青波台 山奥の古民家
秋も終わり、すっかり冷え込んでしまった。私は珍しくパソコンを開いて考え込んでいた。
「茂、何考えてるの?」
そんな私を見た志保が隣にやって来た。そして、パソコンの画面を覗く。
「大きな買い物をしようと思ってるんだが…。」
私が見ていたのは中古物件の販売仲介サイトだった。
志保にはずっと黙っていたが、家を買って引越したいと思っていた。私は近代的な空間では落ち着かない。だが、またあの志手山に戻る訳にはいかない。そこで、この近辺で古民家を探している。
「新築じゃなくていいの?」
「ああ、なるべく古い場所を探しているんだ。」
志保はパソコンの画面をじっと見つめた後、自分の携帯電話を取り出して何かを見ていた。
「そうだ、まだ売り出してはないんだけどね、この近くでそれらしき場所を見つけたんだ。」
志保が見せてきたのは青波台の山奥にある古民家だった。有名な所らしく、幾つかのサイトに情報がある。
私は静岡さんの知人の不動産屋の篠崎さんという方に電話をし、その古民家について伺った。すると、篠崎さんから、その家主が家を売却しようかどうか悩んでいるという返事があった。そこで、私は篠崎さんと、その家主と会って話をしようと思った。
篠崎さんとの顔合わせは、それからすぐだった。古民家のすぐ近くのバス停で待ち合わせをする。
私がそこに到着してすぐに、篠崎さんらしき人物が到着した。彼は若手だがやり手の営業らしい。
「初めまして。青波不動産の篠崎悠と申します。あなたは、静岡さんのお知り合いだそうですね。」
「渡辺茂と申します。本日はわざわざありがとうございます。」
「いえ、それにしてもあなたの歳で古民家を探しているだなんて珍しいですね。」
志保と同じ事を言われた。やはり、私のような物好きは珍しいのだろう。若ければなるべく都会に住みたいと考えるのが妥当なのだろうか。私はそちらの方が不思議に思う。
篠崎さんに案内され、私はその古民家に到着した。間近で見ると、昔住んでいた祖父母の家によく似ている。
「こちらの家主さんはどのような人なのですか?」
「幼い頃からこちらに住んでいたそうです。その方は家を継いだ後、妻と息子と暮らしていたそうですが、息子は巣立ち、妻は病で先立ちました。今は一人でお住まいのようですが、息子夫婦に一緒に暮らすよう提案をされているらしく、家を手放そうと考えているようです。」
この広い家で一人だと心細いだろうなと私は思った。息子夫婦もそれを分かっているのだろう。
篠崎さんは玄関の呼び鈴を鳴らした。すると、中から家主と思われる人物が顔を出す。彼は老紳士で、茶色のベストを着込んでいた。私はその人に覚えがあった。確か、ペンクリニックの時に話し掛けてくれた方だ。
「あなたは、あの時の…!」
向こうも私を覚えているようで、私の顔を見て驚いていた。そして、笑って私達を家の中に招き入れた。
彼は菊本武雄と名乗った。彼は貿易商社の元役人で、それがきっかけで舶来品の万年筆やアンティークグッズを集めている。家の中にはそれと思われる物品が飾られてある。ところが、菊本さんはそれを手放そうと考えているようだ。そこで、骨董屋等様々な方と話しているようだが、未だに売ってはいない。
「変な言い方ですが、生物というのは産まれた時も死んだ時も、皆平等に裸の状態なのですよ。この世でどんなに巨万の富を築いたとしても死んだら自分の手には残らない。」
そんな事を言っている菊本さんだが、やはりこれは自分のものだと強く思っているそうだ。だが、このコレクションも、死んだら自分のものではなくなる。それを分かっているはずなのに、何故手放せないのだろう。
私は目の前の絵皿を見た。これはどれ程の価値があるものだろうか、私には図り知れない。その他のものもきっと貴重なものだろう。
恐らくだが、菊本さんは自身のものを手放そうとしているのだ。今は未練があって迷っているが、それが晴れた時家と共に手放すつもりなのだろう。
