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第十二話:王弟殿下の秘めた思い

(ジャック視点)


エレナを伯爵邸で抱きしめ、そのまま王宮へ戻る馬車に乗り込んだ頃になっても、胸の内に残る熱は少しも冷めていなかった。

窓の外を流れていく王都の街並みは、いつもと何一つ変わらないはずなのに、今日はどこか色鮮やかに見える。

石畳を行き交う人々も、夕暮れに染まる建物も、すべてが穏やかな光を帯びていた。


(……なんという幸福感だ)


自嘲気味にそう思う。

つい先ほどまで感じていた緊張や焦燥が、嘘のようにほどけていた。

腕の中に収まっていた彼女の細い身体。

髪から微かに漂った甘い香り。

恐る恐るではあったが、自分を受け入れてくれたあの瞬間。

そのすべてが、今も鮮明に記憶に残っている。

まるで、指先に温もりが染み付いてしまったかのようだった。


「殿下、もうすぐ王宮に到着いたします」


御者の声に、はっと我に返る。


「ああ……分かった」


短く返事をしながら、窓の外から視線を外した。

自分でも呆れる。

エレナに出会う前の自分なら、このような感傷に浸ることなどあり得なかった。

騎士団長として常に冷静であることを求められ、感情を表に出すこともほとんどなかったというのに。


(昨日の件があったからこそ……いや)


静かに首を振る。


(あれが決定打だったのだろう)


訓練場で起きた襲撃事件。

彼女が危険に晒されたあの瞬間、自分の中で何かが決定的に変わった。

守りたい。

誰にも傷つけさせたくない。

その想いが、もはや誤魔化しようのないほど大きくなっている。



やがて馬車は王宮へ到着した。

執務棟へ向かおうとした、その時だった。


「叔父上!」


聞き慣れた声が背後から飛んでくる。

振り返れば、レオンハルトが足早に近づいてきていた。


「探しましたよ。事件の調査結果をお持ちしました」


「早いな」


差し出された封筒を受け取り、その場で封を切る。

中に記されていた内容は、簡潔だった。


『伯爵令嬢が原因だ』

『ローゼンバーグ家が王室を侵食している』


記された文面を見つめながら、自然と眉間に皺が寄る。


(……やはり、事件を利用してエレナを政争から引きずり下ろそうとする動きか)


予想していなかったわけではない。

王弟である自分との婚約が決まり、彼女は一気に政争の中心へ引きずり込まれた。

だが、だからといって許せるものではない。

一人の令嬢を標的にし、命まで脅かそうとしたのだ。

胸の奥で、静かな怒りが燃え上がる。


「叔父上」


レオンハルトが慎重な口調で続けた。


「内部に協力者がいる可能性もあります。どうか、お気をつけください」


「分かっている」


短く答える。

だが実際には、同じ可能性をすでに考えていた。

あの襲撃が単独犯で終わるとは思えない。

背後には必ず誰かがいる。


(まったく……政争の道具に使うとは、許し難い)


エレナは何も知らない。

ただ平穏に生きていただけの少女だ。

それを利用しようとする連中に対し、怒りを覚えずにはいられない。

ふと視線を上げると、レオンハルトの様子がどこか歯切れ悪いことに気づく。


「どうした?」


問いかけると、彼は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。

迷うような沈黙の後、ゆっくりと口を開く。


「……叔父上と、エレナ嬢のことですが」


やはり、その話題か。

内心で小さく息を吐く。


「心配するな」


努めて平静な声を作る。


「彼女の安全は、俺が守る」


それだけは誰にも譲れない。

レオンハルトは複雑そうな表情を浮かべながらも、小さく頷いた。


「……ええ。もちろんです」


その返答に嘘はない。

だが。


(……興味を持っているのは間違いないだろうな)


長年見てきた甥だ。だからこそ分かる。

レオンハルトの根の優しさも、責任感の強さも知っている。だからこそ、一度心を動かされた相手を簡単には諦めないだろう。

賢く、行動力もある男だ。可愛い甥ではあるが、油断すれば足元をすくわれるかもしれない。


――だが、彼女だけは譲れない。


その考えに苦笑する。

まさか自分が甥を恋敵として警戒する日が来るとは思わなかった。


執務室へ戻ると、机の上には書類が山積みになっていた。

本来ならば処理すべき案件は山ほどある。

だが、書類に目を通しながらも、思考は自然と別の方向へ向いていた。


エレナと出会ってから、ここまでの流れはあまりにも早かった。

最初の印象は、正直に言えば奇妙だった。

庭園で偶然耳にしたあの言葉。

貴族令嬢の口から出るとは到底思えない一言。


『クソッタレ』


思い出しただけで口元が緩む。

あれほど率直で、飾り気のない令嬢を見たことがなかった。

貴族社会に染まりきっていない感性。

理不尽に対して素直に怒る強さ。

そして誰かを思いやる優しさ。


(……他の女性たちとは、まるで違う)


気づけば、彼女のことばかり考えている。

笑った顔も。

困った顔も。

頬を赤く染める姿も。

そのすべてが愛おしかった。


(こんな感情を抱くのは初めてだ)


ふと視線を上げる。

執務室の鏡に映った自分の顔は、信じられないほど柔らかかった。

かつての自分なら考えられない表情だった。


「……驚くことばかりだな」


誰に聞かせるでもなく呟く。

そして、机の引き出しを開いた。

中には、小さな手帳が入っている。


エレナが好きだと言っていた花。

興味を示した店。

立ち寄りたいと呟いていた場所。

そんな些細な情報が、細かく書き留められていた。


我ながら呆れる。


(……まるで思春期のガキだな)


だが苦笑しながらも、否定はできなかった。

理性で抑えられる程度の想いなら、ここまで深くはならない。

ページをめくりながら、彼女との外出計画を思い浮かべる。

本来ならば、もっとゆっくり距離を縮めていくつもりだった。

焦る必要はないと思っていた。

だが、昨日の事件ですべてが変わった。


(……悠長なことは言っていられない)


いつまた危険が及ぶか分からない。

だからこそ、一刻も早く彼女を妻として迎え入れたい。

守れる場所へ。

自分の手の届く場所へ。

そう考えた瞬間、胸の奥で別の感情が蠢いた。


レオンハルトがエレナを送ったこと。

王太子としては正しい判断だった。

配慮としても非の打ち所がない。

頭では理解している。

理解している、はずなのだ。


だが。


(……彼女を抱き寄せるのは、俺でありたかった)


その想いだけは消えなかった。

レオンハルトに悪意はない。

むしろ感謝すべきだろう。

それでも胸の奥がざらつく。

自分でも呆れるほど、幼稚な感情だった。


(……くそ)


小さく吐き捨てる。

嫉妬とは、これほどまでに甘く、そして醜いものだったのか。

これまで他人事のように見ていた感情が、今は自分の胸の内に根を張っている。


窓の外へ目を向ける。

いつの間にか空は曇り、細かな雨が降り始めていた。

灰色の雲は低く垂れ込め、雨脚は少しずつ強くなっていく。

ジャックは、静かにその景色を見つめていた。

雨はしばらく止みそうになかった。

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