王子稲荷
師走も末の末三十日から大晦日になろうかという夜半時。ポツリポツリと狐火が、暗闇の中点いては漂い点いては漂いフワフワと古い榎の木に集まってきている。武蔵、相模、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州の稲荷神社のお狐様が、この先の王子稲荷神社に詣る前に身なりを整える為に立ち寄ると言うこの榎。最初に名付けたのが神君家康公だとか、いやいや鎌倉殿が王子稲荷に奉納した頃からそう呼ばれているなど、兎にも角にもとても古いこの榎の木のことを、江戸の皆々は装束榎と呼んでいる。
この装束榎から王子稲荷のほうに狐火の行列が伸び、鳥居の手前でシュンと消える代わりに、見事な出で立ちだったり洒落た装いだったりする後ろの二本足で立ち歩くお狐様が、顔馴染みも居るのだろうか、手で挨拶を交わしたり少し立ち止まって囁きあう姿も時折見受けられるが、それも順々にと鳥居の奥へ吸い込まれていく。
公卿武家の唐衣裃袴や、町奴の小袖に羽織、中にはこの季節にはそぐわない浴衣だったり小袖の片袖を脱いだ片肌脱ぎをしている者も居る。なかなかどうして寒そうな気もするけれども、そこはそれ、お狐様ということで。
「おい、晴十郎。お前さん、晴十郎だろうよ。相も変わらずの美丈夫だね」
呼びかけたのは羽織を被った旦那衆の身なりのお狐様で、ほかのお狐様と比べても少し歳を召した様な貫禄漂うお狐様だ。対して呼ばれたお狐様は、頭の先から足の先まで真っ直ぐに背筋のシャンとした、美丈夫と呼ばれるのも納得の匂い立つ様な男っぷり。総髪の慈姑頭で柘植の木でこしらえた簪を二本差し、小袖を二枚重ね着て片袖一枚脱いだ姿は艶姿。世が世なら、婆裟羅とも傾奇者とも呼ばれたであろうアレのこと。
「美丈夫って言い方は無しにしてくれって。そもそも、そんなに若くねぇし。下谷のご隠居さんには、オイラの顔が青白い優男に見えるのかい。」
美丈夫というのは、面構えの美しいはつらつとした好青年という意味だが、晴十郎と呼ばれた男には、それが線の細いナヨナヨとした男と感じる様である。
「アハハ、挨拶も無しに、アタシの褒め言葉を貶すのかいよ。」
「そうじゃぁねぇけどよぉ。敵わないね、ご隠居には。」
笑顔で晴十郎に答えたご隠居様は、上野不忍の近くに鎮座奉りまする伏見稲荷の分祀様。とても徳の高いお坊様が勧請したとも、藤原朝臣某が社殿を寄進したなんていうとても古い話が残っている。神様というものは摩訶不思議なもので、そこにいるけどそこにいない分かれゃいるけど分かれてない、禅問答な様な押し問答の様な答えのない表現だけれども、何処にでも同じ神様が居るらしい。分身とかいうものとは全くの別物で、どこの神様もそこに居ればその神様なんだそう。だからこのご隠居様は、列記として伏見稲荷の大明神であるとともに、上野不忍の近くの下谷神社のお狐様だ。
「ところでご隠居。行かねえんですかい。」
「そこのところだよ。前触れがあってね、晴十郎を伴って終わり間際に参上する様にという事なのさ。だから、お前さんを待っていたのさ。」
手に持っている徳利と竹皮の包みを鼻先につける様に見せつけながら、鳥居に続く階段に座れと晴十郎を促す。竹皮包みを解くとなんとも言えない甘い香りが漂い、それが鼻を通って口の中の舌を刺激する。
「へぇ、オイラと連れ立ってだって。なんでまた。」
「よくわからないけど、まぁ、お座りよ。薄めてない上物下りだよ。」
京都から堺を経由して船で来たり、中山道や東海道の陸路を馬に背負わせて運ばれる伏見の酒のことを京都から下る酒という意味で下りと呼ぶようになったが、途中揺られたり醸して混ざったりで、関東の酒に比べても、匂いの強いふくよかな酒になるのだそうだ。酒に限らず上方方面から運ばれるものは総じて下りというらしい。江戸で売るときは、水で薄めて丁度良い塩梅にするそうだが、これは薄めていないそのままの酒というわけだ。
竹皮に包まれた甘い香りのする物の正体は玉子焼き。それの端っこをちょちょと口に入れ、味が舌先に広がった時に酒をひとくち飲めば、頭も体も喜んじまうって寸法だ。
「こりゃまた良い酒だけども、こんなもんじゃ騙されねえですぜ」
