第5章 その5
リスターラに、夜が明けた。
──少なくとも、そのはずだった。
だが、朝が訪れても、街に陽光が差し込むことはなかった。空は昨日よりもさらに分厚い灰色の雲に覆われ、夜明けの気配さえ感じられない。まるで世界から色が失われたかのように、時間だけが静かに、そして確実に進んでいるようだった。
宿の窓から外を見下ろしていたエイリンが、憂鬱そうに眉をひそめた。
「……ねえ、この霧、昨日よりずっと濃くなってない?」
「濃くなっただけじゃない。街の“音”が……ほとんど消えてる」
ミアルヴィが猫のように鋭い耳を澄ませ、尻尾の毛を逆立てながら呟いた。
朝を告げる人々の喧騒、荷馬車の車輪が石畳を転がる音、鳥たちのさえずり──そうした、そこに命が息づいている証であるはずの“生きている街の音”が、何一つとして聞こえてこないのだ。
一行が一階の食堂に下りると、憔悴しきった様子の宿の主人が、虚ろな目でぽつりと呟いた。
「……鐘が、鳴らなかった」
それは、ありえないことだった。このリスターラでは、毎朝必ず、夜明けを告げる教会の鐘が鳴り響く。
それは単なる時報ではない。街に古くから伝わる“霧よけ”の儀式を兼ねており、これまで一度として欠かされたことのない、街の営みの根幹だった。
「止められたのではなく……鳴らなかった、のですか?」
ルードが不安げに問い返す。
「昨日のあの教会、やっぱり何かあったんじゃねえのか……!」
レンが苛立ちを隠せない様子で腰の剣に手をかけると、リアンがその腕をそっと押さえた。
「まあ焦るなよ、我が友よ。まずは確かめに行こうじゃないか。教会と……この街に起きている、全ての異変をな」
広場に足を踏み入れた一行は、その異様な光景に息を呑んだ。
子供たちが、昨日と全く同じ場所に座り込み、昨日と全く同じ“目”の絵を描き続けていた。
だが、その表情はもはや無表情ですらない。完全に感情が抜け落ちた“虚無”そのもので、声はおろか、瞬きひとつしていなかった。ただ、地面をなぞる指先だけが、まるで何者かに操られた人形のように、ゆっくりと、正確に紋様を描き続けている。
「やっぱり……おかしい。これ、夢のせいで描かされてるんだわ」
フィアが忌々しげに呟いた。
「見て……!」
エイリンが指差した先には、石畳にびっしりと刻まれた無数の“目”の紋章があった。それはまるで、巨大な“眼球の群れ”が、一行を、そして天を睨みつけているかのようだった。
「まさか、これ全部、あの子供たちが描いたっていうのか?」
リアンの言葉を、ミアルヴィが吐き捨てるように否定した。
「違う。これは“描いた”んじゃない。“描かされた”のよ。そこに、あの子たちの意思はない。あるのはただ、一方的な命令だけ」
その時だった。
ゴォォォン……
重く、歪んだ鐘の音が、空気を引き裂いた。
だが、それは聖なる鐘の響きでは断じてない。まるで地の底から響き渡る巨大な獣の呻き声のような、金属と魔力が軋む、聞く者の魂を直接揺さぶる不協和音だった。
「っ……! 頭が……!」
エイリンがこめかみを押さえてうずくまる。リアンも膝から崩れ落ち、ミアルヴィは鋭い耳を押さえながら、ふらりと体勢を崩した。
その中で、ルードだけが震える声で叫んだ。
「これは……聖なる鐘の音などではない! “魔術的な共鳴音”……! “何か”が、無理やり目覚めさせられようとしている……!」
見れば、教会の鐘楼から、まるで血反吐のような鈍い黒煙が立ち昇っていた。
異変は、それだけでは終わらなかった。
遠くの通りから、女の甲高い悲鳴が響き渡った。
「……きゃああああああああ!!」
振り返ると、一人の男が壁に何度も頭を打ちつけながら、うわ言のように叫んでいる。
「目が……目が……誰かが、見ている……! 目が、閉じられない……!」
男の両目は大きく見開かれ、その瞳孔は異常なまでに拡がっていた。そして、その瞳の奥に、一瞬だけ、幻影のように“赤い瞳”が揺らめいた。
「夢遊病……? いえ、これは……!」
ルードが駆け寄ろうとした、その時。男が唐突に顔を上げ、一行を指差して絶叫した。
「お前たちが──“あの方”の御目を閉じさせようとするのかァァアア!!」
男は手近に落ちていた木の棒を拾い上げ、狂ったように暴れ出す。周囲の人々は恐怖に叫び、逃げ惑う。
エイリンが即座に腰の弓を引き絞った。
「殺しはしない! 動きを止める!」
だが、それよりも早くルードが前に出て、胸に下げた聖印を固く握りしめた。
「……《ルーシードの御名において命ずる、その魂に、須臾の安らぎを──》!」
聖なる光が、まるで天からの槍のように暴れる男に降り注ぐ。男は苦悶の呻き声を上げ、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
呼吸は荒いが、命に別状はない。だが、その瞳は、未だに覚めることのない悪夢の淵を彷徨っているかのようだった。
エイリンが、低く呟いた。
「……今の男、私たちをはっきりと“敵”だと認識していた」
ミアルヴィが、短く応じる。
「街そのものが、あたしたちを拒絶し始めてる。侵食は、もう最終段階に近い」
そして、ルードが確信に満ちた、それでいて絶望を滲ませた声で言った。
「これが……“深き目”の権能。夢と現の境界を破壊し、人の精神を内側から喰い破る邪神の力……。“門”が、この街のどこかで、完全に開かれようとしている……!」




