潮見台 思い出の万年筆
狂気から覚めてしばらくの間は、夢を見ているようだった。幻想と現実の境目に溺れ、自身の感情が安定するのに一週間は掛かったと思う。仕事ではあるはずの小説も、その間は一筆も進まなかった。
そんな一週間が終わり、私は再び筆を進めようとした時、書斎の扉が開いた。
「そうだ、気晴らしに出掛けない?」
妻の志保がそう言って私に見せたのは、K市にある文房具店だった。
「茂に買った万年筆が売ってたお店なの。そこで、万年筆のメンテナンスをやってるから、それを申し込んでみたの。」
祖母の形見の万年筆は、志保が洗って、新しくインクが詰められていた。それのお陰なのか、前よりも使いやすくなっていた。
「私もこの万年筆使えないかなって思って色々試したんだけど、やっぱりプロに見てもらった方が早いかなって。」
そういえば、私のと一緒に志保も万年筆を買っていた。今まで、使い方を知らなかったはずだが、覚えたのだろうか。
翌日、私は志保と息子の優太と一緒に出掛けた。家族で出掛けるのは久々だった。
K市浜崎町潮見台、青波台とは比べものにならない程の大都会が広がっている。そういえば、祖父母がよく連れて行ってくれたが、最近は全く行ってなかった。夏の真っ只中だった。祖父母と一緒だった時もそれぐらいの時期だったと思う。
「それじゃあ、私は優太の服を買いたいから、また後でね。」
志保は優太を抱えて、百貨店の中に入っていった。
私は、一人志保が教えてくれた文房具店へ入った。そこには、一般的なボールペンやノートなどの実用品とは別に、高級品が並んでいる場所がある。そこに入ると、何人か人が集まっていた。どうやら、私と同じように愛用している万年筆をプロに見せに来たのだろうか。
列に並び、しばらく待っていると、ようやく私の番になった。目の前には、私よりは明らかに年上であろう方が立っている。名札には、一ノ瀬と書いてあった。この方が、志保が言っていた万年筆のプロ、ペンドクターなのだろうか。
「こんにちは、予約されていた渡辺様ですね。」
一ノ瀬さんは、私から万年筆を受け取ると、目を丸くしていた。
「今は見ない型ですね。」
「ええ、祖母の形見なんです。」
一ノ瀬さんは、私の筆癖を見た後、見慣れない工具を取り出し、ペン先の調整を始めた。
私は、プロの技に見とれていた。そして、調整し終わった万年筆を試してみた。すると、以前よりも書きやすくなっている。
「お祖母さんの大切なものだったのですね。あなたに合うように調整致しました。」
「ええ、ありがとうございます。これでまた使い続けられます。」
一ノ瀬さんは、私にお辞儀をすると、次の客の案内をしていた。
私は、万年筆をケースに戻して帰ろうとした。すると、背後から声が聞こえた。
「若いのに万年筆使うのかい?珍しいのぅ。」
そう私に話掛けたのは老紳士だった。どうやら、万年筆の調整を終えた後店で買い物をしていたらしい。
「ええ、商売道具でして…」
「商売道具?なら物書きさんかね?若いのはワープロとかでするはずじゃないのかい?」
「機械には疎くてですね…」
老紳士は、不思議そうに私を見た後、トランクから革のケースを取り出した。それには、大量の万年筆が詰められている。
「ああ、ずっと集めているコレクションだよ。特に舶来品を中心に集めている。」
老紳士は、目の前のショーケースを指差した。そこには、新品の万年筆が並んでいる。
「ここには珍しい品が集まっている。良かったら見てきたらいい。」
老紳士はそう言うと、トランクと紙袋を持って帰ってしまった。
私は、ショーケースの万年筆を見ていた。今まで店で買う事がなかったからか、こんなに種類があるとは知らなかった。今まで見た黒軸のもの以外に、カラフルな色の軸がある。私は、その中から着物と同じ深緑の万年筆を用意してもらった。
「こちらの商品は、ペン先の種類が豊富なんです。」
