1 がらんどう
己の呼吸音をこんなにも憎んだ事は無かった。呼吸するたびに、ぜ、ぜ、と鳴る喉がひどく疎ましい。
将太は口を押さえ、鳴る音を封じこめようとした。しかしそんな事で隠しきれるわけもなく、手のひらと口の隙間から息は漏れ、逆にうるさいようだった。
冷や汗が背を伝っていく。心臓は早鐘のように鳴っている。奴に見つかるのも時間の問題だと思えた。
弟が不安げな顔で将太の袖を掴んでくる。宥めるように弟の背を撫でさすってやった。弟の背は汗で濡れていた。きっと己も同じだ。
将太は夜陰にまぎれるようにして、樹の幹に背を預けしゃがみこんだ。弟の頭を胸に抱え、ぎゅっと目を瞑る。風に鳴る木の葉が兄弟の恐怖を更に煽った。
兄弟は獣から逃げていた。そいつは現れるなり、その場にいた者達を食い散らかした。
そして奴は、その場からかろうじて逃げ出した自分たち兄弟も今、手にかけようとしている。
あれは獣だ。人の姿をした獣だ。
ざ、と土を掻く音に将太は肩を跳ねさせた。
奴だ。
すぐそばまで奴が来ている。
奴の足音が周囲を徘徊している。
体が震えだす。歯が鳴る。息が上がる。
うるさい、うるさいうるさい。
駄目だ、音を立てるな。音を立てれば、奴に見つかってしまう。
静まれ、頼む。音を立ててはいけない。奴に見つかれば死んでしまう。
死んでしまう。
「見つけた」
ひ、と喉が鳴った。
それと同時、風を切る音がした。そして何かが、ガッと音を立てて耳元に突き刺さった。
将太は視線を巡らせ、耳元の何かを見る。
小刀だ。
逃げなければ。
逃げなければ殺される。
将太は震える脚を叱咤し、立ち上がった。弟の腕を引いて立ち上がらせる。
駆け出す。わき目も振らずにただひたすら駆けた。
奴は追ってきている。足音が迫っている。
背後で音がした。弟が転んだのだ。
「大悟!」
立ち上がらせようとするが、腰が抜けているのか大悟はうまく立てないでいる。足音は迫っている。
大悟は将太の手を払い、弱々しく首を振った。はくはくと口を動かすものの、大悟は言葉を紡げないでいる。涙を零しながら、首を振りながら、震える手で先を示す。
「……置いてなんていけるか」
両親が死んでから、大悟だけが唯一の肉親なのだ。一人置いて逃げるなんて、そんなこと。
足音が止まった。すぐ側に奴が立っている。
「……大丈夫。俺が、まもるから」
将太は弟を背後に庇った。
そいつは瑠璃治安維持部隊乾第壱班の制服に身を包んでいた。随分と若い。きっと大悟とそう変わりはしない。十二か、三か、それくらいだろう。
将太は歯を食いしばり睨み上げた。だがそいつは全く動じもせず、それに、同じ距離を駆けてきたというのに全く息も切らさず、将太の視線を受け止めた。
そいつは腰に差していた警棒を抜き取り、一振りした。カツンカツンと音を立てて伸びた警棒には、血が付着していた。
そうだ。この警棒でこいつはあの場の皆を殺したのだ。
途端、歯がガチガチと鳴りだす。必死で奥歯を噛みしめ震えを殺そうとするが、それでもなお震えはやまない。
こちらに向かって奴が歩みを進める。目の前で歩みを止め、警棒を振り上げた。
「将兄……!」
ぐん、と背を引かれて将太は仰け反った。大悟が立ちあがり、将太の背の布を引いている。
「しょうにい」
鸚鵡返しに、そいつがぽつりと呟いた。上げていた手をゆるゆると下ろす。
「もしやあなたは、しょうたと仰るのですか」
何の感情も読み取れぬ、平坦な声音で奴は言った。
唐突な質問に、将太はぽかんと奴を見上げる。
こちらを見おろす奴の顔には、見事に表情が無い。制帽の下の真黒い瞳にも、一片たりとも感情らしい感情は窺えなかった。
うつろな目をしている。
まるで、がらんどうの目だ。
「…………だとしたら、何だ」
首肯と共にようやく発した声は、情けないぐらいに掠れていた。
「そうですか」
奴が僅かに俯く。一つに束ねた夜色の髪が揺れる。変な色だと将太はぼんやり考えた。
「まもると、仰いましたね」
言いながら奴は制服の懐を漁った。取り出した小刀を、将太の側に投げて転がす。
何だ、と将太は視線で疑問を投げかけた。
「どうぞ」
と、そいつは警棒の先で小刀を示した。
「まもるのでしょう。まもりきって、みて下さい」
言うなり、奴は大きく踏み切った。咄嗟に将太は身を小さくする。チ、と髪を掠めて頭上を何かが横切った。
それが警棒だと気付くなり、血の気がサアと引いた。目の前の小刀を引っ掴み、大悟の手を引いて転がるように走り出す。