プロローグ その3
夕暮れ時の宿場町オストヴァル。「明日の栄光亭」と名付けられたその酒場は、旅人たちの喧騒と、厨房から漂うスパイスの効いた煮込み料理の匂いで満ちていた。
この街に足を踏み入れたのは、ほんの数時間前のことだ。見慣れない石畳の道、耳慣れない訛りの言葉。それでも、久しぶりに屋根のある場所で温かい食事にありつけるというだけで、張り詰めていた心が少しだけ解ける気がした。
「……いただきます」
木の器に盛られた肉と豆の煮込みを、レンはもそもそと口に運ぶ。塩気は少し強いが、空腹の腹にはそれが心地よかった。故郷を逃げるように飛び出してからの日々が、脳裏をかすめる。
「やあ、君も旅人かい?」
不意に隣から声をかけられ、レンは驚いて顔を上げた。
そこにいたのは、人好きのする笑みを浮かべた青年だった。栗色の髪を気ままに遊ばせ、肩からは古びたリュートを提げている。その姿は、まるで物語から抜け出してきた吟遊詩人のようだった。
「……ええ、まあ。今朝、この街に着いたばかりで」
「そいつは奇遇だな! 俺もさ。見ての通り、詩と浪漫を追い求めるしがない旅の者でね。一人飯も悪くないが、せっかくだ。これも何かの縁だろう。一席、共にどうかな?」
青年は芝居がかった口調でそう言うと、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
その屈託のない笑顔に、レンは一瞬戸惑う。だが、警戒するような相手ではなさそうだ。むしろ、どこか懐かしさすら感じさせる。
「……じゃあ、少しだけ」
「決まりだな!」
青年は嬉しそうに席を詰めた。
「俺はリアン。吟遊詩人さ。いつか世界を揺るがす英雄譚を紡ぐのが夢でね。君の名前は?」
「レン、です。以前は……衛兵を」
「衛兵! なるほど、道理でその腕、ただ者じゃないと思ったぜ! 頼もしいな、勇者レン殿!」
「……今は、ただの旅人ですよ」
レンは照れくさそうに頭を掻いた。
互いに、確かな目的がある旅ではないのかもしれない。だが、こうして偶然に出会い、言葉を交わし、食事を共にする。それだけで、強張っていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。
その時だった。
「た、助けてください! 誰か――!」
酒場の扉が乱暴に開き、息を切らした少女が駆け込んできた。パン屋のエプロンをつけた娘だ。
あまりの焦りに言葉が続かず、厨房へ助けを求めようとするが、うまく話せないでもどかしそうに床を踏み鳴らした。
それを見て、厨房の奥から店の主人が顔を出す。
「おいおい、落ち着きな。……お、そこの若い衆!」
布で手を拭いながら、主人はレンとリアンに顎をしゃくった。
「ちいとばかし、力を貸してくれねぇか。この子の弟がいなくなったらしいんだ。配達の途中で、どこかへ姿を消しちまったと……日が暮れる前に、探すのを手伝ってやってくれ」
その言葉に、レンは反射的に姿勢を正していた。
「……子供の捜索なら、手伝えそうです」
衛兵だった頃の癖だろうか。立ち上がった自分に少し驚きながらも、体は自然に動いていた。困っている人を、見過ごせない。今度こそ、正しくありたい。
「いいね、面白くなってきた! もちろん、この吟遊詩人リアンも力を貸そう!」
隣でリアンが軽やかに椅子を引く。
「人助けは英雄譚の始まりって相場が決まってる。それに、こんな可憐な乙女の涙を詩にしないわけにはいかないからな!」
その大げさな物言いに、レンの口元が思わず緩んだ。
「……ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか」
「弟の名前はレオ。六つで、少しやんちゃで……でも、いつもは私の後ろをついてくるんです。さっきまで、すぐそこにいたはずなのに……!」
パン屋の娘は、必死に涙をこらえながら説明した。
旧市街を抜けてこの宿へ来るまでの、ほんのわずかな間に、レオの姿を見失ったらしい。
「旧市街の、どのあたりですか?」
レンが地図を広げて尋ねると、娘は震える指でその道筋をなぞった。古い広場を抜け、今は使われていない納屋の裏手を通る、寂れた路地だ。
「よし、任せておくれ」
リアンが優しく微笑み、彼女に布を差し出すと、娘は深く頭を下げた。
「お願いします……!」
陽は西の空に傾き、街の喧騒も次第に遠のいていく。石畳に伸びる影を踏みしめながら、レンとリアンは旧市街へと急いだ。
「思ったより、入り組んでるな」
「ああ。細い路地が多い。これじゃあ、子供ならずとも迷っちまいそうだ。何かに気を取られて、ふらっと角を曲がっちまったのかもな」
「あっ」
曲がり角の石段の影に、小さな靴が片方だけ落ちていた。子供用の、くたびれた革靴だ。
「これ……レオ君のか?」
リアンがそれを拾い上げる。
「間違いない。この道に入ったんだ」
レンは地面に視線を落とし、わずかな痕跡を追う。草の倒れ方、石に残るかすかな泥の跡。誰かが通った形跡が、確かに先へと続いている。衛兵時代に叩き込まれた追跡術が、ここで役に立つとは思わなかった。
「足跡は新しい……軽い足取り、たぶん走ってる。何かを追いかけたか、あるいは何かに呼ばれたか――」
「へえ、すごいじゃないか、レン。まるで狩人みたいだ」
「なんとなく、ですよ。昔の経験というか......」
「はは、なるほどな!」
軽口を交わしながら、二人は古びた納屋の裏道へと足を踏み入れた。
