しいんだろう?)
「なるべく早く戻る。一緒に夕食を食べよう」
「はい……お仕事頑張ってください」
(なんだか夫婦みたいな会話……)
ジャックがそっと頬を撫でる。
「行ってくるよ、愛しい人」
(また言った……!)
彼は颯爽と執務室へ去っていった。
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「お茶をお持ちしましたよ」
マリアが紅茶とケーキを載せたワゴンを押してきた。エレナは客間のソファに座っている。
「ありがとう。でも、このケーキ……すごいね」
テーブルに並ぶのは芸術品のような三段重ねのアフタヌーンティー。王弟専用シェフによる特製スイーツだ。
「このお菓子、全部食べていいの?」
「もちろんです」
エレナがスコーンを一口かじると、バターの芳醇な香りが広がる。
「美味しい……」
「当然です。殿下が選りすぐりの素材を全国から集めさせたんですよ」
「え?」
「エレナ様のために特別注文したそうです」
(私のために……)
胸が温かくなる。
「お嬢様、これくらいは序の口ですよ」
「え?」
「これからもっと凄いことをされますから」
(もっと?)
「エレナ様、大人になってしまいますね」
「ぶふっ!」
盛大にお茶を吹き出すエレナ。マリアが冷静に布巾を差し出す。
「冗談ですよ……半分は」
「半分!?」
ちょうどその時――
「何をしているんだ?」
ジャックが部屋に入ってきて眉をひそめた。
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深夜。
広い寝室に一人残されたエレナは、天蓋付きベッドの中で落ち着かずにいた。シーツからはかすかにジャックの残り香がする。
(この部屋……広すぎる)
時計の針が零時を回ろうとした瞬間――
ガチャリ。
扉が静かに開く音。
「エレナ?」
低く囁く声。軍服を脱いだジャックがベッドに近づく。
「起こしたか?」
「いえ……まだ起きていました」
「遅くなってすまない」
「お疲れさまです。大変でしたか?」
「少しな。東部国境の防衛計画がまとまらなくてな」
「戦争が起きたりするのでしょうか……」
不安げな髪に手櫛が入る。
「心配するな。平和維持のための備えだ」
「また別のことを考えているな」
「え?」
「考え事をすると眉間に皺が寄る」
「そんな癖が……?」
「可愛い」
真っ赤になるエレナ。
「一緒に寝てもいいか?」
「へっ!?」
「結婚までは何もしない。疲れているんだ」
「そ、そうですか……」
ジャックが静かに隣へ入る。
(近い……!)
「明日の朝食は何を食べたい?」
「オムレツとか……」
「了解だ」
「ジャック様は何がお好きですか?」
「肉料理は好む。朝からしっかり食べるぞ」
(好みが知れて嬉しい……)
「このまま眠るのは嫌か?」
「嫌じゃないです……けど、ドキドキします」
「すまない。嫌なら離れる」
「違います! 慣れていないだけで……」
「無理はするな」
「初めてで……楽しいです」
「そうか……嬉しいな」
手を探り当て、優しく握る。
「これから毎晩こうできるといいな」
「毎晩!?」
「ゆっくり歩み寄ろう」
指が少し震える。
「実は俺も……少し緊張している」
軽く髪に口づける。
「おやすみ、愛しい人」
(おやすみなさい……ジャック様)
二人は静かに眠りへ落ちていった。
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翌朝。
食堂の長いテーブルで向かい合う二人。
「昨夜はよく眠れたか?」
「はい……わりと」
「良かった」
「ジャック様はいかがでした?」
「悪くなかった」
マリアが小声で呟く。
「これが序の口ですからね」
(まだ序の口なの……?)
エレナがパン屑を喉に詰まらせる音だけが、朝の静寂に響いた――




