五話
赤毛の熊は、その大きな口から見える歯をギリギリと噛みしめながら、レア達とイザヤの間に威風堂々と立ちふさがっている。イザヤは、座している場所から逃げる気配を見せない。獰猛な熊の視線がどうやらイザヤの大きな瞳を捕らえているところから、双方がじっと見合っているらしいことが解る。レアとアルフォード、そしてイーストも細心の注意を払って息を潜めながら、できればこのまま何事もなく、熊に立ち去って欲しいと願った。だが、祈りも虚しく、森の王者はイザヤに向かって一歩足を踏み出した。と、アルフォードがとっさにまとっていた外套を投げる。それは風を含んで広がりながら、ちょうどイザヤと熊の中間に落ちた。
「?」
熊の目線が草色の外套に移り、においを嗅ぎ始めた。それから口の中に軽く含んだり、爪で引っ掻いたりしている。この隙に、イザヤがゆっくり逃げ出すことを誰もが期待した。しかし当のイザヤは、鉄か鉛にでもなったかのようにピクリとも動かない。いや、恐らく動けないのだろう。そうしているうちに、森の主は、外套への興味を失い、鉾先を再びイザヤに向ける。
「―――っ!」
イザヤの肩がびくりと緊張し、口からおののきがもれる。それを合図にするかのように、森の王者がイザヤめがけて突進してきたその時、レアは、貫頭衣の脇――腰のあたりにあらかじめ縫いこんでおいた小さな袋に手を入れた。そして、直径一寸程度の半透明の珠を取り出し、
〝――〟
精霊エピに対して発したものと同じ歴史を持つ精霊文字を音にしながら、熊めがけて放った。珠は、森の主の威厳をたたえた瞳のそばで、数本の鋭い風の刃となり、甲高いうねりを轟かせながら噛みつくように敵に襲いかかる。
「グオオォォォッッ―――!!」
熊は、赤い体毛に隠れた強靭な爪の尖を振り回して対抗するが、風の刃は、いくら切り裂いても元の形に戻ってしまう。無限の刃に気を取られ、熊がいらだちのあまり足を踏み鳴らし、しきりに哮っているうちに、イーストが、レアの傍を通り抜け、わずかにも動けないでいるイザヤの腕を後ろから掴んだ。
「―――イースト…!」
イザヤは、一瞬逃げ出そうとしたが、束縛する手が見知った人間のものだと判ると、ぎこちない笑顔を向けてきた。孤独な恐怖を体験していた直後だけに、笑い方を忘れてしまってたとしても無理はない。イーストは、震えているイザヤの体を造作もなく持ち上げ、レアとアルフォードのいる場所まで下がった。
レアは、両腕を胸の前に突き出し、念じ続けることによって風の刃を存続させている。銀色の珍獣は、体の三分の一を占めていると言っても過言ではない大きな瑠璃色の瞳をイザヤに向け、高く細い声をしきりにあげていた。イーストがイザヤを地面に下ろすと、珍獣はイザヤの胸に飛び込む。イザヤは、動揺のおさまりきらない体で珍獣を受け止めた。
そうしているうちにも、風刃の効力が次第に薄れてゆく。限界を予期したレアは、術に大半の精神を集中させながら何とか仲間に語りかける。
「イースト、みんなを連れて逃げてくれ。道案内はイザヤがする。」
「冗談じゃない」
イーストは、目を見開き荒い口調で答えた。
「それなら俺が一番後ろにつく。お前らは先に逃げろ。」
「ダメっ!」
大剣を抜いて、レアの前に出ようとしたイーストを、イザヤが引き止める。
「あの熊は傷つけちゃダメなんだよっ。」
「何言ってんだイザヤ、お前あいつに殺されるところだったんだぞ?」
「いつもはあんなじゃないんだっ、ほんとはやさしい熊なんだよっ。」
構わず足を進めようとしたイーストだったが、イザヤにすばやく進路をふさがれ、しかたなくいったん立ち止まる。
「―――」
「……」
しばしのにらみ合いの後、イーストは、一向に引く気配を見せないイザヤの瞳を、赤茶色の双眸できつく直視した。胸の奥をわしづかみにされたような感触を覚えたイザヤは、とっさにイーストから離れる。
イーストは低い声で言った。
「奴を傷つけずにレアを助ける手立てがあるか?」
「――――……。」
イザヤは口をつぐんだ。そんなうれしい方法があるのなら、自分がとっくに試している。
「…。」
イザヤは、唇をかたく結ぶと、白銀の珍獣を抱く腕に力を入れた。珍獣が、その強さに驚いてキイッと細高い鳴き声をあげる。イザヤはあやまりながら慌てて力をゆるめ、白銀のやわらかい毛に顔をうずめた。 イーストは、イザヤの寂しそうな背中を一瞥すると、非情の戦場に向かって歩き出す―――と、
「待ってくれイースト、」
後方からアルフォードが声をかけた。イーストは足を止め、上半身だけ振り返る。
アルフォードは言った。
「もしかしたら――熊を傷つけずに済むかもしれない。」
「何だって?」
「えっ?!」
イーストの問いかけは、イザヤの驚きによってかき消された。イザヤは、見ているものが、こぼれ落ちないようにと手をさしのべたくなるほど両目を大きく開いて、アルフォードに尋ねる。
「どうするの?どうすれば熊を助けられるの?」
「ちょっとね、術を使うんだ。」
「術?」
