後篇
来る時は勢いで飛び出してきた分、広くて明るい道を選択してきたのだが、帰るとなると少し勝手が違った。
来た道を逆に辿ればいいだけの話なのだが、どこの角を曲がったとかが曖昧なのだ。持ってて安心スマートフォンとばかりに、ポケットからスマホを取り出しルート案内のアプリを起動する。新居の住所を入力すれば、現在位置と目的地がピンで示され、そこを繋いで一本の線が浮かび上がった。
歩きスマホはよろしくないが、確認しつつ歩くのは許してほしい。そんな気持ちで、亮吾はチラチラと画面の地図を見ながら歩いていく。のんびりと帰路につく中、前方から、足音も立てずに歩いてくる人影があった。
「おや、松野さん。こんばんは」
すれ違いざま、聞こえてきた声にハッとして顔を上げる。人好きする笑顔を浮かべた男が足を止め、こちらを見ていた。
「こんな夜更けにどうされました?」
あの部屋を仲介した不動産屋の男だ。以前見たときと同じ糊の効いたスーツ姿で、どこか胡散臭い笑みを浮かべている。
「え、あ……こ、こんばんは。……いや、その、ちょっと夜風に当たりに……」
亮吾が引き攣った笑みで応えると、不動産屋の男は深く頷いて彼らの新居があるマンションの方向へ視線を向けた。
「そうですか。……お部屋の住み心地は、いかがですか?」
不動産屋とその客。ごく普通の会話のはずなのに、なんだか居心地が悪い。曖昧な返事を返す亮吾に、不動産屋の男は嫌な顔をするわけでもなく口角は緩く上がったままだ。
「柱のあたりが、少し賑やかだったりしませんか?」
「え……」
亮吾が息を呑んだ瞬間、男はそれ以上何も言わず、「では、失礼します」と頭を下げ、闇の中へ消えるように歩き去ってしまった。
――――なぜ?
最初に浮かんだのは、疑問。
(なぜ?)
「…………」
グルグルと、グルグルと頭の中をあの不思議な出来事が回る。
――――男は、あの柱の正体を知っている。
確信が恐怖へと変わり、亮吾の身体はガタガタと震え始めた。
□
彼は本業のウェブライティングを完全に放り出し、狂ったようにパソコンの画面に齧りついていた。調べる対象はただ一つ。あの薄笑いの不動産屋と、この物件の過去だ。
事故物件を扱うサイト、地元の古い掲示板、SNSの過去ログ……。神経をすり減らしながら検索ワードを打ち込み続ける。
しかし、いくら調べても決定的な情報は出てこない。不動産屋の会社名は実在するものの、亮吾が物件を紹介してもらった営業所以外のスタッフ紹介や物件紹介をかねたブログなど全てを目を皿のようにして細かくチェックしても、あの男の名前どころか見切れた姿一つ、見つけることはできなかった。
さらに彼を加速させたのは、大家に思い出してもらった過去の住人が勤めていた会社の名前をネットで検索しても、出てくるのは微妙に名前が違ったり、所在地が違ったり、業種が違ったりとここだというところが見つからないのだ。
記憶違いということもあるだろう。だが、三件全てがそれで見つからないなんて、意図的に隠されたと捉えても仕方がないことだろう。
(……ギチ……、……ギチギチ……)
亮吾の焦りを嘲笑うかのように、リビングの柱から響く音は、より大きく、より生々しくなっていっていた。今ではもう、何かが内側から爪で引っ掻くような音まで聞こえる。亮吾にしか見えない柱の歪みも、確実に広がり今はくっきりとヒトガタだ。
「ねえ、亮くん。いい加減にしてよ」
背後から聞こえた声に振り返る。
週末らしく小洒落た装いの有純が呆れた顔をして立っていた。
「今日こそ出かけようって約束したじゃない。ジミーチュウ買ってくれる約束したよね。ルブタン買うより安いから、そっち買うって言ったの亮くんだよ」
立腹する有純より、彼女が着ている服に目が行く。見たことがない柄のような気がして、いつの間に買ったのだろう。そんな場違いなことをぼんやりと考えていた。
「ねぇってば!」
反応が薄い亮吾に焦れた有純の声は大きくなり、その責めるような強い声に亮吾の意識が引き戻される。
「今は……」
(知らないワンピースに、……知らない形のバッグ。有純って、こんな髪型をしていたっけ……)
