5月28日
何かが音を立てた。存在感を知らしめる太い音と今にも消えてしまいそうな高い音。その二つが共存する。半音でも高くなれば掠れそうで、それでも響き渡る。
ガチャンとでもなく、ポトンでもなく、シャンと。渦中に取り込まれることなく、確かに我を保ち、音を放つ。
たった一秒の間の小さな物音がこの部屋という名の世界の全てを震わす。ミントの清涼感を憶えて、落ちていた枯れた葉を蹴る。柚子のような苦さと酸っぱさを憶えて、レモンを描く。
硬い体を動かして、不具合を探す。何かにコントロールされた勘がその居場所を知らせる。きっと、いや、絶対ピエロだ。この空間を支配する、木製の古びたピエロ。
ピエロの左腕と胴体がいつもより大きく離れている。バネで繋がれ同じ姿勢をキープしていたはずだが、バネが錆の重さで伸び切り、その胴体との接続を断ち切ろうとしている。
見てみるとそのバネは簡易的に接着剤のみで接合され、錆も一緒に固定されていた。硬化した透明な部分には錆が浮き出ている。そこだけでなく、錆が全体に回っている。あまりにも生々しく、腐り果てている。鍾乳洞のよう。壊れかけの水道が荒ぶった時の水飛沫の残り香。前任のやってきたことが後任の自分にツケとして回ってくる。
手を伸ばし、左腕に触れる。傷をつけるわけには行かない。自分がここに配属された使命はこのピエロの存在を守り抜くことと、この部屋の整理を行うことだから。それしかないのだから。
荒い触感が年月を知らせる。優しく、生暖かく掴むように下から掬うと、木の破片が手にこぼれ落ちる。どこから飛んできたのかわからない粉も舞う。バネの接合部分を丁寧に外す。それを片手に持って置き場所を探す。
この部屋に綺麗に整理された場所はなく、粉が散らばり、シャラシャラとしている。光は一縷しかないのに、影はどこにでもある。やけに視界が悪い。どんな些細な煌めきも持たないように見えたところを、手で払い、一度置く。
また空気が震える。はっきりとした音は持たなかったが、細やかな揺れを感じる。ピエロの方を見たら、バネが落ちていた。反動で微かに浮いたり、沈んだりしているようにも見える。拾い上げて、木片の隣に並べる。
とりあえず、物を探す。どうすれば、壊すことなく固定することができる?薄暗い作業部屋には誰もいないが故に、だれも欠伸をせず、張り詰めた空気が漂う。張り詰めた空気も日常と化して、その常に疑いを持たなくなる。何も思わずにいる。
使えそうな物、使えそうな物。
物で溢れかえったこの部屋には何でもあるようで何にもない。転がっているドライバーもペンチも、レンチもハンマーも錆びついて、使い物になるかは怪しい。転がっているネジはひん曲がっていて、新品のネジもバネも見つからない。
また並べたモノたちに目を落とす。
ピエロの腕は木でできていて今にもごっそりもげそうなぐらいに、劣化している。その様といえばひどいもので、木の繊維はまた今もポロポロとこぼれ落ちている。加えてその赤い塗装はやんわりと剥げ、色はくすみ、息を吹きかけてももう飛ばない埃を被りながらポツポツと残っているのみ。まだ胴体に接続されている右腕の塗装は青く残っているのに。
近づいて右腕を見てみると、遠くからははっきりと見えた塗装も一部隙間があることに気づく。気になって木に軽く触れてみると身が詰まっている感じがする。その重さでバネは伸び切っているが、錆びてはいない。かろうじて胴体とのつながりを確保している。
この部屋に木がないが故に左上の木を変えてやることはできないから、せめてもの詫びにと塗装をし直す。転がっていたスプレーをとって、シャカシャカと振る。もう残りが少ないようで弱々しく色が現れる。
さっきよりはマシだろう。
こういうのはこういうのでマシだろう。
なんか味がある。今最近のくすみカラー。
また仕方なく使えそうなものを探し始める。はっきり言って何にもない。が、どうにかしないといけない。背くわけにはいかないのだから。バネを固定する、バネを固定する。何を使えばいいのだろう、ちょうどいい凹凸がないかを探す。凸でも凹でもいい。バカだからわかんない。ああ、ああ。
劣化し、余韻を帯びたボルトを見つける。ピッタリではないが、そのくるくるとした部分にはバネがしっかりとハマりそうだ。渦中の頭が急にはっきりと意識を表す。
試しに巻きつけてみようとするが、バネのサビが邪魔をして、うまくはいかない。サビを取ろうと思い、思考を巡らす。何を使えばいいか。また同じループに入る。続いていく。どこにも出口はない洞窟。卑屈にも秘窟。
考える。文明の利器を使って。とりあえずクエン酸でも重曹でも、歯磨き粉でもいいからと探す。結局見つかったのは歯磨き粉だけ。錆が落ちるのかどうか確証は持たない。
一番弱い錆落とし。それでも仕方がない。自分という名前の神に貶められてこの姿。それよりは価値があって、意味がある。
細っちいバネに、ごわつく手を押さえながら、磨いていく。対して落ちないが、少しずつ落ちていく気がする。そうでもないとやっていけない。変わっていっているのかは知らないし、知りたくもないが、確かに落ちていっているように感じる。ただ、感じる。だけ。
思い出を磨くように、これまでの無を思いやる。錆は確かにそこにあり続けたという勲章として残り、その錆び方はその年の取り方の美しさと、醜さと全てを重ね続けている。
一層取れたと思ったら、また、ごつごつとした表面が現れる。それを削ぎ取り、捥ぎ取るように。丁寧に磨いていく。幾分の時間が経ったかは知らない。それでもやり続ける。
集中力という言葉を人間はよく使うけれど、自分にとっては関係がない。何があろうとも、言われたことを守り抜き、それをやり続ける。そりゃ何かが弾けて煩わされることもあるかもしれないが、湖底に沈んだかのように暗く、先の光も見えない状況ではとてもじゃないけれどあるとは思えない。
全てが無の表情のまま存在し続けるこの世界。広いのか、狭いのかはわからない。広いのはわかっているが、到底それを知ることはできない。まだ頼れるものは見つかっていないから、せめてでもと、捨てられないよう心がける。
チリンチリンとベルがなって、誰かが入ってくるのを知らせる。今日は奥さん。なんの変哲もないいつも通りの奥さん。華奢な体に、華奢な顔。これを人間は美しいというのかなと思う。
はいはい。体を動かし、いつもの場所に動く。いつもと違うのはピエロが壊れかけていること。進んでいく。




