第十話:寄り添う者
九話と十話を同時に更新しました。
拘束された令嬢が騎士たちによって連行され、訓練場を覆っていた騒然とした空気が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた頃――。
私はようやく、張り詰めていた息を吐き出した。
「……はぁ……」
長く息を吐いた途端、それまで気づかなかった疲労が一気に押し寄せてくる。
足元が、わずかに揺れた。
「エレナ嬢!」
すぐそばで声が上がる。
次の瞬間、倒れそうになった身体をレオンハルト殿下が支えてくれていた。
肩を抱く腕は思った以上に力強く、その温もりが外套越しにも伝わり、私は思わず身を固くした。
「大丈夫ですか? 顔色が優れません」
心配そうに覗き込む碧の瞳。
――近い。
「だ、大丈夫……です」
そう答えたものの、自分でも声が上ずっているのが分かった。
事件の恐怖が完全に消えたわけではない。
けれど、今うるさいほど鳴っている心臓は、それだけが原因ではなかった。
恐る恐る顔を上げる。
すると、視界いっぱいに整った横顔が映った。
先ほどまで騒然としていた訓練場の中にいたとは思えないほど、レオンハルト殿下の表情は穏やかだった。
「無理をなさらないでください」
静かな声が耳に届く。
「あなたは十分頑張りました。あの場に居合わせたのですから、動揺して当然です」
その声には責める色も、気遣いを押し付ける様子もなく、ただ純粋な優しさだけがあった。
だからこそ、余計に落ち着かない。
そんな時だった。
「レオンハルト」
低く抑えた声が割り込み、私は反射的に振り返った。
そこには、ジャック様が立っていた。
その視線は私ではなく、私を支えているレオンハルト殿下の腕へ向けられている。
表情はいつも通りだ。
けれど、何となく空気が冷えた気がした。
「エレナは、俺が預かる」
淡々とした言葉。
命令口調ではないのに不思議と逆らえる気がしない、そんな響きがあった。
「……承知しました」
レオンハルト殿下もそれを感じ取ったのだろう。
ほんのわずかに間を置いてから、静かに腕を離した。
すると入れ替わるように、ジャック様が私の前へ歩み寄る。
そして何も言わず、自らの外套を肩へ掛けてくれた。
ふわりと包み込むような温もり。
どこか安心する香りが鼻先をかすめる。
「怖かったな」
たったそれだけだった。
長い慰めの言葉でもなく、気の利いた励ましでもない。
けれど、その短い一言は不思議なくらい胸の奥へ染み込んでいった。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
「……はい」
ようやくそれだけを返す。
するとジャック様は何も言わず、小さく頷いた。
何気なく視線を上げた先で、少し離れた場所に立つレオンハルト殿下と目が合った。
彼はまだ、こちらを見ていた。
心配そうな表情。
それでいて、どこか寂しそうな色も滲んでいる。
目が合うと、レオンハルト殿下は柔らかく微笑んだ。
「後の対応は私が引き継ぎます」
穏やかな声だった。
「エレナ嬢を安全にお送りしましょう」
その言葉に、ジャック様の眉がわずかに動く。
「……頼む」
返ってきた声は短い。
普段より少し低く聞こえたのは、気のせいだろうか。
そしてその眼差しは、どこか名残惜しそうに私へ向けられていた。
*
ジャック様は現場の指揮で残ることになり、私は屋敷へ向かう馬車の中、レオンハルト殿下の向かいに座っていた。
窓の外では、夕陽がゆっくりと傾き始めている。
車輪の音だけが静かに響く車内は、不思議なほど落ち着かなかった。
(……なんだか気まずい)
先ほどまでの出来事が何度も頭をよぎる。
襲撃。
悲鳴。
そして、私を守るように立ったジャック様の背中。
思い返すたびに、胸の奥がざわついた。
「エレナ嬢」
静かな呼びかけに顔を上げる。
レオンハルト殿下は窓から差し込む夕陽を受けながら、穏やかに微笑んでいた。
「本当に無事で良かったです」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
「……ありがとうございます」
かろうじてそう答える。
すると、彼は少しだけ視線を伏せた。
「あなたが傷つく姿は、見たくありません」
真っ直ぐな言葉だった。
飾り気もない。
計算高さも感じられない。
ただ本心から出た言葉なのだと分かる。
だからこそ、返す言葉に困ってしまう。
(……困ったな)
窓の外へ視線を逃がす。
茜色に染まった空が流れていく。
夕焼けの光は柔らかいはずなのに、なぜだか胸の奥が落ち着かなかった。
揺れる馬車の中で、私はそっと息を吐く。
屋敷までは、まだ少し距離がある。
けれどその道のりが、いつもよりずっと長く感じられた。