ゆらりと立ち上がった亮吾は、その鈍い動きからは想像つかない力強さで有純の肩をしっかりと掴んだ。
「今は、買い物なんかより、あの柱だろ」
「ちょ……」
掴まれた痛みに顔を顰めた有純だったが、口から出かけた文句はギラギラとした亮吾の瞳を間近に見て、言葉になることなく空気に溶けた。
「コレだけ探しても何も出てこないって、逆に怪しいし。あの不動産屋、やっぱりおかしいんだよ」
「ちょっ、やめ」
ゆっくりと静かに、落ち着いて見えるのに亮吾の目は、確実に狂気をはらんで有純を捕らえている。瞳の黒い部分がまるで猫の目のように大きく開いた気がした。
「ひっ……」
恐怖に一歩身を引いた有純だが、彼女が下がれば下がった分、亮吾が一歩前に出るので結局距離は変わらない。
「絶対、絶対、何かを隠して」
「やっ……いい加減にして!」
有純は、今にも鼻先に噛みつかんばかりに顔を近付けてきていた亮吾を力一杯突き飛ばして二人の間に距離を作った。
「……有純、なんで……あの柱の音、お前も聞こえてるだろ。中に、何かがいるんだよ」
「音なんて、ただの家鳴りで。リフォームしたばかりの木材が馴染んでないだけって、ネットにも書いてあったじゃない」
酷く傷ついた顔をして訴える亮吾に対し、有純は、強気に言い返す。
「もう、なんなのよ。いい加減にして」
そして、大きなため息すら派手に吐いてみせた。その態度にカチンときた亮吾は声を荒げる。
「ネットに書いてあることが全部正解だとは限らないだろ!」
「じゃあ、不動産屋のおじが見つからないのだって、そういうことでしょ」
「なっ」
再び伸びてきた手が有純の肩に触れる前に、彼女は彼の手を振り払った。
「やめてっ」
「……っ!」
「マジ、最悪」
亮吾に掴まれていた部分に残った皺を引っ張って押さえつけ、気持ち皺が薄くなったことを確認してから彼に顔を戻す。
「私、出掛けるから」
ツンと鼻をとがらせ、やはり亮吾には見覚えのないバッグを手に部屋を出ていく。彼女の姿が完全に視界から消えるまで、茫然と亮吾はその背を見送った。
「……」
一呼吸置く間もなく玄関のドアが閉まる音がする。
静まり返った部屋に一人残された亮吾の頭の中は、有純に対する何故で埋め尽くされていた。
どうして有純はわかってくれないのか。
あの柱から聞こえる異常な音が、あの柱から漂ってくる生臭い匂いが、どうして平気でいられるのか。
狂っているのは自分ではなく、現実から目を背けている有純のほうではないのか。
世界中で自分だけが孤立してしまったような絶望感と、有純への激しい苛立ち。
黒く渦巻き始めた悪感情が、亮吾の中で密度を増し大きく膨らんだ、その時。
(……ミチ……ミチチチチ……ッ!)
激しく鳴り響く音に、驚いた亮吾は弾かれたように柱を見た。
グネグネと白い壁紙が波打ち、膨らみ、歪み、最後は内側から引き裂かれるようにザリッと音を立てて裂ける。
「あ、……ああ……あ……」
その裂け目から、何かが覗いていた。
「ひ、あ……っ」
じっとりと濡れた人間の眼球。それも一つではない。無理矢理に押し込められたような無数の充血した目が、壁の隙間から亮吾を狂おしく見つめ、蠢いていた。
「あああああああああああああッ!!」
亮吾の鼓膜を引き裂くような悲鳴が、誰もいない無機質な部屋に木霊する。
ぐにゃりと、誰かの視界が歪んだ。
◆◆◇
両手いっぱいに買い物袋を抱えた有純が、帰宅したのは夕方すぎのことだった。
玄関の前に立つ彼女の心は重い。
――――亮くん、まだ血走った目で柱の文句を言っているのかな。
この家に引っ越してからの亮吾は、心のバランスを崩しているように見える。
出掛ける直前の亮吾も怖すぎて、強がらなければ、限界が来てしまうと頑張って声を張って抵抗した。
(これ以上、こんな生活が続くなら、別れることも考えないといけないよね)
有純と亮吾は、『令和のニューワーカー。孤独を埋めるニュービジネス、配信者とリスナーの幸福な関係』という企画で出会った。亮吾がインタビューした十数人の配信者の中の一人が有純だったのだ。
