前篇
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夜に後篇が公開になります。
「本当にここで、あの家賃なの?」
パタパタと瞬きした有純は、部屋をぐるりと見回して顔を輝かす。南向きの窓から差し込む陽光が、白を基調としたリビングを明るく照らしていた。
「ああ、掘り出し物だったよ」
亮吾は、運んできた段ボール箱を床に下ろし、軽くなった肩を確かめるように腕を回して肩甲骨を動かす。
(家賃の安さは、魅力だったんだけどな)
艷やかなフローリングの床に立つ有純を見ながら、亮吾は以前に住んでいた部屋を思い出した。
彼の仕事は、ウェブライターである。
職業柄、部屋にこもる時間も長い彼は、長年住んでいたアパートを引っ越しによる住人ガチャで敗北してこちらに引っ越してきた。
普段は雑でおおらかな彼だが、妙に神経質なところがあり、扉や壁を貫通して聞こえてくる生活音にストレスを抱え、かと言って真正面から相手と揉める気概もなく。
そんな悩みを持て余していたころ、打ち合わせ先から帰る途中の道すがら、目に入った不動産屋に天啓を覚えてしまった。
目に入ったということは、そういうことだろう。
抗議をしてギクシャクするより自分が出ていくことを選んだ亮吾は、神の導きとばかりに店を訪ね、そして勢いのまま紹介されたのがこの物件だ。
都心の駅まですぐの好立地なのに、周辺の相場より三割は安いフルリノベーション済みの3LDK。立地込み、一部屋増えての家賃の差が二万強は、コレを逃したら絶対に巡り合えないと、内見したその日に契約を決めた。
家賃を上げても問題ないくらいには収入はある。基本はフリーランスだが、ウェブマガジンの契約ライターとして毎月定期的に仕事をもらっているし、仲介登録しているプラットフォームからも実績評価されて非公開案件を定期的に回してもらっていたりする。
前のアパートは、単なる物ぐさと静かな環境が気に入って出るに出られなかっただけなのだ。
「ねえ、亮くん。あの柱、なんの柱なんだろうね」
有純が、リビングの北側の隅を指差した。
部屋の角、本来なら壁と同化しているはずの柱壁が、異様な存在感を放っている。
幅はちょうど大人の肩幅より少し広いくらい。奥行きは五十センチほど。普通の構造柱にしては太すぎるし、位置も妙だ。
「リノベーションの時に、構造上の補強でも入れたんじゃないか?」
張り替えられた真新しい壁紙の白さが眩しい。
「そうなのかなぁ?」
首を傾ける有純に、この部屋自体の安さに引っかかりを覚えて問うた契約時の会話が思い出された。
『前の住人の方は、急な海外転勤が決まったとかで……ええ』
内見の際、どこか薄笑いを浮かべながらそう語った不動産屋の男。家賃の安さに心理的瑕疵を疑いそれとなく探りを入れた亮吾だが、男は「何も問題ありませんよ」「リフォームは、何代か前の住民の方が入られる前にされたことですし」と、のらりくらりとはぐらかされて結局それ以上は聞けなかった。
引っ越し当日、荷物を運び入れ終わった時、様子を見に来てくれた大家の女性と話す機会を得た亮吾は、うまく話を丸めて家賃の安さや、前の住人について問いかけた。
結果、返ってきた答えはあの不動産屋と大差なかったが、それでもそれなりに納得はできる内容だった。
彼女曰く、内装の古さからなかなか借り手がつかない状態が続き、思い切ってリフォームしたこと。それにより、すぐに借り手はついたものの最初に入居した住人は、引っ越して一年を過ぎた頃、急な組織改編で本社勤務となり福岡に行くことになったと退去したそうだ。その次の住人は、こちらは事情は分からないが半年足らずで出ていったのだとか。その次は、海外赴任だ。引っ越して半年もしないうちに海外赴任が決まったと慌ただしく出ていったらしい。
