三話
あいかわらず、目の粗い濃紺の麻布を幾重にも重ねたような闇が広がっていた。
時折、湿った木々の隙間をぬうようにして、何かの声と音が聞こえてくる。物陰に潜んでいた獣が、狙いを定めた獲物に向かって飛び掛かかっていく咆哮と、出し抜けに襲撃を受けた何者かの絶叫、そして、何かが裂かれ、噛み砕かれるような不快な音が、自然の摂理に逆らった常闇に響きわたる。そのたびに、背筋に緊張がはしった。幾度耳にしても慣れはしないし、また慣れたい類いのものではない。それでも、今はまだ引き返すことは出来ない。イーストとアルフォードは、新たに気を引き締め、前方を見据える――とその進路が三叉に分かれていることに気づき、立ち止まった。
「アルフォード。」
先頭を歩いていたイーストは、後ろを振り返る。アルフォードはうなずくと、すいと前に出、ちょうど三叉路が交差する付近に立った。 少しして、アルフォードは、左に向かって歩き出す。
「この道を進もう。」
「了解。――おい、行くぞお前ら。」
イーストは、歩き出す前に、呆然としている後方のアドラとダイナンに声をかけた。
「――あ、ああ…。」
兄弟は、ぎこちなくうなずくと、アルフォードより五歩程後ろに従った。ダイナンが、怪訝な表情で、アドラの耳に顔を近づける。
「なあ、どうしてあいつ、安全な道が分かるのかな?」
「――本当にバカだな、お前は」
アドラは小さく舌打ちし、
「分かるんじゃなくて、知ってるんだよ。その証拠に、」
自信に満ちた声で言うと、ダイナンの胸倉を強引に引き寄せた。
「見ろよ、あいつらの服は少しも汚れてねぇ。」
「……。」
ダイナンは、自分達の服と見比べてうなずいた。確かに、誰かのせいでさんざんひどい目にあった自分は置いておくにしても、これまでにすれ違った他の探険者も、例外なく同じような被害に遭っていたことは、彼等の外見の疲れ具合からも疑いようがない。そんな中で、この二人だけが、今までまぐれで無傷だったとは考えにくいのだ。
「それで、一緒に行こうって言ったのかぁ。」
「理由はあとひとつある。」
アドラは、得意気に人差し指を立てた。
「もしも、こいつらの狙いが俺達と同じものなら、隙を見て横取りできるだろ?」
「アドラ兄ぃって、やっぱ頭いいなあ…。」
ダイナンは、四人いる兄弟の中で最も父親ゆずりの白眼を輝かせる。
「今日こそ、魔物を仕留めてやる。」
下唇を舐めながら、アドラは、独り言のようにつぶやいた。
「―――横取りねぇ…」
兄弟の、怪しげな内談に耳を傾けていたイーストの顔は、明らかに引きつっていた。
「誰から奪うつもりなんだか。」
イーストは、後ろを歩くアルフォードにつぶやきかける。 アルフォードは、苦笑で答えた。つられてイーストの唇がかすかにほころんだが、すぐに真顔になって尋ねた。
「それにしても、―――アルフォード、いつものことだが、お前何で 危険のない道が判るんだ?あいつらでなくても不思議に思うぜ。」
問われて、アルフォードは首を横に振った。
「いや、判るというか…、教えてもらっているような気がする。」
めずらしくはっきりしない口調で言うと、そういえば、と人好きそうな顔をイーストに向ける。
「今日、何か用事があったんじゃないのか?お前を呼びに行ってもら った使者が、どこかへ出かける用意をしていたようだったと言っていたけど。」
アルフォードの問いに、イーストはいつもの屈託のない笑顔で答えた。
「ああ、たいした用事じゃないさ。近所のガキ共に、剣の稽古をつけることになってただけだ。後で調整すれば済む。」
「そうか。」
アルフォードは安堵の息をついた。と同時に、まばゆい太陽の光が双眸に突き刺さる。
「―――、」
しばらくの間、濃紺の世界に慣らされていた為、久方ぶりの恩恵を受け止め切れずに、思わず固く瞼を閉ざす。イーストは、その上に片方の腕で目をおおいかくし、陽光を受け止めていた。
「いきなり来たな。大丈夫か、アルフォード。」
「ああ。」
アルフォードは、こめかみの痛みをこらえながら答えた。すぐに視界を確保しようとしたが、まるで、湿った布を上から押しつけられたかのように、瞼が重く、どうもうまく開かない。しかし、不慣れな土地でいつまでも視覚が失われているのは危険なことだ。アルフォードは瞼に手を当て、ゆっくりと周囲の環境にならしてゆく。
「…!」
そうして、光に順応したアルフォードの瞳に映し出されたものは、新緑のいぶき豊かな小さい草原だった。