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第21話「獅子の神アスレーヴェ」


 波の音。

 海鳥のさえずり。

 極度の疲労から潮に流され、気づけば漂着していた俺の耳に入るはずだった音は、そんなものだろう。


 しかし俺を目覚めから一秒で覚醒させたのは、猟奇的な音だった。


 ――噛み砕いた音。

 ――ずるりと腸がこぼれ落ちる音。

 ――ごくりと丸呑みにするように喉を鳴らした音。


「ッ――!」


 血の臭気が鼻腔を刺激して、俺は危機感から跳ね上がる。

 海水と砂まみれの体で周囲を見回す。

 そこは海ではなく、森だった。そして、


「ゴルルルルルルッ」


 太い喉を鳴らし、威嚇するのは獅子の群れだ。

 木々の陰から、いつでも俺を噛み殺せるようにと窺っている。

 しかし、そんなものはおまけだった。

 何よりも驚くべきことが、眼前に広がっている。


 建造物と見紛うほどの巨大な黒獅子が、落下直前に殺した海竜をむさぼり食っていた。


 体長が十ネール以上ある生き物というのは、俺の知識では竜や象に限られた。

 この黒獅子は顎の大きさからして、竜の頭をひと噛みで砕けるものだった。

 黒毛に竜の血を滴らせた獅子は、獣が無理やり人語を発したような気味悪い声を出した。


「オレも、衰えたものだ。人間の若造に恐れられないとは。それとも、貴様が稀有な器をしておるのか」


 わかった。

 ピンときた。


「ここはあの世か」


 獰猛な獅子にぞっとするより先に現実感が薄れた。

 獅子は口から海竜の鱗の破片を吐き出し、竜の胸元を足で押さえ転がす。

 そして雷光のように輝く金色の瞳でこちらを見張った。


「恐怖に震える小僧ならば、噛み殺す愉しみも味わえるものだが」

「俺が狩った竜を食ってると思えば、愛嬌のない面にも可愛げを感じる」


 獅子はグッグッグと不気味に唸った。

 巨体の迫力に恐怖心を煽られる。

 それが笑い声だとわかったとき、不覚にも俺はほっとしていた。


「不敬もいきすぎれば、罰する気にもならんわ」

「そりゃ、どうも」


 言葉を交わすうちに、俺は現実を認識しはじめる。

 意識を失う前と、今の俺を結びつける要素が多すぎる。

 あの世と現実がこれほどまで繋がっていてたまるか。

 俺は腰にかかった剣の柄をさすって現実逃避を終わらせた。

 改めて周囲を見回すと、懐かしさを彷彿させる風景だった。


「ここはアスレーヴェの森の……聖域か?」


 竜に乗っているときは雲の上を飛んでいたこともあって、全然気づかなかった。


 王都シュテルンヴァイスより北西に位置する獅子の森は広大だ。

 俺が長年を過ごした修練場はどちらかというと入り口付近にあり、それより先は聖域とされていた。

 聖域への立ち入りは固く禁じられている。

 修練場を獅子の森に築くのも、神への不敬だと教会から反対の声があがっていたらしい。

 それでも実行できてしまうあたり、魂影(シャドウ)の担い手の権威は絶対的なものだったのだろう。

 聖域の果ては海岸だし、海から漂着した俺がここで目を覚ましたのは別段おかしなことではない。

 今重要なのは、ここから王都までそう遠くはないということだ。


「さすがアスレーヴェを祀るだけあって、喋る大獅子がいたのは驚きだが、今はいい。お前、図体がでかくてのろそうだが矢避けにはなりそうだ。俺を王都まで乗せていってくれ」


「貴様、次にその生意気な口を開けば、頭蓋を踏み潰すぞ。オレの気まぐれで生きていることを理解できていないようだ」


「お前も、俺の気まぐれで生きているかもしれないぞ」


 俺が剣を抜き出すと、黒獅子は獰猛な瞳をぎろりと動かした。

 前足で竜の死体を蹴り飛ばして大樹に叩き付けると、


「ガアアッッアァァッアアアアァァアアアアアアアアアアアアアアアアッアア!」


 咆哮した。

 木々と俺の全身が音響に震えた瞬間、


「っ――!」


 声量だけで俺は後方に吹き飛んだ。

 数回転してようやく体が静止するも、竜の咆哮に慣れた耳さえ軋み、視界がぐらついた。

 俺はこめかみを押さえ込む。


「ずいぶんと獣らしいじゃないか……」


 それでもなお悪態をつく俺に、獅子は感心するかのように一歩身を引いて後ろ足をたたみ、彫刻のように姿勢を正した。

 突然黒獅子から殺気が消えて、俺は拍子抜けしながら剣を収めた。


「生きておるか。オレの叫びを間近で浴びて息をしていた人間は、初代アルドロ王と、お主だけぞ」


 この黒獅子の異常性にようやく気づき始める。

 竜だの魂影(シャドウ)だの、人知を超越する存在ばかり目にしていて、話す獅子も同列としていた。

 俺は狂った感覚を正すように落ち着いて獅子の顔を凝視すると、また一つ気づいたことがあった。


「お前、王都の神殿にあるアスレーヴェの像とそっくりだな。ラルズがアスレーヴェは白色だったって言ってたが……」

魂影(シャドウ)は、担い手の魂の色に直結する。ルーウェンの魂が無垢な白色だっただけのことよ」

「……まさか」


 思考が煌いて脳裏を走れば、俺の減らず口もここまでだった。


「アスレーヴェか……生きてるとは考えもしなかったな。いったい、何百年前から……」


 俺達はこんな存在が近くにいたと知らずに、修練場で十年近く剣を振っていたのか。

 考えてしまえば、背筋に冷たい汗が滴った。


「オレを知らぬのは、いた仕方ないことだ。魂影の強さとは、担い手がアスレーヴェという存在にどれだけ幻想を抱いているかで決まるのだ。担い手にオレを最強の神だと空想させるには、存在を隠蔽するのが都合よかった」


