6瓶目
「んめう(マスター、お疲れのところすまねぇが、例のやつ、いいかい?)」
「んだー(もちろんです。嘉助さんも好きですね)」
例の部屋から戻ってきたマスターに、嘉助が何かをオーダーする。
「あだー(例のやつって何ですか、嘉助さん?)」
「えあ(言っても分かんねえと思うが、いわゆる魔法の粉ってやつよ。そいつを味わった者は、常にそれを体が求めてしまって、無いと分かるともう自分が自分じゃいられねえくらいに暴れまわっちまう。一度知ったらもう後戻りはできねぇのさ)」
「あぅあ……!(そんな危険なものが……!?」
マー坊は驚愕のあまり、開いた口からヨダレがどばばっと流れた。この場合のヨダレは決してお腹が空いているからではなく、勝手にあふれ出てしまうのだ。最近リアルでもたくさん出るので、ヨダレかけは欠かせないアイテムなのである。
そしてマー坊は夕方見た“にゅーす”というテレビ番組のことを思い出した。
その番組では、“まやくいぞんしょう”とかいう特集が組まれていたのだ。とある施設(自分が生まれた病院のようなところだった)にいる患者が、中毒症状で暴れまわっている映像は、幼心に衝撃的だった。
母親はマー坊がまだ理解できないだろうと思っていたらしいが、子供側は案外理解しているものなのである。
“まやく”の効果が切れると、我慢できなくなって狂暴になるらしい。
まさか嘉助も彼らのように突然暴れ出すのだろうか。
「だだ(お待たせいたしました。どちらになさいますか?)」
マスターが持ってきたのは、白い器と、細長いガラスの管が三本刺さった木の置物。正式名称は不明だが、試験管スタンドと呼んでいるそうだ。
「うーむぅー(そうだな、これも捨てがたいが、今日はこっちの気分かな」
そう言うが早いか、嘉助は右端の試験管を手に取り、逆さまにすると中身を白い器に入れ始めた。手の振りが大きく、それは皿の外にもこぼれ落ちる。
嘉助はすぐに吸入器(?)を手にし、器の中身を鼻へ……
「あー!(ダメです、嘉助さん!)」
「ぎゃうっ(ちょ、おま、何しやがる!?)」
マー坊は力の限り腕を伸ばし、嘉助の持っていた吸入器をばしりと打ち落とした。床にはテレビで見たのとそっくりな、白いものが散らばる。
「あーっっ!!(あーっっ!!)」
嘉助が叫ぶ。
もくもくと料理を口に入れていたやっさんが、その声に驚いて喉をつまらせた。慌てて薄いベビー用麦茶を飲んでいる。もちろん、コップで飲むのはまだ難しいので、スパウト・マグである。
教授がカウンターで眼鏡を光らせる。
「あたっ、あたたたたっ、あたーっ!(おうおうおう、一体全体、どうしちまったんでぇ!?)」
嘉助がどこかのヒーローみたいな声を上げる。
「あう、あーうっ!(ダメですってば、嘉助さん! 若いうちからそんなものに手を出しては! 僕らはまだ心も体も未成熟なんですよ。そんなうちからクスリに手を出すなんて、死んじゃったらどうするんですか! 田舎の両親が悲しみますよ!? 大人しく自首してください!!)」
何かの刑事ドラマで聞いたセリフを口にしてみる。
「がーっ!(そいつは聞き捨てならねぇな! 確かに家の周りは田んぼだらけだが、田舎じゃねえってんだ! 一応、関東地方なんだからな!)」
嘉助は両手を上下にぶんぶんと振り回し、その反動でソファーから落ちそうになる。頭が大きいので、バランスを崩すとすぐに転んでしまうのだ。
「めう……(嘉助さん、ツッコむところ、そこじゃない……)」
麦茶で何とか喉の詰まりを解消させたやっさんが、小声で言う。
嘉助の出身地が非常に気になるが、触れてはいけない空気がビシバシするのを感じる。東京から近くても遠くても、どちらにしても彼のプライドを刺激しかねない。
マー坊はその点に関してだけは硬く口を閉ざすことにした。
沈黙は金。
かの名言を、マー坊は若干生後三カ月にして自力で会得したのである。
事なきを得たマー坊は、ようやく本題を思い出した。記憶力がもたない乳児にとっては上出来だと我ながら思った。
「うっ、うっ(忘れてしまうところでした、嘉助さん。そんなものに手を出しちゃダメです! 早いとこ足を洗ってください!)」
「てー!(なに、足を? この足を洗うってのか!?」
嘉助がハッピに似た青い肌着をめくり上げた。
