青崎湾 狂気に堕ちた画家
私は長い夏の暑さの中で執筆を続けていた。文机の横には新しく買ったデジタル一眼レフカメラがある。元々祖父のフィルムの一眼レフカメラを使っていたのだが、志保や編集部の人がデジタルが良いと押してきた為、買ったのだ。デジタル機器には慣れないが、撮った写真をすぐに見れる事と、編集時にパソコンに取り込められるのが便利だとは思う。
そんな事を考えていた時だった。玄関のチャイムが鳴った。扉を開けると、そこには担当編集の鬼門さんが立っている。
鬼門将さんは私よりも年上で、少々変わりものだが編集部の中では敏腕編集者だそうだ。私が慣れ慣れしく話しても、それを厭わない。狂気に陥っていた頃は感じなかったが、今では担当が鬼門さんで本当に良かったと感じる。
「先生、引っ越したなら早めに教えてくださいよ!」
「すまないね、鬼門さん」
鬼門さんは、私の横にある座布団に座って、鞄を開いた。
「まさか青波台にお住まいになっていたとは驚きました。まぁ、志手山は不便でしたし、良かったと言えばいいのでしょうか…。」
鬼門さんは、私から原稿を受け取った。そしてそれを鞄に入れようとした時、机にあった写真に気付いた。
「ところで闇先生、写真の子供はどなたなんですか?」
「ああ、私の息子の優太だよ。どうやら私はその存在を一年以上知らなかったようだ。今は可愛いがってるよ。」
「一年間も自分の子供を知らなかったなんて、何やってるんですか…」
「色々深い事情があってな…」
鬼門さんは、信じられないというような目で私を見ると、別の鞄から手紙の束を取り出した。
「今日も先生に向けたお手紙が届いてますよ。その中に闇先生にどうしても会いたいという方が居るんです。」
鬼門さんはそう言ってその束から封筒を一つ取り出した。
「えっと、静岡圭さん、青崎町で活動している画家ですね。」
「青崎町って、青崎湾にある町かね?」
「ご存じなんですか?」
「ああ、ある民話が有名でいつか行きたいと思っていたところなんだ。」
「それを調べる為にも、静岡さんに会う為にも青崎湾に行きましょう。」
そうと決まると鬼門さんは家から出てしまった。私はその手紙を読んだ。そこには、私の小説を読んだ事。私が良ければ一緒に仕事がしたいという趣旨の話が書いてあった。
その週の中頃、私は鬼門さんと一緒に電車に乗って青崎湾へ向かった。鬼門さんと二人でこうして出掛けるのは初めてだった。
「すまないね、鬼門さん、一緒に出掛ける事になってしまって。」
「いえ、闇先生とこうして旅するのを楽しみにしてましたよ。」
私は手帳と万年筆、それからカメラを持って来ていた。それにしても、私に会いたいと言う静岡さんはどんな人なんだろうか。調べてはみたのだが、詳しくは書いてなかった。
「ところで先生、青崎湾の民話って何ですか?」
「『海神の森』という話だよ。この海はかつて妖に支配されていたんだ。」
『海神の森』というのは、神無村と呼ばれていた頃の青崎町の話だ。魚姫という妖がこの海と村を支配していた。人々はある一族を生贄にして、海の平和を保っていた。
村は閉ざされ、人々は外の様子を知らなかった。また、外の者は有無を言わさず処刑され、生贄にされていた。
そんな村に旅人と姫と侍が現れ、侍が魚姫を退治した。そして、旅人と姫が町を造り、今の青崎町になったそうだ。
私は、それを伝えると、鬼門さんは携帯電話の画面を見ながら頷いた。
「妖の話は全国各地にありますね。」
「ああ、だから怪奇小説家として死出山以外にも全国各地の物語を記し伝えたいんだ。」
「先生、もうすぐ駅に着きますよ。」
電車は、ようやく青崎駅に辿り着いた。私達はそこに降りて、手紙の地図にあった静岡さんのアトリエへ向かう。
そのアトリエは崖の上にあった。話によるとレストランを改築した建物だそうだ。中に入ると、レストランだった頃の造りがそのまま残っている。
すると中から男性が現れた。私達よりも年上に見えたその男性は、私を見て深々とお辞儀をした。
「こんにちは、あなたが闇深太郎先生ですね。」
男性は顔を上げてこう言った。
「初めまして、僕は画家の静岡圭と申します。」
すると私の前に鬼門さんが立ち、名刺を取り出した。
「こちらこそ初めまして、闇深太郎の担当編集の鬼門将と申します!」
「ありがとうございます、頂戴致します。」
