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月に、見られている。
そんな確信が、頭から離れない。
気のせいだと分かっている。
分かっているはずなのに――
どうしても、視線が上へと引き寄せられる。
空を見上げる。
そこには、ただの月がある。
……の、はずだった。
「……なんだ、これ」
違和感。
月が、近い。
いや。
“こっちを向いている”。
気づいた瞬間、背筋が凍りついた。
――目が離せない。
逸らさなければ。
そう思うのに、視線が固定される。
時間の感覚が、歪む。
数秒なのか、数分なのか分からない。
ただ、確実に言えるのは――
“向こうも見ている”ということ。
そして。
――合った。
「……ぇ」
月の中心。
そこにあったのは、巨大な“目”。
瞬き一つせず、僕を見下ろしている。
理解した瞬間、身体が弾けた。
走る。
考えるより先に、全力で。
枝が腕を裂く。
石に足を取られる。
それでも止まらない。
止まれば、終わる。
そう、本能が叫んでいた。
息が焼けるように熱い。
肺が悲鳴を上げる。
それでも、走る。
――見られている。
振り返らなくても分かる。
あの目は、まだ“ここにある”。
やがて。
視界の端に、暗闇が見えた。
洞窟。
考えるより先に、飛び込む。
地面に転がり、荒い呼吸を繰り返す。
「はっ……は……っ……」
数秒。
いや、数分か。
ようやく、呼吸が落ち着き始めた。
恐る恐る、入口の外を見る。
――月は、見えない。
ほんのわずかに、肩の力が抜けた。
だが。
次の瞬間には、別の感情が押し寄せてくる。
遅れてくる恐怖。
静まり返った洞窟の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。
「……なんなんだよ、ここ」
声が、少し震えた。
さっきまで、自分はただの学生だったはずだ。
朝起きて、学校に行って、帰って、ゲームして――
そんな、どこにでもある日常。
それが。
どうして今、こんな場所にいる?
頭に浮かぶのは、家族の顔。
何気ない会話。
友人とのくだらないやり取り。
「……っ」
喉の奥が、きゅっと締まる。
もう、戻れないんじゃないか。
そんな考えがよぎった瞬間。
「……帰りたい」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
返事はない。
ただ、暗闇が広がっているだけだった。
限界だった。
張り詰めていた意識が、ぷつりと切れる。
そのまま、闇に沈んだ。
◇
――目を覚ます。
最初に感じたのは、冷気だった。
刺すような寒さ。
「……は?」
ゆっくりと身体を起こす。
洞窟の外が、白い。
いや。
白すぎる。
外に出る。
足を踏み出した瞬間、ざくり、と音が鳴った。
見下ろす。
そこには、積もった雪。
さっきまで森だったはずの景色が、跡形もなく白に塗り潰されている。
一晩で、世界ごと塗り替えられたかのように。
「……もう、なんでもありかよ」
乾いた笑いが、こぼれた。
◇
気づけば、この世界に来て一週間が経っていた。
長かったのか、短かったのか。
もうよく分からない。
ただ一つ、確実に言えることがある。
この世界は――狂っている。
およそ一時間。
その間隔で、“何か”が生まれる。
規格外の力を持った魔物。
そして、それを境に――世界が変わる。
森になり、雪に覆われ、砂に飲まれ、空が落ちる。
何度も、何度も見てきた。
だからもう、分かる。
「……来るな」
小さく呟く。
今まで確認した変化は五つ。
【荒野】【森】【雪】【砂漠】【空】
中でも【空】は別格だ。
あれは、世界そのものが“敵になる”。
逆に【荒野】は、まだマシだ。
――だから、今が動くタイミングだ。
見上げる。
今の世界は、荒野。
「……行くか」
呟き、立ち上がる。
手には、一本の棒。
森で拾ったそれは、妙に頑丈で。
何度振り回しても、折れる気配がない。
「……頼むぞ」
誰にともなくそう言って、僕は歩き出した。
◇
荒野を駆ける。
風が、頬を切り裂く。
地面を蹴るたび、身体が軽く跳ねる。
明らかに、普通じゃない速さだ。
「……速いな」
軽自動車並み。
そんな言葉が頭をよぎる。
だが、不思議と違和感はない。
身体の奥。
血とは別に、何かが巡っている感覚がある。
熱でもなく、冷たさでもない。
だが確かに、“力”だ。
この世界に来て、すぐに気づいた。
魔物を倒すたび、それは増えていく。
意識すれば、流れを変えられる。
足に流せば速くなる。
腕に流せば、重い一撃になる。
――だから。
この速度で、走れる。
「……魔力、ってやつか」
誰にともなく呟く。
名前なんて、なんでもいい。
使えれば、それでいい。
――走ること数分。
足を止めた。
「……いた」
視線の先。
ひび割れた大地の向こうに、あの巨体がいる。
全長五メートルを超える、異形の猪。
一度、殺されかけた相手。
――けど、今なら。
頑丈な棒に魔力を込める。
今ある魔力の3割ほど。
そして――……一太刀。
巨大な身体を持った異形の猪が――縦に割れた。