仕事だったから、会話を盛り上げようと有純が色々話しやすく配慮してくれたのかもしれない。だとしても、自分の話を聞いてくれる彼に好感を持つのは普通だと思う。
そして、取材が終わったあとも時折、有純の配信に現れてはコメントを残してくれたり、ギフトを贈ってくれたりと気にかけてくれる優しさに、好意が持続するのも当然のことだろう。
そうして、なんとなく繋がった縁にやがて知り合ったキッカケは仕事。な、友人関係となり、そこから交際に発展するまで長くは掛からなかった。出会い方は珍しいかもしれないが、そんなところも令和っぽいとお互いに笑ったものだ。
(それが、まさか引っ越しきっかけでうまくいかなくなるなんて……)
どうしたらいいかと悩みながらドアを開けた有純の目に飛び込んできた景色に、彼女は我が目を疑った。
玄関からまっすぐ見通せるリビングまで。ここ数日、勝手に煤けて薄暗く感じていた家の中が仄かに明るく輝いてさえいるように見える。
なにより、ふんわりと鼻腔をくすぐる香ばしい生姜焼きの匂い。
「おかえり、有純。遅かったね」
ドアが開く音に気づいたのか、キッチンから現れた亮吾はエプロン姿で。昼間のあの狂気じみた形相は跡形もなく、穏やかに微笑んでいた。
「え、亮……く、ん?」
「どうしたの、有純」
驚きに目を見丸める自分を、キョトンとした顔で見るその姿に、懐かしさすら感じる。彼はよく、そんな顔で自分を見つめてくることがあった。
今日までの全部が夢で、自分は白昼夢でも見ていたのかもしれない。
そう現実逃避したくなるほど、彼女の前に立つ亮吾は、有純が好きになった頃の亮吾だった。
「……あの、その……お昼は、怒鳴ったりして、ごめん……」
「いいよ、僕の方こそ神経質になりすぎていた。ごめん。有純の言う通り、ただの家鳴りなのにね」
「亮くん……」
「二人してごめんして、もうこの話は終わり。そろそろ帰ってくる頃かな。って思ってさ。肉があったから、生姜焼き作ったんだ。冷めないうちに食べよう」
亮吾は有純の手から荷物を受け取り、優しく頭を撫でた。それは、有純がずっと望んでいた理想の恋人の姿そのものだ。
いつもなら自分の話ばかりの亮吾が、熱心に有純の買い物の話を聞き、お茶を淹れ、細やかに気遣ってくれる。しかし、食事が終わる頃、有純の胸の奥に、得体の知れない違和感が芽生えていた。
(……何かが、おかしい)
目の前にいる男は、間違いなく亮吾だ。声も、顔も、仕草も同じ。けれど、何かが決定的に違っていた。彼は会話の合間、瞬きを全くしていない。そして何より、あの奇妙なところで神経質で綺麗好きだった亮吾が、テーブルに拭き残された汚れに気がついても一瞥しただけで改めて拭き取ろうともしないのだ。有純は、昼間あれほど亮吾が恐れていたリビングの柱に目をやった。白い壁紙に、小さな裂け目が見える。昼間はあんなもの、絶対になかった。
「ねえ、亮くん。あの柱の傷、どうしたの?」
「傷?」
取るに足らないことのように受け止め、答える彼の声は優しい。優しいが、どこかセリフめいていて。そして、彼女を映す瞳が作り物めいた潤みを湛える。
「え、気が付かなかったな」
まるで、艷やかなガラス玉のような……。
「でも、もうあの柱のことは、気にしなくていいよ」
恐怖が一気に有純の背筋を駆け上がった。
――――この人は、誰?
冷たく重い鉛の玉を飲み込まされたような不安と恐怖の中、亮吾を前に有純は必死に箸を持つ手が震えないよう強く指先に力を込めるのだった。
□
翌日、亮吾がゴミ出しに出た一瞬の隙を突き、有純は震える手でスマートフォンを操作した。あの不動産屋について、そしてこのマンションの過去について検索を始める。
【〇〇マンション 事故】【リノベーション 隠蔽】……。
「何を見ているの?」
「ひっ……!」
背後から、ぬっと影が伸びた。いつの間にか戻っていた亮吾が、有純の肩越しに画面を覗き込んでいる。
「気の所為だって、言ったのは有純だろ」
亮吾の手が有純の肩にかかった髪に触れ、指で漉く。露わになった首筋が冷たい風を感じて、有純は恐怖に身を硬くし、ぎゅっと目を閉じた。
(殺される)
私、この偽物の亮くんに……!