静岡さんは名刺を受け取り、私を見た。
「お会い出来て光栄です。長旅でお疲れでしょう、ゆっくりしてください。」
私達は鞄を置いてアトリエを見て回った。
「レストランをそのまま使ってるんですね」
「ええ、知り合いを介して譲り受けたんです。」
アトリエには、静岡さんの絵が至る所に飾られていた。青崎湾の風景画や、抽象画が多かった。画廊も兼ねているのか、値札が貼られているものもある。
中でも素晴らしいと思ったのは、風景画に混じってあった人物画だった。それには少年が描かれている。だが、売り物ではないのか値札は貼られていない。
「あの子は一体…」
「息子の智樹です。“あの時”から智樹の成長を絵に残そうと心に決めているんです。」
「“あの時”って…?」
「闇先生の『風見の少年』に出てきた青年のように、僕も大切な存在を失って狂気に陥っていました。その時は周りが見えてなくて、息子の事も忘れていました。だから、この話を書いた闇先生なら、僕の無念や後悔を理解してくれるんじゃないかって思いまして…。」
驚いた。まさか私と同じように狂気に陥った者が居たとは。俄には信じ難いが、私は静岡さんの気持ちが手に取るように伝わる。
「静岡さんの気持ち、分かりますよ。あの狂気に陥っていた青年は私の事ですから。」
私の言葉を聞いて、静岡さんは安心していた。
「そんな闇先生にお願いがあります。僕と一緒に『海神の森』の本を書いて頂けませんか?」
「静岡さんと一緒に、ですか…?」
「僕はずっとその物語をテーマに絵を描いています。それが九条家、九条ホテルの経営者の目に留まって、是非それをまとめて絵本にしたいとおっしゃっていました。ですが、僕には文才がありません。そこで、闇先生に絵本の文章をお願いしたいのです。資金に関しては九条家が工面してくださるので、ご心配なさらず。」
私は、絵本を造るのは初めてだった。どういうものを書けば良いのか分からない。だが、会って間もないが、静岡さんとは充実した仕事が出来るような気がする。
私が喜んでと答えようとした時、隣の鬼門さんは頭を抱えていた。
「九条家が関わっていらっしゃるとは、編集長や上部に相談しないと…」
「丁度今、美術館にご夫妻がいらしています。お会いしますか?」
「ええ、お目に掛かりたいです。」
私がそう答えると、鬼門さんは大層慌てていた。
「九条家って、そんなに凄いのかね?」
「何をおっしゃるのですか!九条家はリゾートホテルや美術館を経営している社長一族ですよ!」
「そうだったのか、確か『海神の森』にもその名が出ていたな。」
鬼門さんは慌てて身だしなみを整えていた。そして、鞄を持って出ようとする。
その時、アトリエの扉が開いて中から小学生らしき少年が入ってきた。
「お父さん、またアトリエ借りていい?」
「ああ、構わないよ。」
この少年は、静岡さんの息子の智樹君だろうか。彼は画材を持ち込んでいた。
「僕を助けてくれたのは智樹でした。あの子が居なければどうなっていたか…」
静岡さんは鞄を持って扉を開ける。
「それでは、美術館に行きましょうか。智樹、父さんはお客さんと美術館に行くから、しばらくお留守番頼むよ。」
「うん、いってらっしゃい。」
私達は、静岡さんと一緒に青崎町にある美術館に向かった。
青崎町は、絶景を見る為に昔から芸術家が集まっていた。大正時代にはある有名な画家がこの町で生まれ育ったそうだ。この町を開発していた九条家は、そんな芸術家達の為に美術館を建築し、作品を展示した。静岡さんの作品の一部もそこにあるそうだ。
「ひとつが『キョウソウ』、もうひとつが『目覚めた夢』、両方僕が描いた抽象画、作品ですよ。」
『キョウソウ』は漢字で書くとするなら“狂想”だろうか。狂気に陥った心を絵にしたのならばこうなるのだろうか。絵は赤黒くて禍々しい。
もう一つの『目覚めた夢』というのは狂気から覚めたばかりの心境のようだ。きらめく光に満ちながらもどこか影を落としている。
「あの青年が言っていた『本』のようなものでしょうか。他の全てを投げ打ってでも完成させたかったもの。僕はそれを完成させてしまいました。智樹によればその時の僕は廃人のようになっていたそうです。」
静岡さんは自分の作品を見ながら私にそう語った。