「そう。――ただ、成功率は決して高くない。だから失敗した時は、…イースト、」
アルフォードは、一度言葉を切ると、意を決して友の名を呼んだ。
「ああ。」
イーストは静かにうなずく。二人の目線が何を語っているかに気づいたイザヤは、迫り来る不安に表情を曇らせた。それを察したアルフォードは、穏かに微笑み、
「ここで見てて。」
言うと、イザヤの頭に軽く手を乗せた。
「…、うんっ。」
すると、イザヤも少し元気を取り戻した様子で、こくっとうなずく。アルフォードは、イザヤから離れると、額に汗をにじませながら術の効力を保っているレアのほぼ横に並んだ。
「―――レア、」
「―――。」
呼びかけに対しての答えはなかったが、アルフォードは気にせず言葉を続ける。
「僕が合図を出したら、術をとめてくれないか。」
「!」
レアの心に乱れが生じた。鋭い曲線を描いていた風の刃が、不規則に歪む。
「―――ッ、」
しかしそれも一瞬のことで、すぐに持ち直した。レアは、集中をとぎらせないように慎重に問う。
「――止めてどうする。」
アルフォードは、熊に目線を送って答えた。
「彼を説得してみるよ。」
「…説得…?」
レアの口許が歪んだ。
「――相手は畜生だぜ?」
レアは、精一杯皮肉のこもった口調で言った。前方には、消えてはまた現れる敵を血走った眼で追いかけている森の主がいる。牙をむきだしにしてしきりに吠えているため、唾液がところかまわず飛び、威厳ある巨木にはもちろん、若木や花々など、周囲のいたるところに付着している。それは、この森の秩序を乱す侵入者への憤怒でもって成せる狂気。これを諌めるには、もはや、目の前の敵が、誇り高いその一撃によって倒れること以外にないだろう。
「―――――」
レアの脳裏に、先刻見た森の風景がよみがえる。ゆったりとした流れと水の甘さが特徴のカクーニ川の浅瀬で、魚を捕る主の姿。これまで、幾度となく森を訪れたが、彼が、理由の無い怒りにまかせて殺生を行うところなど、今まで見たことがない。
―――そう、ただの一度も。
「――ここは俺ひとりでいい。あんたはイーストとあのチビ共を連れて逃げろ。」
効力の落ちだした風の刃を何とか形づくりながら、レアは声をふりしぼった。しかし、アルフォードがその場から移動する気配は感じられない。
「…っ、早く行けっ!」
いらただしげにレアが叫ぶ。だが、アルフォードは瞳を一度伏せただけだ。横でレアが舌打ちするのを聞きながら、アルフォードは物静かに佇んでいる。
「彼を、殺すのかい?…それとも――、」
「!」
唐突な問いに、風の刃がかすかに揺らぐ。
「…あんたには…関係ない…っ。」
突き放すように吐き捨てたレアを、アルフォードは、強い意志を帯びた目で見据えた。
「…水の精霊王フェリアスに属する術の中に、興奮した獣の心を慰められるものがある。――試してみたいんだ。」
「……―――」
視線を合わせなくとも解る。アルフォードの緑の双眸が、レアをまっすぐ捕え、そして、決断の時をじっと待っていることが。
「……。」
レアは一度まばたきをし、アルフォードと目線を交えた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに瞼を伏せ、再び前方の荒れ狂う熊に意識を集中させる。
アルフォードは、直立の姿勢をとって左手で拳をつくり、右手でそれを包むと、ささやくような声で律文を発した。
「水域の明君フェリアスよ、古の誓約を以って、我が手にその大いな る加護を与え給え。―――レア。」
〝―――――――――――〟
レアは、返事をする変わりに精霊文字を音にし、ゆっくりと両手を下ろした。
少しして、赤毛の熊を翻弄させていた風の刃が空気に散ってゆく。視界の開けた森の主が、充血した目をレアとアルフォードに向け、肩を激しく上下させながら突進してこようとしたその時、アルフォードは懐から小さな瓶を取り出し、木製の蓋を開けると、中に入った液体――聖水を熊の足元にまいた。熊は小さく唸るとその場に立ち止まり、聖なる水が染み込んだ地面に鼻をこすりつけて、においを嗅ぎはじめる。
「…清廉にたゆとう水の流れよ、彼の荒ぶりし心を鎮めたまえ、その左手に持つ水の鏡に彼の心を映し取り、すべての憂いを清めたまえ。」
律文が完成すると、先ほど地面にまいた聖水が白く閃いた。赤毛の熊は、不思議そうにその光景を眺めていたのだが、時が経つにつれて、次第に顔つきがやわらかく変化してゆく。双眸には、主としての毅然さと、森を護るものとしての慈愛に満ちた輝きが戻り、いつのまにか呼吸も整っている。怒気のあまり逆立っていた赤い体毛も、今では、森を吹き抜ける風にゆるやかにあおられている。やがて主はゆっくりと立ち上がると、アルフォード達に背を向け森の奥へ姿を消した。イザヤは元気に手を振りながら、イーストは剣を鞘に収めつつ、アルフォードは笑顔で外套を拾い上げ、レアは遠くをみはるかすように、四人はそれぞれの想いを抱いて、悠然と地面を鳴らす森の主を見送った。
次回更新は、7月16日0時です。