私は家の中をじっくり見て回った。古い家で祖父母の家によく似ていた。ところが、広い家を一人で掃除しきれないようで、幾つかの部分に埃が溜まっていた。
「やはり、まだ売却についてはお考えではないでしょうか…?」
篠崎さんがそう聞くと菊本さんは頷いていた。その様子だと何度も聞いているようだった。
私は、菊本さんと連絡先を交換して、篠崎さんと家を出た。
「良い家だったんだがね、手放すかどうか分からないからね…。」
「ええ、そうですね…。」
篠崎さんは菊本さんと何度も交渉しているようだが、菊本さんは家を売る決断が出来ないようだ。それなら無理して勧める事はしないが、一度売却すると言った以上営業として引き下がれないようだ。
「もう少し交渉を続けてみようと思います。」
篠崎さんはそう言って私と別れた。
それから程なくして菊本さんから電話があった。一緒にご飯を食べに行こうというお誘いだった。店名は、『料亭打潮』という高級料亭で、行くのは初めてだった。
私は、和装で行くか洋装で行くか悩み、結局正装に近い洋装で行く事にした。そして、青波駅で待ち合わせをして、菊本さんと一緒に中に入った。
そして、菊本さんは懐石料理を二人分注文した。
「現役の頃はよくここで打ち合わせていたんだかね。」
「ええ、そうなんですね。」
こういう場所は敷居が高く妙に落ち着かない。そして、出される料理は芸術作品のようで、どうやって食べれば良いのだろうか。私は戸惑ったが、目の前の菊本さんを見ながら食べ始めた。どれも初めて口にするもので上品な味がある。
私は菊本さんと話そうとしたが、何を話せば良いのか分からない。そんな時、菊本さんの方から話を始めた。
「ペンクリニックの時に思ったのだが、若いのに万年筆を興味を持ったのは何故だね?」
「祖母から受け継いだのがきっかけです。今は趣味もそうですが、商売道具として使っています。」
「ああ、そういえばこの前もそんな事を言ってたな。」
「今はパソコンで執筆する作家さんが多いそうですが、私はアナログにこだわっているんですがね。」
私は鞄の中から自分の本を見せた。それは、『虚像』というタイトルの短編集で、祖父のカメラや心霊写真の話を中心に集めている。
「『怪奇小説家闇深太郎』、何処かで聞いた事があるような気がするよ。それが君なんだね。そうだ、この料亭は著名人がよく訪れるらしい。良かったらサインをしてきたらいいよ。」
「ええ、それではお言葉に甘えて。」
私は、店員さんに手渡された色紙にサインをした。だが、ここに来るような客が私を知っているのだろうか。
「そうだ、これを貰ってほしい。」
そう言って手渡されたのは、舶来品の万年筆だった。恐らくだが、今持っているどの万年筆よりも高価なものだろう。
「こんな貴重なもの頂けませんよ。」
「いいや、君に貰ってほしいんだ。それに、古いものを大切にする君ならあの家も大切にしてくれるだろうな。」
菊本さんは立ち上がって私にこう言った。
「ありがとう、君のお陰であの家を手放す勇気が出たよ。それと、家族は大切にしなよ、茂君。」
菊本さんは最後にう言った後、帰ってしまった。
その後、しばらく経って篠崎さんから連絡があった。それは、菊本さんがあの家を売る決断をしたという事だ。私は、迷わずその家を買う事にした。
だが、今すぐに住める訳ではない。菊本さんの身辺整理や家の改築が必要なようで、私が住み始めるのは来年の梅雨くらいになりそうだ。
「でも、渡辺さんあの家かなり気に召されてましたのに、手を加えて良かったですか?」
「いいや、綺麗にしてもらった方がありがたいよ。文化財と呼ばれる建物も建ててそのままならばその原型を保てない。人が造ったものは時折人の手を加えなければならないと思いますよ。」
私はそう言って電話を置いた。これから、私もゆっくり引越し準備をしようか。それと、志保と優太にもその家の話をしよう。私はそう思いながら自分の部屋に戻った。