「あの時は後悔しました。今まで描いた作品を破り捨てて絵の道を絶とうかと悩みました。それでも僕は絵を描くのを止められませんでした。まだまだ 描きたいものはある。智樹や由紀、それから関わりがある人達は絵を描く僕を認めてくださっている。それならその想いに応えるべく絵を描き続けたい。闇先生もきっと、同じ事を思っていたのではないでしょうか…。」
「ああ、そうだね…。」
静岡さんは私と同じように、人との繋がりを意識したのだろうか。私もそうだ。私の場合は人々の物語を記し伝える事しか出来ないが、それで世界と繋がれるのならば、自分が出来る事をやり続けたい。
すると、私達の前に三人が現れた。どの方も背筋が伸びていて、派手ではないが気品ある佇まいだ。
「こんにちは、よくぞお越しくださいましたね。」
その三人というのは、館長さんと、九条夫妻らしき若い夫婦だった。
「初めまして。文芸館の編集者で闇深太郎の担当者の鬼門将と申します。」
鬼門さんは私が名乗る前に名乗り、三人に名刺を渡してしまった。そして私の方を向かずに話込んでいる。
鬼門さんが落ち着いた時、私はようやく三人と話す事が出来た。美術館長は飯塚直也、九条夫妻はそれぞれ九条紀夫と奥さんは蘭子と名乗った。夫妻は九条ホテルの経営を先代から任されているそうで、三十代という若社長でありながらやり手だと噂されていた。
「静岡先生さんから話は伺っております。私達からも、『海神の森』の書籍化をお願いいたします。」
紀夫さんは大企業の社長とは思えない程に私に向かって深々とお辞儀をした。
「『海神の森』は私達九条家にとって大切な物語です。私はそれをパンフレットにして海神神社の歴史と共に伝えていましたが、それだけではいけないと思いました。そこで、青崎町で活動されている画家の静岡圭先生と共に絵本を作成して出版しようと計画したのです。」
紀夫さんは私の目を見て、こう言った。
「静岡先生が闇深太郎先生をご要望でしたら、私からもお願いします。金持ちの道楽だと言えばそれまでなのでしょうが、それでも私はこの物語を後世に伝えたいのです。」
九条夫妻がそう頭を下げるのを見て、鬼門さんは話をしづらそうだった。そこで、私は今思った事をそのまま夫妻に伝えた。
「分かりました。ご期待に応えられるかどうかは分かりませんが、『海神の森』の物語は興味があります。絵本の本文を書くのは初めてですが、必ずやり遂げて見せます。」
「闇先生、ありがとうございます!」
九条夫妻と静岡さんは、私が『海神の森』の本文を書くのを知るととても喜んでいた。
その後、私達は館長と別れて九条夫妻と美術館を出た。そして、海神神社に向かう。そここそが『海神の森』に登場する魚姫が祀られている神社だったのだ。私はそこの写真を撮って、お参りした。
物語は知っていたが、それに登場したものが実際にある。その事実だけで湧き上がってくる何かがある。私は物語だけでなく、今目にしている景色と耳にしている波音も書きたいと思ったのだ。
そして、海辺の洞穴と九条家の墓地に行って後、九条夫妻と別れて、アトリエに戻ってきた。アトリエでは、智樹君が今も絵を描いている。
静岡さんは、私達をレストランの一等席だった所に座らせた。私は、先程まで気になっていた事を聞く事にした。
「ありがとうございます。ところで、静岡さんは本名で活動されているのですか?」
「ええ、そうですよ。時々『Kei』というローマ字表記で活動する時もありますがね。闇先生のご本名は何でしょうか?」
「渡辺茂ですよ。最も、その名は世間には知られていないですがね。」
「“名は体を表す”という言葉通り、その名前の方が先生らしい気がします。」
私から聞いたとはいえ、何を意図して私の名前を聞いたのかは分からないが、名前を褒められたのは嬉しかった。
すると、アトリエで絵を描いていたはずの智樹君がこちらへやって来た。手には私が書いた本を持っている。
「お父さん、闇先生が来てるって本当なの?」
「ああ、そうだよ。この本にサインしようか?」
「やった!ありがとうございます!」
「良かったね、智樹」
智樹君が喜ぶ顔を見ながら私達は立ち上がった。
「本日はありがとうございました。良かったらこちら貰ってくださいませんか?」
そう言って静岡さんが渡した紙袋の中には額縁に入った風景画があった。
「ありがとうございます。ですがタダで貰って大丈夫ですか?買い取りましょうか?」
