なぜ小説を書くのか。
誰彼は小説が書きたくてたまらない。書いてかいてはネットに公開する。書きたいだけなら、見せることはない。
なぜ公開するのだろう。誰かと繋がりたいから? 誰かに読んでほしいから? 誰かに誉めてほしいから? 誰かに、誰かに……?
……いつか筆を置く日が来る。多くの人にとって、それは間違いのない事実だ。
我々は小学校から高校に至るまででもたくさんの文章を紡ぐ。日記に始まり、読書感想文などを経て反省文やらレポートやら、みたくもない原稿用紙と向き合い、書きたくもない文章で升目を埋める。
書かされることにうんざりして、それでいてなお書き足りないのだろうか。
違う。
書きたいことを書き終えていないだけだ。受動した刺激は創作意欲に変わる。
私は生まれてから常に刺激を受けて生活している。光を浴び空を眺め、ちちははと手を繋ぎ、食べ、テレビをみては漫画や小説を読む。映画も見るし、舞台だって観る。学び、運動し、病に伏せては天井の模様に睨まれる。
なにの刺激も無かった日などない。きっと誰しもそうだ。その刺激を放出したいから人は歌うし、踊るし、絵を描く。そうやって自分を表現する。我々の場合、こうして文章を紡ぐ。
私は文字が好きだ。
でも彼らは、もしも『絵を描くこと』が『文章を書くこと』よりも『簡単』だったなら漫画を書くのだろう。
だから私は彼らが嫌いなのだ。
"これ、この気持ち"をなにで表現しよう、なんて考えたこともないのだろう!
『オタクに嫌われるオタク』と『オタクを嫌うオタク』が存在するのに等しい。
そしてそれは『無知の知』ほどに下らないことだ。なぜそれが大事なのか。
なぜ小説を書くのか。
私は彼らに背を向けている。
私は、背を向けながら彼らを見ては刺激を受けて綴る。そして誰彼は、これを読んでは刺激を受けて感想を書くのだろう。
見てほしい、それだけじゃない。誰かと繋がりたい訳じゃないが、でもよく似ている。
私はいつか、いとも容易く筆を置く。それはどんなときだろう。書く理由が無くなるとき、それは?
なあなれ、君はなぜ小説を書くのか。もし自分の答えを持っているなら、どうして簡単に筆を置くんだい。君は置くよ、置く。どうして?
尋ねたい、その前に刺しておこう。
それは私に言うことでもなければ、開き直るのも好きずきだ。
私は君に考えてほしいから書くのだ。その上でそうなら、なにも文句はないのだ。
さて、ところで。
なぜ君が小説を書くのか、その理由を尋ねたい。