「……はい、これ。ごめんねのプレゼント」
彼の指が首に触れる。だが、一向に亮吾の手のひらが有純の首に巻き付くことなく。代わりに、細くひんやりとした感触が首筋に触れ、次に独特の重みが首元に加わった。
恐る恐る目を開ける。
「最近、僕のせいで怖がらせてばかりだったからさ」
亮吾はいたずらが成功した子供のような笑みを浮かべ、有純の首に美しいクローバーのネックレスをかけていた。
「仲直りの印。欲しがっていただろ、ヴァンクリ」
あまりに普通で、あまりに優しい恋人の姿。張り詰めていた緊張が一気に抜け、有純は「あ、ありがとう……」と力なく笑うしかなかった。
(疑心暗鬼?)
――――神経質になりすぎて、勘違いをしていただけなのかな。今までの亮くんも、ずっとこんな気持ちで私といたのかな……。
形容し難い不安と混乱。申し訳ない気持ちに薄く唇を噛んだ有純だったが、しかし。亮吾が背を向けてキッチンへ戻った瞬間、彼女は見てしまった。彼の首の後ろ、髪の隙間から覗く皮膚が、人とは思えない色に変色し、壁紙のような不自然な質感に変化しているのを。
「……っ!」
(やっぱり、あれは亮くんじゃない……!)
数日後、チャンスが訪れた。亮吾が「急な打ち合わせが入った」と、どうしても出かけなければならない用事ができたのだ。彼が玄関を出て、足音が完全に遠のいたのを玄関ドアに張り付いて確認する。有純はすぐさま物置に走った。確か、亮吾は修理するための工具とかを段ボールに入れてしまっていた。どの段ボールかは分からないが、片っ端に開ければいい。そうして、一番手前に置かれていた段ボールの蓋を開け、蓋が汚れたクロス補修用塗料やニス、ハンマーやドライバーといったDIYの道具を掻き分けてバールを探す。
「あ、あった……」
目的のものを手に取るとリビングの柱へと向かった。
「この中に、本物の亮くんがいるかもしれない」
ハァハァと荒い息を吐きながら、有純は大きく振りかぶり柱の裂け目にバールの先端を突き立てる。
ザリッともガリッともつかない感触。もう一度と引き抜き、今度はバットを振り抜くように勢いをつけて叩きつけた。
ゴッ。と、一度目より鈍く重い音がして深く爪の部分がめり込む。
「……これを壊せば、全部元に戻るっ」
柄の部分を掴み直し全体重をかけて、力任せに抉り開ける。
ピキッ、メキメキメキッ!
白い壁紙が大きく引き裂かれ、内側の構造材が露わになった。しかし、削り取られた壁の奥から現れたのは、木材でもコンクリートでもなく。
「ひっ……!」
それは、ぎっしりと敷き詰められた、人型とおぼしき何かの肉。
驚愕で息が止まる有純の目の前で、露出した肉がドクンドクンと脈打ち始めた。そして、引き裂かれた割れ目から、赤黒い無数の人らしき手が、生き物のように一斉に這い出てくる。
「嫌、いやああああああああああああッ!」
逃げようとした有純の足首を、冷え切った無数の指が、ガッチリ掴んだ。
◆◆◆
「警察にも捜索願は出しているんですが、未だに足取りが掴めなくて……」
あの日、帰宅した亮吾が見たのは何の変哲もなく、ただ何かがなくなった部屋だった。
「彼女のご両親にも、本当に申し訳ないことをしました」
部屋の中からなくなったものは、有純に関するものだけ。
亮吾は、自分が有純を追い詰めたのだと彼女の両親に土下座する勢いで謝罪した。
しかし、彼女の両親は悲しみと戸惑いのなかに少しだけ、娘に対する呆れが混ざった顔をして亮吾は悪くないと逆に彼に頭を下げたのだった。
亮吾が初めて取材で有純に会った時、彼女は自身を実家ぐらしと説明していたが、実際はその頃からアドレスホッパーとして友達の家やホテル、ゲストハウスなどを点々とする生活をしていたようだ。亮吾が引っ越しをして部屋が広くなり、そこで実家と亮吾の部屋、時々友人宅という比重になったようで、亮吾の知らない有純の一面だった。
雑談系ストリーマーとして活動する有純のライフスタイルは、旧世代なご両親としては受け入れがたい思いがあったのだろう。
定職に就いてほしいという願いを持ちつつ、彼女の働き方も新しい時代の表れなのかもしれないと納得はできないが容認する形で親子関係は落ち着いていたと彼らは亮吾に語った。そして、亮吾も知らなかった有純の写真投稿サイトのポストを見せ、もし金銭トラブルがあったのなら補償するとまで言ったのだ。
その真摯な姿に、亮吾は深く頭を下げ、彼女にあげたものはすべて彼女のものだからと。自分のものは何一つなくなっていないから何も心配しなくていいと伝えたのだった。
