第6章 その2
夜の気配が、街の石造りの壁にじわじわと染み込む頃――。
ミアルヴィは川沿いの倉庫群から少し外れた一角に立っていた。
灯の乏しい裏路地。
目の前の建物は、古びた倉館。
誰もが忘れかけたその裏口に、彼女は迷いなく手を上げる。
コン、コン、コン……コン、コン。
短く三度、そして二度。
――かつての仲間に向けた、懐かしい合図だった。
ほどなく、内側の閂がゆっくりと上がる音がして、扉が軋みながら開いた。
「……久しいな、猫娘」
通された先は、地下へと続く階段。
そして、灯りのともる小さな作戦室だった。
壁には地図と駒、木箱、数字の書かれた紙束が整然と並んでいる。
卓の向こう、地図を前にしていた初老の男が、ミアルヴィに気づいて目を細めた。
「“目”の紋章の話は、耳に入ってる。厄介なもんを追ってるな」
「そっちにも届いてるとは思ってたけど……王政の扉を叩くつもりなのよ」
そう言ったミアルヴィの声には、どこか探るような響きがあった。
だが、男は軽く首を横に振る。
「残念ながら、王政は俺たちの守備範囲じゃない。“川筋”を変えるんだ」
「川筋?」
「川沿いにある邸宅でな、商人や若い貴族、それに書記や学者なんかが顔を出す“夜会”がある。格式ばってはいないが、そこにはヴェルト家に近い連中も出入りしてる」
ミアルヴィの瞳が少し細くなる。
男はにやりと笑って、卓の上に置かれていた小さな木札を弾いた。
「この木札は、ただの“合図”だ。こちらで適任者の“名”を通せば、邸の方から招待状が届くはずさ」
木札には、葡萄の蔓が浅く刻まれていた。
仄暗い室内の灯りに、彫り目がわずかに光る。
「……ただし、耳は隠しておけよ。お前さん、目立つからな。今夜中に動かなくてもいい。“糸”はもう繋いである」
木札を指先で受け取りながら、ミアルヴィはふっと口角を上げた。
「“通す名”は、もう決めてる」
その言葉の奥に、確かな“信用”の気配が宿っていた。
夕刻。
川沿いの宿に、ひときわ静かな空気が流れていた。
部屋の扉が軽く開き、ミアルヴィが中に入ってくる。
その手には、灯の下で鈍く光る小さな木札。
葡萄の蔓が浅く刻まれている。
彼女は無言でその札を卓の中央に置いた。
「“夜会”への糸、取ってきたわ。川沿いの邸で開かれる、ちょっとした集まり。これは、その合図よ。向こうに“適任者”の名を渡せば、正式な招待状が来るって話」
部屋に一瞬、沈黙が落ちた。
誰もが木札の小ささの向こうに、その先へと続く大きな扉を思い描いていた。
これはただの木片じゃない。
言葉ひとつで、権力と策略の渦に足を踏み入れるための鍵だ。
リアンが手を伸ばし、そっと木札を指先でなぞる。
彼の指は軽く震えていたが、やがて、静かに深く息をつく。
「……僕の名を通してくれ。行くのは、僕だ」
エイリンが片眉を上げて口を開く。
「相手は貴族よ? 気後れしない?」
リアンは苦笑を浮かべながら、それでも真っ直ぐに言葉を返す。
「するよ。もちろん。でも、怖さを隠すために詩を口ずさむのは……今夜はやめておく。必要なのは、場の空気を読む耳と、線を越えない舌だ。僕にできるのは、それくらいだから」
ルードが聖印にそっと触れ、頷いた。
「言葉は祝福にも呪いにもなる。あなたの言葉が祝福になることを、私は信じています」
フィアは表情を変えぬまま、穏やかな声で続けた。
「わたしたちは後ろで支える。何かあれば、合図を。退くときの道筋も決めておきましょう」
ミアルヴィが尻尾をわずかに揺らしながら言う。
「“内”の合図は三つ――長、短、長。外の様子は私が見る。もし、席が荒れたら……裏門を使って」
リアンは木札を両手で包み込むように握りしめ、深く頷いた。
「じゃあ――“名”を出そう。あとは、招待状を待つだけ。その間に、話の糸口を整理しておくよ」
誰からともなく頷きが返される。
まだ準備は始まっていない。
だが今、ひとつの扉が、確かに出現しようとしていた。