「いえ、あなたに貰って欲しいのです。この絵は僕が最初に描いた『海神の森』で、絵本には載せないつもりなのですが、先生の執筆の参考になればと思います。」
私はその紙袋を受け取り、お辞儀をした。
「それでは何かありましたら私か編集室までお願いします。」
鬼門さんは静岡さんと連絡先を交換していた。
「本日はありがとうごさいました。またいつでもお待ちしております。」
私達は静岡さんに別れを告げて、アトリエを出いった。
そして、青波台へ戻る前に、駅前の小さな喫茶店に立ち寄った。鬼門さんはそこでパソコンと携帯電話を取り出して、何やら忙しくしている。それを見かねて私は、鬼門さんの分の昼食を注文した。
目の前にアイスコーヒーが置かれると、鬼門さんはようやく画面から目を離した。
「このアイスコーヒー、ダッチコーヒーですね」
「ダッチコーヒー?」
「水出しコーヒーの事ですよ。カウンターにガラスの抽出器がありました。」
鬼門さんが指差した方を見ると、確かに抽出器らしきものが置かれている。それはガラス製で、実験器具のような風貌だった。
「コーヒーに詳しいのかね?」
「学生時代に喫茶店でアルバイトをしていました。そこでマスターに教えられていたんです。喫茶浜風という店で、今はマスターの息子夫婦が経営していますね。」
鬼門さんは、目の前に置かれたサンドウィッチを頬張りながら、携帯電話を操作している。私は、アイスカフェオレを飲みながらそれを見ていた。そして、鬼門さんが見せた画面には、浜崎町にある喫茶浜風の写真がかる。確か、雑誌で紹介されていて、志保が行きたがっていた。
「今はそこで仕事をする時があります。マスターは腰を悪くしてしまっているのですが、僕に会う度に自分の子供と会うように喜んでくださっています。」
私は鬼門さんの話を聞きながら、サンドウィッチを食べていた。鬼門さんは瞳を輝かせながら喫茶浜風の話をしている。そんなに良い店ならば今度志保と一緒に行こうかと思った。
そして、サンドウィッチを食べ終わった私達は席を立ってレジへ向かおうとした。
「ご馳走様です。僕の分までご用意してくださって、すみませんね。お金は僕が払いますね。」
「いえ、こちらこそ勝手に注文して悪かったね。私が払うよ。」
「先生の奢りなんて悪いですよ!」
先程食べたサンドウィッチの味よりもお金の事を気にしている鬼門さんを見ながら、私は二人分の料金を払った。
その後、私達は電車に乗って青波台に戻っていった。
「これから、忙しくなりそうですね。」
「ああ、でも楽しくなりそうだよ。」
万年筆で今日あった出来事をメモしている私を見ながら鬼門さんは呟く。
「僕は、時々闇先生が羨ましく思う事があります。僕よりも年下なのに落ち着いていて、人生を達観している。僕はいつも目の前の事に必死で、先生のようには出来ません。」
鬼門さんは、私のようになりたいと言うのだ。残念ながら私は、人が羨むような輝かしい日々を送って来た訳ではない。今でこそ私は作家として活動している訳だが、かつての私は幾つもの死線を潜り、屍を超えた。自分の大切なものを見失った時もあった。
そうして私は今の境地に至ったが、それを他の人に勧めはしない。
「鬼門さんは鬼門さんのままでいいんだよ。それに、私は鬼門さんが羨ましいと思うがね。」
「どうしてですか?」
「私はそうまともな人生を送ってはないからね。」
「そうですか…」
鬼門さんは私の目をじっと見つめていた。
「闇先生の目は綺麗ですね。前髪が長かった頃は気がつきませんでしたが、闇先生は少年の心を今も持っているようです。」
「そうかな?」
私には自覚はなかったが、鬼門さんには、私が今も少年の心を宿しているというのだ。
私は手帳を閉じて、紙袋の絵を鬼門さんに見た。
「この絵は真海君にも見せようかな。喜びそうだ。」
「真海君って?」
「私の知り合いの女子高生だよ。絵の勉強をしているんだ。」
私は背筋を伸ばして鬼門さんを見た。
「この仕事は本名でやろうかな。」
「そうなのですか?ですが、闇深太郎の方が名が知れてると思うのですが。」
「この話は闇深太郎としてではなく、怪奇小説家渡辺茂としてやりたいと思ったんだ。」
私は、車窓を眺めていた。帰ってからはまた執筆の日々だ。これからどうしようか。青波台に着くまでの間、私は小説の本文の事ばかり考えていた。