太字なら宛名書き、細字なら手帳を書き込むのに最適なんだとその店員はおっしゃっている。
「ペンクリニックにご予約されていた方ですね。」
「ええ、形見の品を直してもらいました。」
私は、その万年筆を見せた。今は余程その型は珍しいのか、その店員も私がそれを持っている事に驚きを隠せない様子だった。
「万年筆以外にもインクの種類も数多く取り揃えています。」
店員の目線の先には、インクのボトルが並んでいた。
「黒やブルーブラック以外に、色々なカラーインクを取り揃えています。」
私はその中から桜色のインクボトルを手に取った。私というよりも、志保に合いそうな色だ。
「よろしければ、見本もご用意致しますが…。」
店員はそう言いながら分厚いファイルを持って見せた。確かに綺麗な色だ。志保に買ったらきっと喜んでくれるだろう。
結局私は、新しい深緑の万年筆と原稿用紙と便箋、それからブルーブラックと桜色のインクを買って店を出た。普段こんなに物を買う事はないが、たまにはこういうのも楽しい。私がそう紙袋の中身を見ながらにやついていると、同じように紙袋を持っている志保と出会った。
「あれ、遅かったわね。買い物もしてたの?」
「ああ、ちょっとな…」
私達は、近くにあった公園で一休みする事にした。
優太はそこでずっと遊んでいる。私達はベンチに座って一休みしていた。
「それで、服は買えたのかい?」
「うん、買えたよ。」
志保も紙袋を持ちながら笑っていた。きっと充実した時間を過ごしていたのだろう。
志保は、優太を見ながらこんな事を呟いた。
「茂は優太はこう育ってほしいっていうのはある?」
私は優太の後ろ姿を見ながらこう答えた。
「無事に大人になってほしい、かな。死出山では大人になれなかった子供も多かった。同級生の中にも亡くなった子が居た。私がここまで生きて来れたのも偶然に過ぎない。優太も、その中で大人になってくれたなら、それでいいかな…。」
すると、志保は私の肩に寄りかかってきた。
「茂も優太の親だからね?一緒に大人になるまで面倒見ようよ?」
「ああ、その偶然の連鎖を造るのは私達かもしれないな…。」
優太が大人になれるのか、その時に私が生きているのか、誰も知らない。だが、今この時に二人を支える事は出来る。私がこの瞬間を生きていれば、きっと誰かの生命を繋ぎ止められるだろう。そう思い続けながら過ごしている。
志保は優太を抱えて戻って来た。そして、私は二人分の紙袋を持って、一緒に電車に乗った。
そして、私達は志保の家に帰った。死出山にあった祖母の家にはもう住めなくなってしまった。私は、志保と優太が暮らしているマンションの一室で過ごしている。
私は、志保に紙袋に入っていたインクボトルを渡しに行った。
「ペンクリニックに見てもらったら万年筆書きやすくなった。ありがとう。これはその店で買ってきたんだ。志保にあげるよ。」
志保はそれを見て大層驚ろいている。
「桜色のインクボトル、でもいいの?こんな高いものもらって…」
「ああ、万年筆を貰ったお礼、まだしていないと思ってな…」
「ありがとう、大切に使うね。」
志保はボトルを早速自分の万年筆にインクを詰めている。
「お祖母さんの万年筆と志保に貰った万年筆、それから今日買った万年筆、どれも大切に使わせてもらうよ。」
「そっか…」
志保は自分の万年筆を持って部屋に戻ってしまった。
この万年筆は祖母のもので、私が預かっている。もし、大人になった優太か、その子供が三本の内の一つが欲しいと言えば渡そうかと思う。
私は部屋でテレビを見ていた優太に声を掛けた。優太は、私を見て戸惑いながらも近寄ってくる。
「大きくなったなぁ、優太…」
私は、目覚めたあの日と同じように優太を抱き締めた。これからは、志保と同じように優太とも向き合いたい。その為にも、自分の世界だけではなく人の世界とも向き合わなければならない。
人生は長い旅路だ。過去と未来を紡ぐ現在を、私はこれからも生きていく。