第四十五話:魔帝と獅子の執愛
しばらくのあいだ、二人は、ただ互いの存在を確かめるように静かな時間を重ねていた。
ジャックは、ふっと小さく微笑んだ。
「もう少し、お前を独り占めしていたいが……」
かすかに息をつき、言葉を継ぐ。
「……元気になってからにしよう。魔術医を呼ぶ、少し待っていろ」
エレナをそっと撫で、その場を離れようとする。
だが、その動きは――ひと言で制された。
「その必要はない」
静かでありながら、空気そのものを支配するような声が、入り口から差し込まれた。
振り返ると、そこにはヴィルヘルムが立っていた。
「エレナ、目覚めたのだな……」
低く落ち着いた声音の中に、隠しきれない安堵が滲んでいた。普段の彼からは想像しにくいほど率直な感情が、その表情には浮かんでいる。
「ビル……たくさん助けてくれたんでしょう。ありがとう」
エレナは柔らかく微笑みながら礼を告げる。その声音には、心からの信頼と感謝が込められていた。
「念のためだ……少し調べるぞ」
ヴィルヘルムはわずかに目を細め、穏やかな眼差しを向けると、ゆっくりと手をかざした。
次の瞬間、空間に緻密な魔法陣が浮かび上がる。
幾重にも重なる紋様が淡く輝き、やがて柔らかな光となってエレナの身体を包み込んだ。
その光は温もりを帯びており、侵すものではなく、守るものとして作用していることが見て取れる。
静かな時間が流れる。
やがて、ヴィルヘルムは手を下ろした。
「問題ない。よく休めば、じきに回復するだろう」
その言葉に、傍らのジャックの表情がわずかに緩む。張り詰めていた緊張が、ようやく解けたのだと分かるほどの変化だった。
「エレナ、そろそろ眠るといい」
ヴィルヘルムの声音は、先ほどよりもさらに穏やかだった。
その言葉に導かれるように、エレナの瞼がゆっくりと落ちていく。安心しきった表情のまま、彼女は再び穏やかな眠りへと沈んでいった。
その寝息が安定したのを見届けると、ヴィルヘルムは踵を返す。
「俺は国に戻る。エレナに何かあれば、また連絡をしろ」
去ろうとするその背に、ジャックが声をかけた。
「今回の件は世話になった。……お前がいなければ、エレナを助けるのは難しかっただろう」
その言葉は、飾りのない、まっすぐな感謝だった。普段の彼からは想像しにくいほど率直で、だからこそ重みがある。
「貴様にしては殊勝な態度だな」
ヴィルヘルムは皮肉めいた笑みを浮かべる。だが、その瞳は冗談だけでは終わらない色を帯びていた。
やがて、その視線が真っ直ぐにジャックへと向けられる。
「……もしお前に何かあれば」
静かな声音だった。感情を抑えているはずなのに、その奥にあるものが、かえって濃く浮き上がる。
「エレナは嘆き悲しむだろう」
その光景を、すでに見ているかのような言い方だった。
「その涙を、俺は見過ごさない」
わずかに間を置く。
「慰め、寄り添う。……そのすべてを、俺が受け止める」
淡々とした言葉の連なり。しかし、それは選択肢ではなく、ただ一つの帰結のように響く。
「その心を俺に向けさせる」
断定だった。疑いも、仮定もない。
「そして——」
視線が、わずかに鋭さを帯びる。
「エレナを、俺の妃にする」
そして最後に、ほんのわずかに口元を歪めて、
「必ず」
とどめのように言い切った。
それは宣言だった。
取り繕うこともなく、隠すこともなく、ヴィルヘルムは己の本心をそのまま言葉にした。
——その瞬間。
空気が変わる。
ジャックの内に、抑え込まれていたものが一気に立ち上がった。
射抜くような視線がヴィルヘルムを捉える。殺気を帯びたその眼差しは、もはや隠すつもりすらない。
「……それが本音か」
低く、噛みしめるような声音。
「俺はエレナを絶対に手放さない」
その言葉には、一片の揺らぎもなかった。譲るという選択肢など、最初から存在していない。
二人の視線が、正面からぶつかる。
だが、次の瞬間には、張り詰めた空気がふっと途切れた。
ヴィルヘルムが、つまらなさそうに手を振ったのだ。
足元に転移の魔法陣が浮かび上がり、淡い光がその身を包み始める。
「せいぜい息災でな」
去り際に零された一言は、軽く聞こえて、その実、どこか含みを持っていた。
そして次の瞬間、彼の姿は掻き消える。
静寂が戻る。
残されたジャックは、小さく息を吐いた。
「あいつなりの激励か……?」
呟きながらも、すぐに首をわずかに振る。
「……だが、油断は出来んな」
脳裏に焼き付いたあの眼差しを思い返す。
「あの目に、嘘偽りは無かった」
ふと視線を落とすと、そこには穏やかな寝息を立てるエレナの姿がある。
まるで先ほどの緊張など無関係であるかのように、無防備なまま眠りに身を委ねている。
「まったく……お前は人気があり過ぎるぞ」
小さく苦笑が漏れる。だが、その奥にある感情は決して軽くはない。
「俺は気が休まる暇がない」
誰にも聞かせるつもりのない独白。
「……誰にも、譲るつもりはないがな」
その言葉は、静かでありながら、確固たる意思を宿していた。
ジャックはそっと手を伸ばし、エレナの頭を優しく撫でる。
指先に伝わる温もりを確かめるように、ゆっくりと、丁寧に。
だが、その口元には、わずかに傲慢な笑みが浮かんでいた。
一房、髪を掬い上げ、指に絡める。
祈りを捧げるように深く、重い口づけを落とした。
「……絶対に離さない」
低く、囁くように。
「愛しているよ、エレナ」
その瞳には、紛れもない愛情と、深い執着が入り混じった、狂おしいほどの情念が揺らめいていた。




