九泉岳 怪が棲む山
秋も深まり、北風が吹き込んできた。私は、小説の執筆を進めながら、ある事を調べていた。
それは、O県K市にある『九泉岳町』という町だ。“九泉”というのは幾重にも重なる地の底、転じて黄泉、冥界の異名とされているのだ。英語で冥界を“Underworld”と呼ぶように、冥界を地下の世界とする考えは各地に存在する。
以前、私は小説内で、冥界を天上の世界と称した事がある。魂が天に昇るといわれるように、死後の世界は空高く、更には宇宙にあるという考えもある。
死んだ魂が行き着くこの世ならざる場所は何処にあるのだろうか。少なくとも、この世界をどう探しても見つけ出すのは叶わないだろう。
私は九泉岳について何が気になっているのか、それは何故この山に“九泉”という冥界の異名が名付けられているのかだ。思えば私達の故郷である志手山町も、世間には漢字が変えられているだけで、本来は『死出山町』だ。この町がかなり特殊で、この世とあの世の狭間である影響で、日常茶飯事のように人やその他の動植物が死んでいた。ひょっとして、この志手山町のような町が他にもあるのかもしれない。
私がそうして九泉岳についてインターネットや本で調べていると、ある人を見つけた。彼は九泉岳に住む大学生で、音楽の勉強の傍らで、故郷について調べているのだそうだ。私がその方に連絡すると、快く返事をしてくれた。そこで、私は編集の鬼門さんと共に九泉岳町に向かった。
青波台から九泉岳に行くには、ローカル線を乗り継いで県境を跨ぐ必要がある。今まで行ったどの町よりも長い旅路だ。
「闇先生の話を聞いて、僕も九泉岳について調べてみました。どうやら、世間には報道されていない行方不明者が多数存在しているようです。その噂から心霊スポットとして人気なのですが、行方知らずになってからこの山から帰って来た者は一人も居ないそうです。それならば遺体が山に残されてもおかしくはないはずですが、それすらも見つからない。いわく付きの場所として地元からは恐れられています。」
私は鬼門さんがここまで九泉岳について 調べているのに驚いた。
「へぇ、よく調べられているね。」
「それにしても闇先生は命知らずですね。」
「多少命懸けでないと怪奇小説家としてやっていけないからね。」
「僕は嫌ですよ。先生と違って独り身ですけど、死にたくありません。」
「まぁ、普通はそうだろうね…」
私は、車窓をカメラに収めながら、鬼門さんの話を聞いていた。
そして、電車は九泉岳駅に辿り着いた。私はそこに降りて町役場に向かう。
そこで待っていたのが九泉岳を調べている大学生だった。彼はインターネットの中で匿名で九泉岳の情報を集めたサイトを運営している。また、無断で山に入る所謂心霊マニア達に注意を促す役割も果たしていた。
「実際に会うのは初めてですね。僕は有年拓人と申します。」
有年さんは、私達に向かって深々とお辞儀をした。
「それにしても、有年って珍しい名前ですね。」
「有るに年月の年と書いて有年。かつては地名だったんです。」
有年さんは私達にこう話していた。
「九泉岳は心霊スポットとして界隈では有名です。ですが、軽い気持ちでこの山に近づいてはいけません。」
「それは、どうしてでしょうか…」
「何故かというと、怪物が居るからです。これは決して比喩ではない。本物の怪物がこの山に潜んでいるのです。」
有年さんは怪物が当たり前に存在しているかのようにそう断言していた。それだけで心霊マニアが遠ざかるとは思えないのだが、何故そう言い切れるのだろう。
「怪物が居るってどうして分かるんだい?」
「僕がこの目で見たからです。幼い頃に僕はこの山で迷子になりました。その時にこの世のものとは思えないものを見ました。巨大な爬虫類のようですが、恐ろしい形相でした。あれは僕を確実に殺そうとしていた。僕は必死に逃げて助かりましたが、あれで死んだ方も多いだろうと思い、それから調べ続けているのです。」
それから、有年さんは九泉岳について研究しているそうだ。
九泉岳は昔から怪物が存在し、人々の生活を脅かしていた。
そこでその中でも強い十三体の怪物を社に封じ、九泉神社の『十三の扉』と呼ばれるようになったそうだ。
「九泉神社まででしたら結界があるんで大丈夫だとは思います。まぁ、その結界も気休め程度のものなんですがね…」
有年さんはそう言うと私達を神社まで案内した。神社は山の中にあるのか、私達は山道を歩いていく。
