第5章 その3
霧に沈む街、リスターラの中央区画。
静寂に支配された通りを抜けた先に、白い石造りの小聖堂が、まるで街を覆う灰色の霧をその身一つで拒むかのように、凛として佇んでいた。風化しかけた聖堂の正面には、豊かな麦の穂をかたどった紋章──豊穣神リーダンの印が、今もなお掲げられている。
「へえ、ここがこの辺りで一番大きな聖堂か。見かけは、案外普通なんだね」
エイリンが背負った弓の位置を直しながら、感心したような、それでいてどこか拍子抜けしたような声を上げた。
「……ですが、何か妙です」
ルードの視線は、門の上にそびえる鐘楼へと注がれていた。鐘が鳴っているわけではない。だというのに、彼の耳の奥には、まるで巨大な金属が内側から軋むような、不快な残響がまとわりついて離れなかった。
重い教会の門を押し開けると、ひやりと冷たい空気が二人の肌を撫でた。内部は簡素ながらも、隅々まで掃き清められている。床は白と灰色、二色の石を組み合わせたモザイク模様で、天井から吊るされたいくつもの蝋燭の灯が、ゆらり、ゆらりと頼りなげに揺れていた。人影はまばらで、祭壇の前に置かれた長いすに、腰の曲がった老婦人がひとり、一心に祈りを捧げているだけだった。
「失礼します。こちらの教会の方に、少しお話を伺いたいのですが」
ルードが礼儀正しく声をかけると、しばらくして祭壇の脇から二人の神官が姿を現した。
一人は、人の好さそうな笑みを浮かべた若い神官。
もう一人は、厳しい眼差しに深い皺を刻んだ、年配の女神官だった。
「……ようこそ、リスターラ教会へ。私は代理神官のアルセトと申します。こちらはミナ師です」
「ご用件をお聞かせください」
アルセトと名乗った青年神官の声は穏やかで、ルードの神官服と落ち着いた所作を見るなり、心なしか安堵したような表情を浮かべた。
一方、ミナ師と呼ばれる女神官は、ルードたちに値踏みをするような鋭い一瞥をくれたきり、固く口を閉ざして背筋を伸ばしている。その姿はまるで、信仰を守る石像のようだった。
小聖堂の脇室に通され、ルードは丁寧に、そしてまっすぐに本題を切り出した。
「私はルーシード教の神官、ルードと申します。巡礼と聖地の記録調査の任を受け、このリスターラに関する古い文献を探しております。特に……過去、この地で封印されたと伝わる“旧き祭壇”について、何か記録が残されていれば拝見したく」
「……封印、ですか」
アルセトが、まるで聞いてはならない言葉を聞いてしまったかのように、困惑した表情で視線を落とす。
「何か、隠してることがあるんじゃないの?」
エイリンが単刀直入に尋ねると、それまで石像のようだったミナ師の眉が、ぴくりと動いた。
ルードはあくまで穏やかな声で、言葉を続ける。
「失礼を承知で申し上げます。このリスターラの地には、古代の魔術文明に由来する広大な地下遺構が存在すると聞いております。教会の記録の中に、その遺構に関する旧信仰の封印儀式や、その前後に起きたとされる異変について、何かしらの記述はございませんか……?」
しばしの沈黙の後、ミナ師が氷のように冷たい声を発した。
「……お引き取りください、とまでは申しません。ですが……深入りは禁物です。この街では、“知りすぎること”が、時として神の祝福を遠ざけるのです」
「祝福を……遠ざける?」
ルードが穏やかに問い返すが、ミナ師はそれ以上、一言も口を開こうとはしなかった。
代わって口を開いたのは、青年のアルセトだった。彼は意を決したように机の引き出しから、古びて黄ばんだ文書の束を取り出した。
「……これは、公的な記録の一部です。数十年前に、地下の旧礼拝区画で大規模な信仰の“転換”が行われ、古い祭壇が封印された、という記述が確かにございます」
ルードの目が鋭く光る。
「その儀式を執り行った神官の名は?」
「……先代の主神官、“セロム・イシュダ”師です。記録によれば、封印を終えた後、彼はただ一言、こう言い残したとされています」
“我は、見てはならぬものを見た”と。
そして、その数日後、彼は忽然と姿を消した。公式の記録にはただ、『異常なし、転任』とだけ、記されているという。
「……転任先の記録は?」
「いえ、ございません。……それどころか、それ以降の主神官たちには、“かの件には決して触れるな”との指示が、代々“口伝”でのみ残されているそうです」
「それってさ……絶対におかしいじゃない!」
たまらず、エイリンが声を上げた。
「公式の記録には何も残さず、口伝えだけで“触れるな”なんて! それじゃあまるで、何かを隠してるって、自分たちで言ってるようなものじゃない!」
「……エイリン」
ルードがやんわりと制するが、ミナ師の視線はますます氷のように冷たくなっていた。
「どうか、お帰りください。ここは、静かな祈りの場所です」
その拒絶の一言で、二人はこれ以上の対話が無益であることを悟った。
聖堂の外に出ると、灰色の霧がまるで生き物のように、地面を這いずり回っていた。遠くで鳴り響く鐘の音が、空中で不協和音を奏でて歪んでいるように聞こえる。
「なんだか、あの年配の神官……すっごく怖かった」
エイリンが悪寒を振り払うように、ぶるりと肩を震わせた。
「……彼女は、きっと何かを知っているのでしょう。ですが、その“何か”は、長年培った信仰心をもってしても、なお語るには重すぎるのかもしれません」
ルードは、まるで自分に言い聞かせるかのように静かに答えた。
「それでも……何も知らされずに、知らないふりをして生きていくなんて、私は絶対にイヤだよ」
「……ええ。私も、そう思います」
二人は、まるで示し合わせたかのように、聖堂の奥を振り返った。そこには、固く閉ざされた古文書室へと続く扉があった。重々しい錠が下ろされ、今は誰も立ち入ることはできない。
だが、その扉の向こう側に、“何か”が今もなお封じられている。そんな得体の知れない気配だけが、濃密に漂っていた。




