第28話 『金曜日の朝』
金曜日。
目覚ましの音が鳴る前に、朝倉幸太郎は目を覚ましていた。
ほとんど眠れなかった。
昨日のことが何度も頭をよぎる。
木曜日。
全部思い出した陽菜。
名前を呼んで。
桜並木で笑って。
「好き」って言って。
唇に残る感触まで、まだ鮮明だった。
だからこそ、怖い。
今日になって、それがまた消えていたら。
幸太郎は布団の中でしばらく天井を見つめたあと、ゆっくり起き上がった。
机の上のスマホを見る。
昨日撮った写真が何十枚も並んでいる。
その一枚を開く。
桜の下で笑う水瀬陽菜。
画面を閉じる。
息を吐く。
学校へ向かった。
教室。
まだ朝のざわめき。
幸太郎は席についたまま、扉ばかり見ていた。
後ろから颯太の声。
「落ち着け」
西園寺颯太が座りながら言う。
「無理だ」
短く返す。
颯太は少し笑った。
「昨日あれだけ戻ったなら、何か変わってるかもな」
幸太郎は何も答えなかった。
期待したくない。
期待して裏切られるのが怖かった。
チャイム直前。
扉が開く。
陽菜が入ってくる。
いつも通りの制服。
髪もそのまま。
眠そうな顔。
でも。
目が合った瞬間。
陽菜が止まった。
一秒。
二秒。
そのまま。
まっすぐ幸太郎の席へ歩いてくる。
幸太郎の鼓動が早くなる。
名前を呼ぶか。
呼ばないか。
それだけを待つ。
陽菜は机の前で止まる。
少し困った顔。
少し眉を寄せる。
胸が冷える。
やっぱりだめか、と一瞬思った。
でも。
陽菜は小さく笑って言った。
「おはよう、幸太郎くん」
世界が静かになる。
幸太郎の呼吸が止まる。
颯太が後ろで小さく「マジか」と呟いた。
陽菜は少し照れたように視線を逸らす。
「……名前、覚えてた」
幸太郎は立ち上がりそうになるのを堪える。
喉が詰まる。
言葉が出ない。
やっと絞り出した。
「……本当に?」
陽菜が頷く。
でも少し不安そうに言った。
「全部じゃない」
その一言で現実に戻る。
陽菜は胸元を握る。
「昨日ほどじゃない」
「思い出が、ぼんやりしてる」
「でも」
少し笑う。
「名前は残ってた」
その笑顔が眩しかった。
幸太郎は初めて、心の底から少しだけ安心した。
昼休み。
図書室。
いつもの窓際。
青いノート。
今日は陽菜の方から開いた。
ページをめくる。
昨日のページ。
桜並木。
「好き」。
そこに書かれた文字を指でなぞる。
「これ」
陽菜が小さく言う。
「読まなくても覚えてる」
幸太郎が見る。
陽菜は少し恥ずかしそうに笑った。
「キスしたことも」
一瞬で幸太郎の顔が赤くなる。
陽菜が吹き出す。
「赤くなってる」
「うるさい」
「ほんとだ」
からかうように笑う。
昨日まで泣いていたのに。
その普通さが、幸太郎には嬉しかった。
でも。
次の瞬間。
陽菜の指が止まる。
ページの途中。
少し眉を寄せる。
「……あれ」
幸太郎の表情が変わる。
「どうした」
陽菜はノートを見る。
それから幸太郎を見る。
少し困った顔。
「この写真」
スマホを指差す。
昨日のクレープ屋の写真。
「ここ行ったの、一昨日だよね?」
違う。
昨日も行った。
幸太郎の胸が冷える。
やっぱり全部ではない。
残ったものと、消えたものがある。
陽菜も気づいたらしい。
少し俯く。
「……ごめん」
幸太郎は首を振った。
「謝るな」
即答。
陽菜が顔を上げる。
幸太郎はノートに書いた。
金曜日。
名前は残った。
昨日の一部も残った。
だから前より進んでる。
陽菜がその文字を見て、少し笑った。
「前向き」
「そうしないと無理だ」
「そっか」
そして、その下に自分で書いた。
幸太郎くんの名前は忘れなかった。
それだけで、今日は少し嬉しい。
その文字を見て。
幸太郎は、泣きそうなくらい救われた。
帰り道。
川沿い。
昨日と同じ場所。
でも今日は花びらがさらに減っていた。
季節は待ってくれない。
陽菜が隣を歩く。
少し黙ってから、ぽつりと言う。
「ねえ」
「ん」
「木曜日、また来るよね」
幸太郎は頷く。
「来る」
陽菜は少し笑った。
「楽しみ」
一拍。
「木曜日の私、すごい積極的だね」
幸太郎がむせる。
「な、何で」
陽菜は少し悪戯っぽく笑った。
「ノート読んだ」
完全に終わった。
幸太郎が顔を逸らす。
陽菜が笑う。
久しぶりに、心から笑っていた。
そして。
歩きながら。
陽菜がそっと手を差し出す。
前みたいに震えていない。
自然に。
「今日は覚えてるから」
そう言って。
幸太郎の手を握った。
その温かさは、昨日より少し確かだった。
失われるものもある。
でも、残るものもある。
その事実が。
二人に小さな希望をくれた。