この世界の妖怪変化は、妖と怪に分けられると昔本で読んだ事がある。妖は生物達の魂や感情、それに人間が生み出した伝承が組み合わさった事によって形成された存在だ。妖の特徴は、その存在にこの世界や人間が関わっている事だ。また、定着した妖は子孫を残している。崇君の一族のように半妖と呼ばれる人間と妖の間の子が生まれる事がある。
一方、怪についてはよく分かっていない。伝承にある竜や鬼も怪の一種とされているが、どのように産まれたのか、また何処に居るのかは謎に包まれている。一説によるとこの世界とは異なる世界の生物であるとされている。
妖と怪、どちらにしても太古より人間を襲い続け、伝承という形で各地で語られていた。現代では認知する者も少なくなったが、影響は少なからず受けている。
私は先程妖と怪に分けられると言った。もちろん、妖の特徴を持つ怪も居ればその逆もある。二つに分けずに妖怪と引っ括めて考える人も居る。
有年さんの話を聞く所によると、この山に棲むのは怪だ。事実、それを目撃した有年さんはこの世のものではないような気がしたと言った。ここからは私の憶測でしかないが、死出山にあの世への境目があるように、この九泉岳にも怪が居る世界の境目があるのだろうか。
しばらく歩いていると、私達は神社に辿り着いた。そこは、血を被ったように赤黒い鳥居が並び、祭殿と思われる建物の『十三の扉』から禍々しい気配が漏れている。とてもじゃないが、神社とは思えない程に気味が悪かった。
「神社って何かを鎮める為に造られたっていう話もありますよね。」
「ええ、この九泉神社の場合は怪を封じる為ですかね…。」
私はこの神社から発する空気に吐き気がした。それに、目眩が止まらない。
「随分と気味が悪いな。なるべく近づきたくはない…。」
「闇先生がそんな事をおっしゃるなんて珍しいですね。普段ならこういう場所でも平気そうですのに。」
確かに私はよくある心霊スポットに行くのは平気だ。死出山も不気味な場所ではあった。そこで亡くなる人も多く、とても安全と言える場所ではなかったが、私は平気だった。
狂気から覚めてから、私は霊や妖の存在を視るようになったが、そこで危険を感じた事はなかった。大抵のものは、私の姿を見るとすぐに逃げてしまうからだ。恐らく、私に残る圭ノ介の気配に気づいて寄り付かないのだろう。いろは君や晦君のように私に寄り付くものも居るのだが、その二人は人間に友好的でかつ力が強かった。
だが、今回感じている気配は何かが違う。この世界のものではない、異質なものだ。
「二人は平気なのか…?」
体調を崩した私の横で、鬼門さんと有年さんは平然としていた。やはり、気配を感したのは私だけなのだろうか。
参拝を済ませた後、私達は山道を降りた。その時だった。突然私に何かが巻きついて来た。口も塞がり声が出ない。私はそれに引きずり込まれてしまう。
「闇先生!消えた…?!」
鬼門さんがそう叫ぶのが聞こえた。私は助けを求めようとしたが出来なかった。そして、山奥へ連れて行かれてしまう。
私が目を覚ますと、神社の更に奥へ連れて行かれていた。目の前には得体の知れない異形の存在が私を囲んでいる。それは明らかにこの世のものとは思えなかった。
この世界に蔓延る存在、怪。彼らは正しくそうとしか言ようがなかった。有年さんが目撃したのもそれだろうか。
私は彼らを前に身震いがした。今すぐ逃げなければならない。だが、体調が悪くすぐに逃げる事が出来ない。
「ここから出してくれないか…?」
私の声を聞いてその怪は振り向いた。それは巨大な爬虫類のようだった。だが、目は血のように赤く、眼光は鋭かった。
『駄目だ。我らが喰うまで出てはいけない。』
怪はそう人の言葉で言った。どうやら、私を攫った怪達は自我があり、知能も高いようだった。
『人間なのに妖の気配がする。忌々しい。』
先程話していた怪とは別の怪がそう言った。その怪は異形としか言いようがない姿をしており、身体からは無数の触手が生えていた。私を攫ったのはこの怪だとすぐに分かった。
『待て、奴には才能がある。この人間なら怪と化しても意識を保つだろう。そして、怪として強くなれる。』
別の怪が二つの怪を宥めて私を無数の目玉で見つめた。
『我らの仲間になるか、それともこの場で喰われるか、どちらか選べ。』
私は、怪達に恐れを見せないように、拳を握って立ち上がった。
「嫌だね。どちらにもなりたくないよ。確かに昔の私ならその誘いに乗って怪になったかもしれない。だが、今の私は首の皮一枚この人間の世界と繋がっているんだ。私の存在を待っている人が居るんだ。それに、私もまだまだこの世界でやりたい事が残っているんでね、今すぐ人間を辞めるつもりはないよ。」