晴十郎はそう言いながらも一口二口三口と酒と玉子焼きを交互に口に運ぶ。これは確かに良い酒だといわんばかりにだ。
狐の行列も段々と少なくなって途切れようかという時、待ってられないような様子の晴十郎は、ご隠居様を急かすように袖を引っ張って立ち上がらせる。
「もう待ってらんねぇ、ご隠居いくよ。」
「待てないんじゃなくて酒が無くなったからだろうよ。」
「ちげぇねぇ」
二人して高笑いしながら鳥居をくぐり、途中途中で顔見知りのお狐様と軽い挨拶を交わしながら、奥へ奥へと進んでいく。
ブンと何かが鳴った様な気がしたと思ったら、そこはもうかなり広い板の間で、とてもとても空気が張り詰めている。奥の方にお狐様が居られるが、張り詰めた空気はそのお狐様が発している様だ。
その御前に晴十郎は、遠慮もなくズカズカと近づいてドッカリと座り込む。ご隠居は晴十郎の横少し後ろに座る。まるで晴十郎のお供の様に。
「倉稲魂命様がオイラになんか用かい。オイラには用事は無いけどね。」
胡座の片膝に片肘ついて前のめりに、誰よりも先に口を開く。
「晴十郎。その口の利き方は無いよ。その格好はお辞めなさい。」
晴十郎の袖を引っ張りながら、ご隠居はそう嗜めた。
ウカノミタマのミコトとは伏見稲荷及び全国全稲荷社の御祭神で、須佐之男命の血脈を継ぐ地祇の一柱。なれば総じてお狐様は皆一様にウカノミタマということだから、ご隠居も晴十郎もウカノミタマという事になる。が、元は元、個は個と飲み込まないと話が終わってしまう。そんなところの神様のお話ということで。
ウカノミタマ様は、小柄な女性のお姿でちょこんと座布団の上に座っていらっしゃる。が、発する威圧が凄まじいせいか、そのお姿の輪郭が何倍にも大きくまるで大きな大木みたいに、見上げなければ見ることのできない錯覚を覚えさせる。
「此奴の無礼な態度はいつものこと。もう馴れたわ。」
そう言ってクスリと笑うウカノミタマ様は続けて、
「今日は、晴十郎と下谷殿にお願い事があっての。聞き入れてくれるか。」
「それはお願いじゃなくて、絶対の用事なんでしょうよ。」
ウカノミタマ様の言葉の終わりに被せる様に口を開いた晴十郎は、飛んでいる虫を追い払うみたいな手の仕草をした。
「黙って仕舞いまで大人しくお聞きよ、晴十郎。」
ご隠居は、やはり晴十郎の袖を引っ張りながら嗜める。それをウカノミタマ様は笑いながら話を繋げた。
「良い良い。実はの、本郷の本妙寺から神頼みがあっての。振袖の大火で悔しい思いをしたから力添えをしてくれという頼みなのじゃ。」
「寺からの神頼みなんて聞いたこともねぇ。」
ウカノミタマ様は、手を合わせ何かに頭を下げながら、話を進める。
「元はその寺のご本尊への祈祷なんじゃがの、本尊から、日の本はまほろばの倭の神国なれば此方の力添えを頼みたいという申し出が、色々伝わって私が引き受けたという次第での。」
「色々伝わって私が引き受けたってんなら、その私の倉稲魂の命の大明神が、引き受けなすったらどうなんですよ。」
「いい加減にしなよ晴十郎。口をつぐんでお聞きなさい。」
あまりに無礼な晴十郎を叱り、ご隠居は晴十郎の肩をパシンと叩く。
「徳川にいくつか約束させねばならぬことがあっての。それで熊野の誓紙を貰ってきてもらいたいのじゃ。まあ色々な都合と事情が私にあっての。そして晴十郎、そなたもわかっておろうよ、これが変えようのない決まり事だと。アハハハハ。」
ウカノミタマ様は大きな笑い声を出した後にボソボソと、話は仕舞いじゃとつぶやくと柏手をひとつパンと鳴らした。
晴十郎の顔の周りをブンと何か鳴った様な気がしたと思ったら、板の間が外の石畳に変わっている。そこは王子稲荷の神域だけれども明らかに外であった。晴十郎は小さい声でケッと息を漏らして、言うだけ言ったら追い出しやがったと、石畳を叩く。
「晴十郎、日取りは任せるから決まったら教えておくれ。迎えにいくから。」
「なんだい、ご隠居も行くのかい。」
「お前さん話を聞いていたのかい。そういう話だったじゃないか。」
そういう話だったかなぁ、まあ、いいや。と呟きながら立ち上がり、その手でご隠居の体を支えながら立ち上がらせた。
「じゃぁご隠居。待ってておくんなせぇ。」