『本社勤務も海外赴任もいいことだけど、住人の入れ替わりが激しいと良くない噂が立ちそうでイヤなのよね』
確かにそうだ。だから、家賃が安かったのかと納得は出来るが、あの不動産屋の妙な態度が、心の底に小さな棘のように刺さって抜けないでいる。
『貴方はご自宅でお仕事をされている方だと聞いて、これで安心だわ。と、思ったのよ』
明るく笑う彼女に、自分がどう返したか亮吾は覚えていない。
(引っ越しには、金がかかるからな)
有純が気にした柱に近づき、白い壁紙に手を触れてみる。予想外に冷たく、少し驚かされた。
コッコッ。
扉をノックする時のように、軽く曲げた指の関節で叩いてみる。返ってきたのは、いたって普通の壁を叩いた時の音。だが、その時。
(……チ、……ミチ……)
何かが、軋んだような捻れたような微かな音が壁の向こう柱の奥から聞こえた気がした。
乾いた硬いものが擦り合わされたような、骨を鳴らすような。あるいは、何か狭い場所に閉じ込められたものが身じろぎしたような、音。
「……え?」
亮吾は思わず耳を近づけた。すると今度は、新しい壁紙や接着剤の匂いに混じってほんの一瞬、鼻腔をかすめるものがあった。
湿った土のような、腐敗するなにかのような。普段の生活ではあまり感じない独特の臭い。
「亮くん? どうしたの、怖い顔して」
有純の声に、亮吾はハッと我に返る。もう一度、あの匂いを辿ろうと嗅ぎ回るように空気を吸ったが、異臭はすでに消え、新しく張り替えられた壁紙特有の化学物質の匂いしかしなかった。
「いや……なんでもない。ちょっと疲れてるみたいだ」
普段、体を動かさないからだよ。なんて、引っ越し疲れだろうと労ってくれる有純に笑いながら、柱から体を離した亮吾だったが、手のひらには、あの奇妙な冷たさが残っているように思えた。
◆◇◇
深夜二時。有純が隣の部屋のベッドで寝息を立てる中、亮吾は薄暗いリビングで液晶画面に向かい、ライティングの仕事をこなしていた。
書斎兼仕事部屋として使う予定の部屋には、まだ段ボールが山積みで、さらに衝動的な引っ越しだったため光回線の開通工事は順番待ち。急ぎの案件はラップトップでポケットWi-Fi頼りとなっている。
(あー、ここ。『〜だった』が三回連続しててリズムが悪いな。語尾を『〜ではないか』に変えるか……)
カタカタカタ……。
画面上の文字列を頭の中で音読し、引っかかる部分を削ぎ落としていく。
カタ……カタ、タ……タタ。
亮吾の指先がフラットキーボードの上を滑る音だけが微かに聞こえる部屋で、彼が発する音以外の音を彼の耳は拾い始めていた。
(……ミチ……、……カサ……)
ピタリと、亮吾の指先が止まる。と、同時に息を殺した。自分の心臓の音が耳の奥で響く。だが、拾いたいのはその音ではない。
「……」
さらに、耳を澄ます。
(コ、ト……)
「……っ」
やはり、あの柱から音が聞こえてくる。
勢いよく振り返った亮吾は、じっと柱を凝視した。
「……、……」
何度見ても、どれだけ見つめても、なんの変哲もないただの柱だ。
やがて亮吾は立ち上がり、画面の明かりを頼りに柱へと近づいた。
意を決して壁肌にぴたりと耳を押し当てる。
「……」
だが、期待したような音は聞こえず、疑問だけが残る。
暫く耳をつけていたが、結局何の音も聞こえてこないことに諦めて耳を離そうとした、その時。
(……ゴキリ……ッ!)