私のその言葉を聞いて目玉の怪は激昂した。
「己…、我の誘いを断わろうというのか、人間の分際で!」
その目玉の怪は私を飲み込もうとした。流石にもう駄目かと思った。
その時だった。突然空気が熱くなったと思うと、空から斬撃と共に誰かが降ってきた。その人物は大鎌を持ち、顔を黒い骸骨の仮面で隠していた。あの人は、伝承に聞く死神なのだろうか。それにしても何故、今私の目の前に現れたのだろう。
「ここまでよく頑張ったな。」
そして、その死神は一瞬にして怪達を斬りつけると、怪は消えてしまった。
「君が死神なら、私を殺しに来たのか?」
死神は首を振ると、私に歩み寄ってきた。
「いや、助けに来たんだ。この辺りは怪が多いからな。それに、俺は人間を助けるのも死神の役目だと思っている。」
その死神は溌剌とした青年の声でそう話した。怪がこの世界に存在するように、死神もこの世界に存在するのだろうか。にわかに信じ難い話だが、今まで数奇な運命を辿ってきた私は、この状況をどうにか受け入れる事が出来た。
私はその死神にお礼を言おうとしたが、先程の吐き気と目眩が収まらず、その場に疼くまった。すると、私の容態が悪いのに気付いたのか、その死神は、ポケットから水筒を取り出して、中身を私に注いだ。
「三途の川の水で淹れたお茶だ。解毒作用がある。最も、人間に効くかどうかは分からないが…。」
話を聞くだけでは恐ろしい代物だった。三途の川というのは、この世とあの世の狭間に流れていると言われる川だ。その水を汲めるという事は、やはり彼は本物の死神だろう。助けてもらったとはいえ、死神が私を殺そうとしているという疑惑は晴れなかった。私を騙してあの世へ連れて行こうとしているのかもしれない。
だが、そのお茶は何処か懐かしい良い匂いがした。そして私はそれをいつの間にか飲み干していた。すると、先程まで止まらなかった吐き気と目眩が収まっている。
「ありがとう…、お陰で治ったよ。」
死神は水筒を仕舞うと、山道を降りていった。
「出口はこっちだ、案内しよう。」
私はその後ろを走った。死神はずっと仮面を着けていた。その状態でよく走れるな。それとも、私が仮面と思っているそれは本当の顔だったりするのだろうか。
死神は麓のすぐ近くまで案内してくれた。
「ここまで来れば大丈夫だ。」
「そうか、私を助けてくれてありがとう。」
私は礼を言うと町まで行こうとした。すると、死神が私を呼び止める。
「待ってくれ、君の名前を聞いておきたい。」
私は振り向いてこう答えた。
「渡辺茂、怪奇小説家だ。」
「茂、そうか…、覚えておくよ。いつか俺か、仲間が迎えに来る。それまで機会を誤るんじゃないぞ。」
死神はそう言うと姿を消してしまった。
私が麓の町まで降りると、有年さんと鬼門さんが先に着いていた。二人は、帰ってきた私を見て驚いている。
「闇先生?!戻って来れましたか?!」
「ああ、なんとかね…。」
「驚きました。まさか怪に攫われた後に戻って来られたなんて…。もし、闇先生が行方不明になってしまったら、神社まで案内した僕のせいになってしまうんじゃないかと思ったら怖くなってしまって…。無事で良かったです。」
有年さんは涙を浮かべながらそう言っていた。戻って来る人が余程少ないのだろうか。
「死神が助けてくれたんだ。」
「え、死神が?何を言ってるのでしょうか?」
私は先程までの出来事を伝えた。だが、二人を含めて誰もそれを信じてくれなかった。
それから私と鬼門さんは、有年さんと別れて九泉岳を離れた。そして、電車の中で今日の事をまとめた後、鬼門さんと別れて家に帰った。
思えば私は幸運だったのだろうか。もしあの死神が助けてくれなければ、私はあの山から帰るどころか、命がどうなっていたのかも分からない。 それから、死神について調べてみたものの、有力な情報は得られなかった。
それから、心残りがもう一つある。それは、死神に貰ったあのお茶がまた飲みたいと思った事だ。だが、三途の川の水なんてものは手に入らず途方に暮れた。また、お茶屋に通ってありとあらゆる種類を買っては飲んだが、それというものは見つからなかった。やはりあのお茶が特別だったのか、それとも私自身が特異な状態だったのだろうか。
だが、お茶探しををして良かった事が二つある。それは、自分で美味しいお茶を淹れられるようになったのと、自分や志保の好きなお茶の種類が分かった事だ。