途端にむっちりとした太ももが露わになる。これぞ母乳プラス軌道に乗ってきた離乳食で培った、むっちむちの、かつ、つかまり立ちで鍛えほどよく引き締まった太ももといった具合だ。
隣のやっさんの、ソーセージのようなくびれがいくつもある腕と足とは雲泥の差である。
まだまだ肉が付いておらず華奢なマー坊はちょびっとだけ劣等感を抱いた。
「ううぅぅ~っ(危ないクスリに手を出しちゃダメなんです! ストップ犯罪! ストップ温暖化!)」
「おうっ、おうっ(誰が田舎者の犯罪者だって!? その視力のまだ低い目ぇかっぽじってよく見てみろ!)」
マー坊はまだ0.05~0.08くらいの視力しか無い。それでも一生懸命に嘉助が差し出した白い器の中を凝視した。
すると白い柔らかそうなつぶつぶの上に、色とりどりの粉が乗っている。
あれ、おかしいな。危ない粉は白かったような。
そこでようやくマー坊は自分が何か勘違いしていたことに気付く。
「あう?(嘉助さん、これは一体……?)」
「てててっててーっ!(しーろーいーごーはーんー、ふーりーかーけー|乗≪の≫―せー)」
嘉助はドヤ顔で言葉をメロディに乗せた。やっさんが「まー(江戸っ子気取りのくせにアニメのド〇〇〇んは見るんだ)」と言っているが、マー坊には何のことだかさっぱり分からなかった。
ノリの悪いマー坊を見て、嘉助は気まずげに咳払いをする。その顔は耳まで赤い。
「ごほん、ごほん(まーつまり、あれなんだよ。要は“ふりかけ”ってだけなんだけどね)」
「まーまー(嘉助さん、羞恥心のあまり、江戸っ子口調忘れちゃってるよ!)」
どうやら会心のボケが華麗にスルーされ、動揺しているようだ。
「あぅ(ふりかけ?)」
「うぐしゅ(ご飯に振りかけて食べるからふりかけって呼ぶんだよ。ただの白ご飯がとっても美味しくなるんだ。嘉助さんがかけようとしていたのは鮭、でこっちがおかかと肉そぼろ。この味を知ったら、もう元には戻れないんだ)」
ほっぺたに両手を当てて俯いている嘉助に代わって、やっさんが説明してくれる。
「えー(そんな、もう元に戻れないだなんて、大げさな」
鼻で笑ったマー坊に、やっさんは周囲をぐるりと指差して見せた。
その指を辿ると、BAR Booの客のほぼ全員がこちらを――いや、ふりかけを見ている。その口元はだらしなく開き、尋常じゃない量のヨダレを垂らしていた。
「めうー(ほらね。みんなふりかけに夢中なのさ)」
日本人に生まれてよかったねと言わずにはいられないくらい、赤子は皆ごはんが好きである。だが、そこにふりかけが加わると、ごはんとの相乗効果で、まるで憑りつかれたかのように四六時中ふりかけを求めさまよいだすと言う。
「あーあーあー!(そんなに美味しいのなら、一口だけでも食べてみたいです)」
まだ離乳食が始まっていないマー坊だが、皆と一体感を味わいたい。
だが、無情にもやっさんは目を閉じて首を左右にゆっくりと振り、「ふう(まだ分からないようだね)」と言った。
首を傾げると、やっさんは高速ハイハイでカウンターへ行き、ぷるぷるしながら手を伸ばしてふりかけの入っていた袋を掴む。
そして再び高速ハイハイで戻って来ると、その袋のある部分を指差した。
「はーっ!(なんて書いてるか、分かんないよね。あのね、教えてあげる。このには“七カ月から”って書いてあるんだよ。……ようやく分かったようだね。君はあと4か月も指をくわえながら皆がふりかけを美味しそうに食べているのを見ているしかないのさ。いや、指をくわえなくていいから。今僕が言ったのは物理的に指をくわえるんじゃなくて……ああ、もう、めんどくさい。つまり、まだおこちゃまの君は知らなくてもいい――知っちゃいけない食べ物だってこと。もちろん、僕もね)」
そうか、やっさんはまだ生後六か月だったっけ。
指をくわえながら絶望感を味わっていたマー坊は、やっさんに多大なる親近感を抱いたのだった。
登場人物 ※()内は月齢
・マスター(11)「ふりかけの味……ですか? たいした味ではありませんよ。食べなれた私にとっては、ね」
・マー坊(3)「これがふりかけ……え? 埃? でも一度口に入れてみないことには始まりませんよね」
・嘉助(8)「ふりかけ……それは男のロマン。男の夢。まるで母親のように絶対に裏切らない存在なんだ」
・やっさん(6)「まあ、本当はふりかけ食べたことあるけどね。我が家のお抱えのシェフが作ってくれたやつだけど」