第二話:月の女神(ジャック視点)
第二話:月の女神(ジャック視点)
満月の晩、王宮庭園裏庭――。
(鬱陶しい……)
銀髪の騎士団長、ジャック・ヤーコプ・フォン・ヴィッテルスバッハは、黒の軍服を翻した。
背後では、きらびやかな衣装の令嬢たちが群がっている。
「王弟殿下~、ぜひ今度我が家の晩餐会に~♪」
「あら、私の方こそ特別席をご用意いたしますわよ?」
(香水臭い……)
鼻を押さえたくなるほどの芳香に混じり、肉感的な身体が擦り寄ってくる。
「申し訳ありませんが……」
冷たく言い放っても、令嬢たちの追跡は終わらない。
王弟という地位に媚びる連中に、ジャックは心底うんざりしていた。
(あんな奴らより、俺は……)
廊下を抜けて庭園へ出ると、人影が途切れる。
月明かりに照らされた芝生の向こうに、古びた噴水が見えた。
「誰もいない……」
石造りのベンチに腰掛け、夜空を見上げる。
雲一つない漆黒のキャンバスに浮かぶ銀盤――満月。
「美しいな……」
思わず呟いた、その刹那。
視界の隅で人影が動いた。木陰の先で、誰かが月を見上げている。
(こんな時間に……?)
好奇心に導かれ、足を進める。
そして――。
(エレナ・フォン・ローゼンバーグ……噂に聞く伯爵家の秘蔵っ子か)
息を呑んだ。
本当に、呼吸の仕方を忘れた。
胸が一瞬で締め付けられ、遅れて心臓が激しく脈打つ。
世界から音が消える。
視界に残ったのは、月光の中に立つ一人の少女だけだった。
(月の女神……)
そうとしか、思えなかった。
憂いを帯びた横顔。
夜気に揺れる白金の髪。
蒼と薄紫が溶け合う瞳が、月の光を映して淡く輝く。
月光に透ける肌は陶磁器のように白く、
触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。
(……なんだ、これは)
理解が追いつかない。
これまで数え切れない令嬢を見てきた。
美貌も、媚びも、策略も、すべて見飽きていたはずなのに――。
この少女は、違う。
飾らない。
媚びない。
狙っていない。
それなのに、目が離せない。
逸らした瞬間、二度と見られなくなる。
そんな予感がした。
喉が焼けるように渇き、胸の奥が妙に熱い。
(なんという美しさだ……)
それは賞賛でも、感嘆でもない。
衝撃だった。
(危険だ)
理性が警鐘を鳴らす。
直感が、同時に告げる。
(この女は、危険だ)
それでも視線は離れない。
むしろ、近づきたいという衝動が強まる。
もっと見たい。
もっと近くで。
もっと――。
(欲しい)
あまりにも自然に、その言葉が浮かんだ。
(この子が欲しい)
理解した瞬間、背筋がぞくりと震える。
ここまで強烈に何かを望んだことなど、生まれて初めてだった。
――その時。
「……クソッタレ」
(……?)
聞き間違いかと思った。
あの清純そうな令嬢が、毒づいた?
思わず足音を立ててしまう。
茂みがガサリと揺れた。
「誰!?」
エレナが振り向き、剣呑な目でこちらを見据える。
「あなたは……」
(しまった……)
覗き見が露見し、弁解しようとした瞬間――。
「……あ」
エレナが小さく呻いた。
青ざめた顔で、軍服姿のジャックを見上げる。
(青ざめて慌てるエレナ……可愛い)
本能的にそう感じる。
怒りは湧かない。むしろ、珍獣を見つけたような愉悦が勝った。
「あ、あの……!」
早口で言い訳するエレナ。
その必死さに、思わず口角が上がりそうになる。
(普段は冷静そうだが、焦るとこうなるのか)
口元を押さえ、笑いを堪える。
「いや、私も夜風に当たりたくて……」
声は次第に小さくなり、俯く。
その様子が、ますます興味をそそった。
(なぜ、この子は媚びない?)
これまでの令嬢たちは、皆そうだった。
だがエレナには計算がない。それが新鮮だった。
「それにしても……」
ゆっくりと距離を詰める。
近づくほどに、彼女の美貌が際立つ。
(なんて整った顔立ちだ……)
簡素な化粧の奥にある素顔に、息を呑む。
まるで芸術品のように精緻な目鼻立ち。
(だが、なぜここまで地味に飾る?)
疑問と同時に、ひらめく。
(わざと凡庸に見せている……?)
彼女の賢明さを確信し、高揚感が増した。
(どうしよう……)
葛藤が胸を焦がす。
(この子が欲しい)
ここまで欲した者は、生まれて初めてかもしれない。
(俺のお気に入りを見つけた)
内心で、舌なめずりする。
表情を引き締め、威厳ある王弟として振る舞った。
「いい度胸だ」
冷徹な声で告げる。
「久しぶりに……面白いものを見つけたよ」
そこに皮肉はない。
本心からの称賛だった。
エレナが瞬きする。
驚愕と警戒が入り混じる表情が、たまらなく魅力的だ。
(俺の婚約者、エレナ・フォン・ローゼンバーグ)
すでに未来を決めたかのように、心の中で名付ける。
(いい響きだ)
(待っていろ、エレナ)
ーーーー
「団長! こんなところにいらっしゃいましたか!」
副官の声に、我に返る。
「エレナ……」
「何か仰いました?」
「いや、なんでもない」
軍服を整え、闇を鋭く見据えた。
(早く、あの令嬢を捕まえなければ)
銀髪をかき上げた王弟の目に、妖しい光が宿る。
それは、狩りを楽しむ獣の瞳だった。
月が嘲笑うかのように、静かに輝いていた。