「よく分からないんだが」


 首を傾げる。

 アスレーヴェは黒い歯茎を見せながら、唸るように答えた。


「オレを所詮獣だと思ってしまえば、途端に魂影の力は脆弱になるのだ。大昔の担い手は山を吹き飛ばしたが、今となっては、そのような絶大なる力は発揮しまい。オレとシーベルクが人間の強弓で体を貫かれるようになったあたりから狂い始めた。担い手は子孫に、オレたちが神であると教え込んだが……」


 担い手の戦いは歴史書で派手に盛られている一方、つまらない死に方は隠蔽される。

 フォルドは恥じるべき行為だからと言っていたが……。

 本当のところは偶像のアスレーヴェを祭りあげるための手段でもあったのだろうか。


「帝国の魂影(シャドウ)も本体はどこかで生きてるのか?」


 訊くと、アスレーヴェは忌々しそうに目を細めた。


「恐らく。あの臆病者、陸に上がってくれば噛み殺してやろうものの」


 訊いておきながら、話がずれだしたのを感じたので修正する。


「ラルズという王女を筆頭に、アルドロ国民がお前のせいで苦しんでいる」


 ラルズと魂影(シャドウ)の関係がうまくいけば、問題は全て解決するのだ。


「ルーウェンの娘か。それに関してはオレのせいだというのはいささか、責任転換がすぎるな。魂を融合させる魂影(シャドウ)の誓いとは、オレの意思でも抗えないほどに絶対的なものだ。ルーウェンは誓いを破った」


「それはラルズに関係ない話だろう」


「間接的に関係している。ルーウェンは誓いを破ったことで担い手の資格を失ったと勘違いした。ただの人になったと思ったからこそ、奴は子を成すことをひかえたのだ。まさかオレの魂影(シャドウ)が消滅したとは、露ほども考えていなかったのだろう」


 説明はピンとこなかった。

 しかしさすがに魂影(シャドウ)をやっていただけあって、国政をそれなりに把握している。

 何より気に食わないのはこの獅子、この国に希望はないと嘆くような声音だが。


「ラルズを救ってやりたい」


 俺は獅子の心に訴えかけるように、強く言った。


「オレも、シーベルクの眷属にいいようにやられるのは本意じゃない。だが、オレはもうアルドロ王族の魂には入れぬ。誓いとはそれほどまでに重い」


「なら、俺の魂なら入れるのか?」


「無理だ。神獣だったオレは初代アルドロ王に神の魂を与えた。それによって初代の魂に魂影(シャドウ)を宿す器ができあがり、血族にまで受け継がれているのだ。もはやオレにはこの肉体に宿る獣の魂しか残っておらぬ。お主の魂を昇華させることはかなわん」


 結局、手詰まりなのか。

 ラルズが日々叶わない願いに望みを託していたと思えば……。

 虚しくなって、俺の表情に悲壮が漂った。


「どうにもならないのか」


「ならぬ。しかしながら、ラルズが魂影(シャドウ)を纏う器をもっているのは確かだ。手順を踏めば、担い手の真似事くらいはできるようになるだろう」


「教えてくれ!」


「主人の言葉を理解できる獣に誓いを立てさせるのだ。さすれば、その獣が死に、魂が肉体から離れたとき、それは魂影(シャドウ)となろう。もっとも、神でもない魂影(シャドウ)の恩恵などしれておろうがな」


 スピールズを真っ先に思い浮かべる。

 が、まさか俺とラルズがそのような残酷な行為に及べるわけもない。

 大体、魂影(シャドウ)は空想の強さだと知ってしまえば、飼い獅子のスピールズを纏っても大した力は得られないだろう。

 魂影(シャドウ)はどうしようもない。

 と諦めてしまえば、ふと俺の脳裏に妙案が浮かんだ。


「アスレーヴェ、今にも王都に帝国軍が迫ろうとしている。だが、耐え忍ぶことができたら戦況は一変する。お前の力を貸してほしい」


「……ふん。シーベルクが戦場を飛んでいるのなら落とすのもやぶさかではないが、そうでないのにオレが介入するなど、みっともない足掻きができるか」


「ああ、そうかよ」


 分かったのは、アスレーヴェが戦うことに制約はない。

 皇帝クラークが俺と剣を交えた時、魂影(シャドウ)を纏わなかったのと一緒だ。

 誇りや名誉が邪魔をするのだ。


「若造よ、立ち去れ。シュテルンヴァイスまでは、オレの同胞の背を貸してやる」


 木々の陰にいる獅子たちはこうべを垂れるように首を動かした。

 それを、俺は首を横に振って拒絶する。


「ふざけるな。俺はお前にこいと言ってるんだ」

「物わかりの悪い男よ。見所があると寛大な心で生を与えてやったというのに、自棄から捨てるというのか」


 アスレーヴェの黒い歯茎が剥き出しになり、象牙のような牙が奮い立った。

 俺は一切臆することなかった。

 鞘から引き抜いた刀身で木漏れ日を反射させる。


「お前も勘違いしてないか。ついさっき、お前も俺の気まぐれで生きていると言っただろう」


 奴の黄金の瞳が光り輝き、殺意が俺に激突した。


「よくぞ言った――その空っぽの頭噛み砕いて、犬の脳みそでも詰めてやる!」


 濁った怒号とともに、アスレーヴェは身を乗り出した。


 その動作だけで、これからなくなるらしい脳に危険信号が走り続けていた――。

 

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