崩れかけた壁、雑草に覆われた石畳。昼間でも人通りのなさそうな一角に、その廃屋はぽつんと建っていた。黒ずんだ木造の壁が、不気味な気配を放っている。
レンが、ぴたりと足を止めた。
「……あそこだ。足跡が、廃屋の入口で途切れてる」
リアンも表情を引き締め、建物を見上げた。
「火事の跡か……煤けてるな。ずいぶん前に焼けたって感じだ」
錆びついた扉。誰も住んでいるはずのないその家に――なぜか、わずかに隙間が開いている。
「扉が……開いてる」
「中に……いるのかもしれないな」
リアンが声を潜めた。
レンは腰の剣の柄に手を添え、一歩、また一歩と、慎重に廃屋の扉へと近づいていった。
廃屋の扉は、軋むような重い音を立てて開いた。
中は想像以上に暗く、焼け焦げた木の匂いが鼻をつく。床には灰と埃が積もり、天井の梁は黒く煤けている。割れた窓から差し込む夕暮れの光が、室内に不気味な影を落としていた。
「……誰か、いますか?」
リアンが控えめに声をかけたが、返事はない。
レンは足音を殺して奥へ進み、崩れかけた階段を慎重に上る。二階の隅、小さな部屋の扉が、わずかに開いていた。
「レオ君……?」
声をかけながら、そっと扉を開く。
その瞬間、ふわりと舞った埃が、夕日を浴びてきらめいた。
「――!」
部屋の隅に、小さな影がうずくまっていた。震える肩、膝を抱えた姿。埃まみれの髪。パン屋の娘が言っていた、レオという少年だ。
「レオ君……見つけたぞ!」
レンは声を和らげ、ゆっくりと近づいた。
少年が顔を上げる。涙で濡れた瞳は、どこか虚ろだった。
「……わかんない。気づいたら、ここにいて……」
その声はかすかに震えていた。恐怖よりも、理解できない状況への混乱が見て取れる。
レンはそっとしゃがみこみ、できるだけ安心させるように、穏やかな声で言った。
「もう大丈夫だ。君はレオ君だね? お姉さんが、すごく心配してた。一緒に家に帰ろう」
少年は戸惑いながらも、こくりと小さく頷いた。
レンは手を伸ばし、レオをそっと抱き上げる。驚くほど軽い体だった。
「よく頑張ったな。偉かったぞ」
その言葉に、レオはレンの上着をぎゅっと握りしめた。
そこへ、リアンが部屋に入ってくる。
「見つかったか! ああ、よかった……!」
「うん。怪我もないみたいだ。少し、怯えてるだけ」
リアンは安堵のため息をつき、部屋の中を見渡した。
そして、その視線が、ある一点で止まる。
「……ん? あれは、なんだ?」
彼の視線の先、朽ちかけた壁に、古びた布が掛けられていた。
リアンがそれを手に取って広げると、小さな旗のようなものだったとわかった。色は褪せ、端はほつれているが、中央に刺繍された紋様だけは、やけにはっきりと残っている。
――目。
まるで、全てを見下すかのような、不気味な“目”の紋様。
「……おいおい、これはただの飾りじゃないだろ」
リアンの声から、いつもの軽さが消えていた。
「なんだか、妙な気分だ……じっと、見られてるみたいな……」
レンもレオを抱えたまま、旗の周囲を調べる。
「……蝋の跡だ。ここで、何か儀式みたいなことをしてたのかもしれない」
床には溶けた蝋が点々と残り、古びた燭台が転がっている。最近になって、誰かがここを使っていたような痕跡もあった。
「ただの廃屋じゃないな、こいつは……」
そのとき、レンの腕の中でレオが小さく震えた。
「……なにかが、見てた……ずっと……ずっと、見てるような気がしたの……」
リアンが少年の言葉に目を細め、もう一度、旗を見つめる。
「レン、この印章……偶然とは思えない。何かの組織か、それとも――」
「うん。気になるな……街に戻って、誰かに聞いてみよう」
二人は顔を見合わせた。この廃屋に漂う冷たい空気が、肌を粟立たせる。
廃屋を出る頃には、空はすっかり夜の闇に染まっていた。
レンはレオを腕にしっかりと抱え、慎重に道を引き返す。少年は安心したのか、すでに小さな寝息を立てていた。
「やれやれ、一件落着、だな」
リアンが、いつもの調子を取り戻したように笑った。
やがて「明日の栄光亭」の温かな灯りが見えてくる。扉が開くと同時に、パン屋の娘が駆け出してきた。
「レオッ!」
レンがそっと少年を手渡すと、彼女は泣きながら弟を抱きしめ、何度も礼を言った。
「ありがとうございました……! 本当に……!」
店の主人ブルノも、腕を組んで二人を見やる。
「大したもんだな、お前さんたち。あの辺りは、ちいと前から妙な噂があってな。誰もいないはずの家から、夜中に明かりが見えた、なんて話だ」
「そうだったんですか」
「ああ。見た目以上に、気味の悪い場所でした。放っておかない方がいいかもしれません」
レンは表情を引き締めて言った。
リアンも肩をすくめる。
「どうにも、ただ事じゃない雰囲気だったな。あの妙な旗……あの“目”の印も……」
「……あの印が、どうしてあんな場所に……。何かの、宗教的な意味があるんでしょうか」
「確かに。ただの飾りだとしたら、悪趣味がすぎるってもんだ」
リアンの冗談にも、今は笑いはなかった。
「これは、少しばかり調べてみる価値がありそうだな」
「ええ。せっかく掴んだ“物語の糸口”ですから」
二人は、再び顔を見合わせた。
ただの迷子探しのはずだった。だが、その裏には、もっと深く、暗い何かが潜んでいる。
そんな予感が、胸の中に渦巻いていた。
――そして、今もどこかから、“見られている”ような感覚が、まだ消えずに残っていた。




