磯島町 翻訳家との共同執筆
あれは確か一年前の話だ。秋から冬に差しかかった頃、劇団桜町の講演を見てすぐの話だ。飛鳥君達が演じていた吸血鬼退治の物語を本にするという話が持ち上げられた。現地では既に本になっているそうで、その本を翻訳して、飛鳥君やレイラ家の意見を交えて新たな本にするのだ。
残念ながら私は英語はあまり得意ではない。日本語の横文字も覚えられないくらいだ。そこで、編集室では、翻訳家の方と共同執筆する事になった。
そこで抜擢されたのは、磯崎千束さんという方だった。私や鬼門さんとは二回りも年上で、今も現役で活動を続けている。
鬼門さんは、ルカの物語が気になっているようだった。そこで私は飛鳥君達劇団桜町の話をした。すると、鬼門さんは驚いていた。
「それにしても前世の記憶って本当にあるんですかね?」
鬼門さんは飛鳥君の前世の話は嘘ではないと疑っていた。
「私にも前世の記憶というものがなければ、嘘と思ったかも知れないね。」
「え、闇先生にも前世の記憶があるのですか?」
鬼門さんは私を見て目を丸くしていた。
「あれ、言ってなかったか?」
「いえ、聞いた事はあったかもしれませんが、闇先生の周囲には衝撃的な話が多過ぎて忘れていたかもしれません。」
鬼門さんはそう言って苦笑いを浮かべた。
幼少期を死出山で暮らした私は一般的な生命の感覚というものが欠落しているらしい。本来ならば知らなくてもいいはずの生命の理の外側を感じる事がある。
もし、天の定めというものがあるならば、私に平穏な生活は許されてはいないようだ。長年の狂気から覚め、その期間に失ったものを取り戻そうとしている。だが、人ならぬものと接触し続けた結果、私は半身を別の世界に置き去りにしたのではないかと考える事がある。その半身が私にこの世界とは別の世界を見せているのだろう。
生命を危険に晒しながら小説を書き続けている。そんな感覚がする。怪奇小説家は世の中にごまんと居るが、本物の神や妖や怪に出会い、死神に助けられたのは私ぐらいのはずだ。もし、他にも同じ経験をしたのならば教えて欲しい。
私と鬼門さんは磯島町にある磯崎さんの家へ向かった。K市にある磯島町は私鉄沿線の閑静な住宅街で、この町に憧れる人も多い。私はその町を噂でしか聞いた事がなかった。磯島駅で降りた私は、山側に向かって歩いていた。
坂を登った奥地に磯崎さんの家があった。山の中でもよく目立つような立派な屋敷だった。呼び鈴を鳴らすと、中から女性が顔を出す。彼女は私よりも明らかに年上だった。だが、衰えを感じない。お年を召した方という言い回しがあるが、彼女はその言葉に相応しい佇まいだった。年を重ねて得た経験を身に纏い、気高さを感じる。
「まぁ、わざわざこんな所までお越しくださってありがとうございます。」
「あなたが磯崎千束先生ですね。私は闇深太郎の担当編集者の鬼門将と申します。」
鬼門さんは普段私にする以上に深々とお辞儀をした。
「そうなのですね。そして、あなたが闇深太郎さん…」
磯崎さんに目を向けられた私は背筋を伸ばしてこう答えた。
「ええ、そうです。闇深太郎という名は筆名で、本名は渡辺茂と申します。」
「そうなの、よろしくお願いしますね。茂さん」
「磯崎千束さんはご本名なのですか?」
「ええ、そうですわ。」
磯崎さんは私に向かって微笑むと、家の中に招き入れた。
作家として筆名、ペンネームで呼ばれるのはよくある話だ。だが、真面目な顔で『闇深太郎』の名で呼ばれるのは嬉しさよりも恥ずかしさがどうしても勝ってしまう。この名で本を書き続けているが、どうしても慣れない。
だが、今更その名を変える訳にもいかない。何故ならば、私の中に渡辺茂ではない『闇深太郎』としての人格が宿っているような気がするからだ。私の前世である圭ノ介の意思で本を書いていた。それと同じように私は『闇深太郎』として人々に言葉を伝え続けている。名前には心が宿る。作家の仕事の時は本名である渡辺茂ではなく、筆名である『闇深太郎』としてこの世界に存在しているのだ。
そうだとしても磯崎さんに涼しい顔で『闇深太郎』の名で呼ばれ続けていれば、業務に支障が出ると思った。その為、敢えて本名を名乗ったのだ。
磯崎さんは『Vampire stories』の原書を持ち出した。私は英文は読めないが、磯崎さんは読み切ったそうだ。
「私はリュウに感情移入したわ。妻のルカを置いて逃げなければならなかったリュウの気持ちがよく分かる。家族に先立されるのはもの凄く悲しい事ですからね…。」
「先立たれたご家族が居らっしゃるのですか?」
「夫と息子が居たわ。夫は早くに亡くなって、息子は独立した。今はシャロンと二人で暮らしていますわ。」
「シャロン?」
「私が飼っているペルシャ猫の名前ですわよ。」
磯崎さんの目線の先には真っ白なペルシャ猫が居た。この家で暮らしているのだろうか。私の所には寄っては来なかったが、飼い主に似た上品な猫だった。
私は磯崎さんに劇団桜町の動画を見せた。小学生がこのような演劇をするのかと感動していた。
その後、私は磯崎さんとどのような本にするのか打ち合わせをしていた。その時、磯崎さんが何かに気付いたようにこんな事を呟いた。
「貴方は若いのに落ち着いていらっしゃるわね。まるで二回目の人生を謳歌しているみたい。」
「そうですか?」
私が首を傾げると、磯崎さんは笑った。
「ええ、不思議な話ですけどね、そう感じるのですよ。」
「そうですね。ですが、人生を二回生きているというのは、あながち間違いではないような気がします。」
私は自分の前世の話を磯崎さんにした。磯崎さんはその話を本当とは思っていないようだが、私が年齢以上に落ち着いている理由がなんとなく分かったようだった。
瞬君によって狂気から目覚めたあの時、圭ノ介の魂は天上に昇ったのかと思っていた。だが、圭ノ介と私の魂は同じはずだ。それならば、圭ノ介の魂は私の中に入ったのではないだろうか。もしそうだとすれば、あの時死んだと思っていたが、本当は私の中で生きているのだろうか。狂気から覚めてしばらく経った今そんな事を考えていた。
磯崎さんとは本が完成するまで何度も話をする事にした。翻訳作業は終わっているから、後は意見を合わせて、一つのものにまとめる作業になるだろう。
別れ際に磯崎さんはこんな質問をした。
「茂さんには家族はいらっしゃるの?」
「両親は昔に先立ちました。今は妻と幼い息子と暮らしています。」
「そう、家族は大切にしてくださいね。」
磯崎さんは鬼門さんに原稿を渡すと、名残惜しそうに手を振っていた。
そして、私達は電車に乗って帰った。磯崎さんから頂いた原稿は家でゆっくり読もうか。これから忙しくなりそうだ。
「そういえば闇先生、今日は何を考えていたのですか?」
鬼門さんがそんな事を尋ねる。私は前世や筆名の話をしたとしても、鬼門さんが頭を抱えるだけだろう。
「これからこの原稿をどうしようか考えていたのだよ。」
私はそう答えると、ぼんやりと浮かんだ文章を書き留めた。まだまだ忙しい日々は続くのだろう。帰ってからはまた執筆を再開しなければならないなと思った。