第十二話:王弟殿下の秘めた思い(ジャック視点)
エレナを伯爵邸で抱きしめた後の帰り道。
馬車の窓から見える王都の街並みが、どこか色鮮やかに感じられた。
(……なんという幸福感だ)
つい先ほどまでの緊張が、嘘のようにほどけている。
エレナの髪から漂った微かな香りと、腕に残る温もりが、今も指先に蘇っていた。
「殿下、もうすぐ王宮に到着いたします」
御者の声に我に返る。
「ああ……わかった」
自分でも呆れるほどだ。
エレナに出会うまでの俺は、今とはまるで別人だった。
騎士団長としての厳格さを崩すことなど、ほとんどなかったというのに。
(昨日の件があったからこそ……いや、あれが決定打だったのだろう)
王宮へ戻ると、背後から声を掛けられた。
「叔父上!」
振り向けば、レオンハルトが足早に近づいてくる。
「捜しましたよ。事件の調査結果をお持ちしました」
「早いな」
差し出された封筒に目を通す。
そこには、容疑者の証言が簡潔にまとめられていた。
《『伯爵令嬢が原因だ』》
《『ローゼンバーグ家が王室を侵食している』》
(……やはり、エレナを狙った動きか)
「叔父上」
レオンハルトが、低く慎重な声で続ける。
「内部に協力者がいる可能性もあります。どうか、お気をつけください」
「分かっている」
(まったく……政争の道具に使うとは、許し難い)
レオンハルトの様子が、どこか歯切れ悪い。
「どうした?」
一瞬の逡巡の後、彼は口を開いた。
「……叔父上と、エレナ嬢のことですが」
やはり、その話題か。
「心配するな」
努めて平静を装い、言葉を切る。
「彼女の安全は、私が守る」
レオンハルトは複雑そうな表情を浮かべ、小さく頷いた。
「……ええ。もちろんです」
(……興味を持っているのは、間違いないだろうな)
血縁であろうと、油断はできない。
レオンハルトは賢く、行動力もある男だ。
執務室へ戻り、書類に目を走らせながら思考を巡らせる。
エレナと出会ってから、ここまでの流れは、あまりにも早かった。
最初の印象は、正直に言って奇妙だった。
庭園で、あんな言葉を放つ伯爵令嬢がいるとは思いもしなかった。
『クソッタレ』
今でも思い出すと、口元が緩む。
貴族社会に染まり切っていない率直さと、芯の強さ。
(……他の女たちとは、まるで違う)
エレナと共にいると、胸が熱くなる。
彼女の一挙手一投足、そのすべてが愛おしく感じられた。
(こんな感情を抱くのは、初めてだ)
ふと鏡を見ると、そこに映る自分の表情は、信じられないほど柔らかかった。
「……情けない」
独りごち、机の引き出しを開ける。
中には、数枚の紙片。
彼女の好きな花、興味を示した場所――密かに集めた情報が、丁寧に書き留められていた。
(……まるで思春期のガキだな。だが、理性で抑えられる程度の想いなら、ここまで深くはならない)
苦笑しつつも、彼女のために練ったデートの段取りを思い浮かべる。
本来なら、時間をかけて距離を縮めていくつもりだった。
だが、昨日の事件で、その考えは完全に変わった。
(……悠長なことは言っていられない)
一刻も早く、彼女を妻として迎え入れる必要がある。
(彼女を守れるのは、私だけだ)
同時に、胸の奥で黒い感情が蠢く。
レオンハルトがエレナを送ったこと――
配慮としては正しい。理解もしている。
それでも――否、だからこそだ。
(……彼女を抱き寄せるのは、俺でありたかった)
王太子としての責任だと、頭では分かっている。
だが、理性は感情を完全には抑えきれない。
(……くそ)
嫉妬とは、これほどまでに甘く、そして醜いものだったか。
窓の外を見ると、いつの間にか雨が降り始めていた。
重く垂れ込める雲を見つめながら、自嘲する。
(騎士団長としての自分と、一人の男としての愛情……その狭間で揺れるとはな)
雨は静かに王宮の屋根を叩いていた。




