第十二話:王弟殿下の秘めた思い
(ジャック視点)
エレナを伯爵邸で抱きしめ、そのまま王宮へ戻る馬車に乗り込んだ頃になっても、胸の内に残る熱は少しも冷めていなかった。
窓の外を流れていく王都の街並みは、いつもと何一つ変わらないはずなのに、今日はどこか色鮮やかに見える。
石畳を行き交う人々も、夕暮れに染まる建物も、すべてが穏やかな光を帯びていた。
(……なんという幸福感だ)
自嘲気味にそう思う。
つい先ほどまで感じていた緊張や焦燥が、嘘のようにほどけていた。
腕の中に収まっていた彼女の細い身体。
髪から微かに漂った甘い香り。
恐る恐るではあったが、自分を受け入れてくれたあの瞬間。
そのすべてが、今も鮮明に記憶に残っている。
まるで、指先に温もりが染み付いてしまったかのようだった。
「殿下、もうすぐ王宮に到着いたします」
御者の声に、はっと我に返る。
「ああ……分かった」
短く返事をしながら、窓の外から視線を外した。
自分でも呆れる。
エレナに出会う前の自分なら、このような感傷に浸ることなどあり得なかった。
騎士団長として常に冷静であることを求められ、感情を表に出すこともほとんどなかったというのに。
(昨日の件があったからこそ……いや)
静かに首を振る。
(あれが決定打だったのだろう)
訓練場で起きた襲撃事件。
彼女が危険に晒されたあの瞬間、自分の中で何かが決定的に変わった。
守りたい。
誰にも傷つけさせたくない。
その想いが、もはや誤魔化しようのないほど大きくなっている。
*
やがて馬車は王宮へ到着した。
執務棟へ向かおうとした、その時だった。
「叔父上!」
聞き慣れた声が背後から飛んでくる。
振り返れば、レオンハルトが足早に近づいてきていた。
「探しましたよ。事件の調査結果をお持ちしました」
「早いな」
差し出された封筒を受け取り、その場で封を切る。
中に記されていた内容は、簡潔だった。
『伯爵令嬢が原因だ』
『ローゼンバーグ家が王室を侵食している』
記された文面を見つめながら、自然と眉間に皺が寄る。
(……やはり、事件を利用してエレナを政争から引きずり下ろそうとする動きか)
予想していなかったわけではない。
王弟である自分との婚約が決まり、彼女は一気に政争の中心へ引きずり込まれた。
だが、だからといって許せるものではない。
一人の令嬢を標的にし、命まで脅かそうとしたのだ。
胸の奥で、静かな怒りが燃え上がる。
「叔父上」
レオンハルトが慎重な口調で続けた。
「内部に協力者がいる可能性もあります。どうか、お気をつけください」
「分かっている」
短く答える。
だが実際には、同じ可能性をすでに考えていた。
あの襲撃が単独犯で終わるとは思えない。
背後には必ず誰かがいる。
(まったく……政争の道具に使うとは、許し難い)
エレナは何も知らない。
ただ平穏に生きていただけの少女だ。
それを利用しようとする連中に対し、怒りを覚えずにはいられない。
ふと視線を上げると、レオンハルトの様子がどこか歯切れ悪いことに気づく。
「どうした?」
問いかけると、彼は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
迷うような沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……叔父上と、エレナ嬢のことですが」
やはり、その話題か。
内心で小さく息を吐く。
「心配するな」
努めて平静な声を作る。
「彼女の安全は、俺が守る」
それだけは誰にも譲れない。
レオンハルトは複雑そうな表情を浮かべながらも、小さく頷いた。
「……ええ。もちろんです」
その返答に嘘はない。
だが。
(……興味を持っているのは間違いないだろうな)
長年見てきた甥だ。だからこそ分かる。
レオンハルトの根の優しさも、責任感の強さも知っている。だからこそ、一度心を動かされた相手を簡単には諦めないだろう。
賢く、行動力もある男だ。可愛い甥ではあるが、油断すれば足元をすくわれるかもしれない。
――だが、彼女だけは譲れない。
その考えに苦笑する。
まさか自分が甥を恋敵として警戒する日が来るとは思わなかった。
執務室へ戻ると、机の上には書類が山積みになっていた。
本来ならば処理すべき案件は山ほどある。
だが、書類に目を通しながらも、思考は自然と別の方向へ向いていた。
エレナと出会ってから、ここまでの流れはあまりにも早かった。
最初の印象は、正直に言えば奇妙だった。
庭園で偶然耳にしたあの言葉。
貴族令嬢の口から出るとは到底思えない一言。
『クソッタレ』
思い出しただけで口元が緩む。
あれほど率直で、飾り気のない令嬢を見たことがなかった。
貴族社会に染まりきっていない感性。
理不尽に対して素直に怒る強さ。
そして誰かを思いやる優しさ。
(……他の女性たちとは、まるで違う)
気づけば、彼女のことばかり考えている。
笑った顔も。
困った顔も。
頬を赤く染める姿も。
そのすべてが愛おしかった。
(こんな感情を抱くのは初めてだ)
ふと視線を上げる。
執務室の鏡に映った自分の顔は、信じられないほど柔らかかった。
かつての自分なら考えられない表情だった。
「……驚くことばかりだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして、机の引き出しを開いた。
中には、小さな手帳が入っている。
エレナが好きだと言っていた花。
興味を示した店。
立ち寄りたいと呟いていた場所。
そんな些細な情報が、細かく書き留められていた。
我ながら呆れる。
(……まるで思春期のガキだな)
だが苦笑しながらも、否定はできなかった。
理性で抑えられる程度の想いなら、ここまで深くはならない。
ページをめくりながら、彼女との外出計画を思い浮かべる。
本来ならば、もっとゆっくり距離を縮めていくつもりだった。
焦る必要はないと思っていた。
だが、昨日の事件ですべてが変わった。
(……悠長なことは言っていられない)
いつまた危険が及ぶか分からない。
だからこそ、一刻も早く彼女を妻として迎え入れたい。
守れる場所へ。
自分の手の届く場所へ。
そう考えた瞬間、胸の奥で別の感情が蠢いた。
レオンハルトがエレナを送ったこと。
王太子としては正しい判断だった。
配慮としても非の打ち所がない。
頭では理解している。
理解している、はずなのだ。
だが。
(……彼女を抱き寄せるのは、俺でありたかった)
その想いだけは消えなかった。
レオンハルトに悪意はない。
むしろ感謝すべきだろう。
それでも胸の奥がざらつく。
自分でも呆れるほど、幼稚な感情だった。
(……くそ)
小さく吐き捨てる。
嫉妬とは、これほどまでに甘く、そして醜いものだったのか。
これまで他人事のように見ていた感情が、今は自分の胸の内に根を張っている。
窓の外へ目を向ける。
いつの間にか空は曇り、細かな雨が降り始めていた。
灰色の雲は低く垂れ込め、雨脚は少しずつ強くなっていく。
ジャックは、静かにその景色を見つめていた。
雨はしばらく止みそうになかった。