壁肌から離れかけた耳のすぐ横で、肉と骨が強引にねじ曲がるような生々しい音が炸裂し、目前の柱の表面が内側から歪に膨らんで視界を半分塞いだ。
「〜〜〜〜!!」
声にならない悲鳴を上げ、亮吾は跳ね飛ぶように柱から離れて尻餅をつく。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が全身から噴き出した。
「はっ……、はっ……」
驚き、震え、薄闇の中、柱を見つめるがそこに浮かぶのはただ遠い液晶の明かりを照らし返すよれ一つない壁紙だ。
「はっ……はっ……はっ……は……、……」
柱から目を離さず、後ろへと手探りで後退する。
「……、……あ、ああぁぁっ」
そのまま、ほうほうのていで逃げ出した。
「あっ、ああっ、あすみっ、有純!」
名前を呼びながら、恋人が眠るベッドルームへと飛び込んだ亮吾は、彼女の方を掴んで揺り起こす。
「有純、起きろ。起きろってば!」
「なによ、も〜〜……」
しかし、睡眠不足は美容の敵。な彼女は、顔を顰めながら目を開けようとするがなかなか睡魔が手を離してくれない。
「は、柱から……、柱から変な音がして、何かが、何かがいるんだ!」
「はぁ?」
そこでようやく彼女は面倒くさそうに目を開けた。
「りょーくん、自分で補強って言ってたじゃない……」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「ならネズミとかさー、もー、明日聞くから寝かせて〜」
「有純!」
「おやすみ」
焦る亮吾を取り合わず、有純は布団を頭から被り直すと寝返りを打って彼に背を向けてしまった。
「……っ」
頭の中を駆け巡るのは、信じてもらえない悔しさと、得体のしれない恐怖。
(あれを家鳴りというには無理がある)
だが、もしもネズミとかそういった害獣だったら?
可能性を問われれば、否定は出来ない。
勝手に怖がりすぎて、変な幻を見たんだと言われれば、柱には何の変化も無かったのだからそうかもしれない。
亮吾自身、現実だったと証明できない。
(怖がりすぎて、幻覚を見たとか?)
音はした。確かに聞いた。だから、柱に寄って耳を当てた。
けれど、それで柱が歪んだとか、何かが飛び出そうとしたとか。そんなことを言っても信じてもらえないと分かってる自分もいる。
(引っ越し疲れから、幻覚を見た……が、一番しっくりくるな)
ゆっくりと思考が補正されていく。
超常現象を信じるには、少しばかり大人になりすぎていた。
「コンビニ行ってくる……」
自分に背を向ける有純に言葉を投げかけるが、返事はない。完全に寝てしまったのか、返事をすることすら面倒なのか。
「……」
亮吾は、何かから逃れるように寝室から出た。
恐る恐るリビングに戻ると財布とスマホだけを掴んで外に出る。引っ越して間もない夜に出掛けるのはいささか勇気がいるが、あの部屋にはいたくなかった。
そうして頭を冷やそうと当て所もなく夜道を歩き、自らの言葉通り遠くに見えた明るさに誘われて逃げ込んだ深夜のコンビニで漸く息が吸えた気がしたのだった。
(明るさってのは、人を安心させるんだな)
なんだか間抜けな考えが浮かんで、笑いたくなる。
気持ちが落ち着いたことで、考えもまとまりやすくなったのだろう。フラフラと店内を見て歩きながら、少し前の出来事を思い返す。
(三つ点があると人の顔に見える、脳の錯覚。あれみたいなやつだったのかもな)
部屋の明かりを消していたせいで、液晶モニターからの明かり頼りになって見間違えをしたのかもしれない。そう思うと、大騒ぎをした自分が恥ずかしくなる。小学生や幼稚園児じゃあるまいし、たかだか物音と目の錯覚に怯えるなんて。
(が。有純も、もう少しさ……)
睡魔に自分の主張が負けた悔しさは否めない。とはいえ、怪奇現象だと一緒に震えてくれと言うのもおかしな話なのもわかる。
結局、モヤモヤは別のモヤモヤに転じて消えてはいないのだが。恐怖心を誤魔化すには丁度良く。なんとも馬鹿らしい話だと思考を打ち切った亮吾は冷たい缶コーヒーを買うと、店の外に出でて一気に喉に流し込んだ。