(あの日、いったい誰を呼んだんだ……)
有純のSNSの最後の投稿写真。
そこにはピースサインで指先を繋ぎ、星を作ろうとしている誰ともつかない手が写されていた。
早く来て、あなたが来れば星になる。
添えられた文からも、有純が誰かを誘い待っていたことはわかる。背景としてボケてはいるが、特徴的なあの柱が写り込んでいることから場所は亮吾の部屋で間違いないだろう。だが、写真はあくまで手の部分しか写されていないので、この時の有純が誰と一緒にいたのかはわからない。
その投稿を最後に、有純のSNSは更新されることはなく、配信も行われることはなくなった。
亮吾の部屋から彼女の痕跡は全て消え、亮吾が知る限りの有純の友達も、誰一人として彼女の行方を知ることはなく。
何かトラブルに巻き込まれたのではないかという不安と、しかし、亮吾の部屋から自身のものをすべて持ち去っているという観点から自発的行動ではないかという見方がぶつかり、ご両親から家出人捜索願を出してはもらったが、「成人女性の家出は、保護対象になりにくい」言われた言葉がすべてのような気がした。
■
ガランとしたリビングの真ん中で、力なくうなだれる亮吾の顔は土気色に変色し、ひどく憔悴しきっていた。
「本当に気の毒に……。違約金のことは気にしなくていいから、不動産屋さんに話しておくわ」
大家の女性は、亮吾の口から有純が突然姿を消したと事情を聴き、すっかり痩せ細ってしまった彼の姿に心を痛めたのか労るように声を掛ける。
「ありがとうございます。……お世話になりました」
「地元というのはいいものよ。まずはゆっくり心を休めなさい」
震える手で鍵を差し出す彼の手を、握手をするように両手でつつみ込んで鍵を受け取った。
「すみません。長く住みたかったのに……」
「もう、いいのよ。そんな事は」
頑張って。と、彼の肩を撫でる。
亮吾は深く頭を下げると、重い足取りで玄関へと向かい、そのまま静かに部屋を出て行った。
ただ恋人と別れた。程度なら、多少のダメージを受けたとしても立ち直る余裕はあっただろうが、突然の失踪というのは自分を責めてしまうのだろう。一度、親元に戻ると彼は言っていた。
一人残された女性は、「この部屋に越してくると、どうして皆別れるのかしらね」と部屋を見回す。
彼より前に借りていた借主たちも皆、引っ越してきたときは二人だったり、二人になる予定だったりしたのに、出ていく時には一人になっていた。
「呪われているのかしら」
ついそんな奇想天外なことを考えて、ぶるりと身を震わす。
――――カチャリ。
玄関のドアノブが回る音がして、再び扉が開いた。
「おや、間に合いませんでしたか」
見覚えのある男がのっそりと入ってくる。糊の効いたスーツに、どこか薄笑いを浮かべた男。あの不動産屋だった。
「原状回復の立ち会いは、無事に終わりましたか?」
「ええ、今しがた松野さんが帰られたところよ。可哀想に、あんなに仲の良さそうだった彼女さんが行方不明になっちゃうなんてねぇ……」
大家はため息をつき、ふとリビングの隅へと視線を向けた。そして、怪訝そうに眉をひそめる。
「……あら。ねえ、不動産屋さん。この部屋のリビングって、こんな形だったかしら。なんだか、柱が……」
大家が指差した先、北側の部屋の隅に太い柱があった。真っ白で綺麗な柱なのだが、なんだか不自然さを感じてしまう。
不動産屋は、その柱を愛おしそうに見つめながら、くすくすと低く笑った。
「ハハハ、何をおっしゃいますか大家さん。柱は構造上の補強のために、リノベーションする時に新しく入ったじゃないですか」
「あら……そうだったかしら? 年を取ると物忘れが激しくてダメねぇ。あんなに大きなものが増えるわけないのに」
大家はあっさりと納得し、パタパタと洋服の埃を払う。
「まあいいわ。せっかく来てくれたんだし、下の部屋でお茶でも飲んでいかない? ちょうど良いお菓子があるのよ」
「おや、それは嬉しいですね。是非、ご相伴にあずからせてください」
不動産屋は、塗りたてにすら見える柱の輝く白さに目を細める。二人は和やかに談笑しながら、空室となった部屋を後にした。
パタン。と、ドアが閉まる音がリビングに聞こえ、白い柱は残された静寂の中、日の光を照り返し淡く輝いていた。
――――……くすっ。
お時間頂き有難う御座いました。
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